第1話:テレビの中の猫型オーパーツ
2026年、秋。エジプト・カイロ。
ギザ台地から数キロ離れた旧市街地にある、壁の塗装が剥げかけた安ホテルの自室。
若手考古学者のケン――本名・佐藤健一は、ベッドの端に腰掛け、部屋の隅に鎮座するひび割れたブラウン管テレビの画面を食い入るように見つめていた。
エアコンは古く、唸り声を上げるばかりで一向に部屋を冷やしてくれない。
わずかに開いた窓の隙間からは、絶え間なく行き交う車の排気ガスと、屋台から漂う強烈なスパイスの香り、そしてエジプト特有の微かな砂の匂いが容赦なく入り込んでくる。
ベッドの上に無造作に放り出された発掘用の防塵ジャケットには、今日の予備調査で付着した細かい石灰岩の粉が白くこびりついていた。
それを払う気力すら、今のケンにはなかった。
彼は手に持っていたぬるいミネラルウォーターのペットボトルを口に運ぼうとして、画面から流れてきたアラビア語のニュースキャスターの緊迫した声に、思わず動きを止めた。
アラビア語は日常会話程度しか分からないが、画面の下には英語のテロップが素早く流れている。
『――速報です。エジプト観光・遺物省は本日、ギザの大スフィンクスの背部に位置する垂直坑、通称「ハワード・ヴァイスの穴」の最深部より、年代測定不能な異常な遺物を回収したと発表しました』
画面がスタジオから現地の映像へと切り替わる。
厳重なアクリルケースに収められ、白衣を着た研究員たちに取り囲まれている「それ」が大写しになった。
周囲の地層とは明らかに異質な、鈍く光る赤みがかった金属片。
いや、金属というよりは、高度な樹脂と合金が融合したような、ひどく人工的で奇妙な質感だった。
泥と石灰岩の欠片にまみれてはいるが、そのシルエットは異様の一言に尽きた。
上部には二つの三角形の突起があり、まるで「猫の耳」のように見える。
さらに、表面の泥が剥がれた部分には、古代の象形文字とは全く異なる、現代のプリント基板の配線に酷似した幾何学的な金色のラインが走っていた。
「嘘だろ……」
ケンはペットボトルを取り落としそうになった。
慌てて掴み直したが、水が少しこぼれてズボンを濡らした。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
その形状、その色、その絶妙なチープさ。
絶対に見間違えるはずがない。
それは彼が先週、カイロ最大のバザールであるハーン・ハリーリ市場の迷路のような路地裏で買ったものに酷似していた。
怪しげな露店の親父に「古代猫神バステトの加護がある、特別製の魔除けだ」という適当な謳い文句に乗せられ、相場の三倍の値段で買わされた、自分のスマートフォンの「猫型シリコンケース」の成れの果てにそっくりだったのだ。
だが、そんなことは物理的にあり得ない。絶対にだ。
ニュースが報じている発見場所は、大スフィンクスの背中だ。
1837年にイギリスの軍人ハワード・ヴァイスが、内部に隠し部屋や財宝があると信じ込み、学術調査という名目で火薬とドリルを使って強引に岩盤を掘り抜いた、深さ約5メートルの縦穴。
現代の考古学において、あの穴は単なる「19世紀の破壊の痕跡」に過ぎない。
底は行き止まりであり、そこからさらに下は、数千年もの間、風雨からも盗掘者からも守られ、完全に密閉されていた手付かずの天然岩盤のはずなのだ。
そんな地層の奥底から、なぜ自分のスマホケースが出てくるのか。
「オーパーツ……? いや、誰かの悪質ないたずらか? それにしては、どうやってあんな岩盤の奥深くに……」
ケンは震える手で自分のポケットを探った。
指先が、硬いガラスと柔らかいシリコンの感触を捉える。
ポケットの中には確かに、件の猫型ケースに包まれた最新型のスマートフォンが収まっていた。
安堵の息を漏らす。
俺のスマホはここにある。なら、あれは単なる偶然の産物か、精巧な偽造品だ。
しかし、ニュースに映っている物体は、いくら見ても自分のスマホケースが数千年の時を経て半ば化石化し、とてつもない地圧で変形した姿にしか見えなかった。
不気味な悪寒が、暑い部屋の中でケンの背筋を駆け上がった。
明日、ケンはまさにその「ヴァイスの穴」を調査することになっている。
最新のミューオン透視装置を使って、スキャン助手としてあの穴の底を覗き込む手はずになっているのだ。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
嫌な予感が、胸の奥でどす黒く渦巻いていた。
翌朝。
ギザ台地は、朝から肌を刺すような強烈な日差しと、乾燥した風に包まれていた。
「ケン! 何をぼーっとしている。ミューオン検出器のキャリブレーションを急げ!」
調査チームの責任者である、シュミット教授の怒鳴り声が響く。
ケンは今、大スフィンクスの巨大な「背中」の上に立っていた。
足元の岩盤は、脆く崩れやすい石灰岩だ。
その背中には、まるで巨大な獣が負った癒えない傷跡のように、深さ約5メートルの垂直な「穴」がぽっかりと暗い口を開けていた。
これが「ハワード・ヴァイスの穴」だ。
ケンは恐る恐る穴の縁に膝をつき、下を覗き込んだ。
底は薄暗いが、差し込む朝日でかろうじて様子が伺える。
削り取られた荒々しいノミの跡と、火薬の爆破による不自然な亀裂が見える。
「教授、磁気センサーの数値が少し変です。穴の深部から、周期的なパルスが検出されています。石灰岩の圧電効果にしては、波形が人工的すぎます」
「ただのノイズだろう。気にするな。過去の遺物に関わるなら、些細な異常に惑わされるな。我々の目的は内部構造の解明だ」
教授はそう言うと、他のスタッフへ指示を出すために背を向けた。
ケンは納得できなかった。
タブレットに表示される波形は、一定の規則性を持って、点滅を繰り返している。
気の迷いか確かめるため、ケンは自らのスマートフォンをポケットから取り出した。
通信電波に干渉が起きていないか確認するためだ。
画面の端には、あのピンク色の猫耳シリコンがはみ出している。
その時だった。
『……け……ん……。……そこを動くな、バカ野郎!!』
ケンはビクッと肩を震わせ、周囲を見回した。
風の音ではない。明らかに人間の、それも紛れもない日本語だった。
「教授、誰か穴の底にいますか!?」
「バカを言うな。たった5メートルの底だ。上から見れば誰かいるかどうかなんて一目で分かるだろう!」
確かに、5メートル下の底には誰もいない。
ただの冷たい岩の床が広がっているだけだ。
だが、声は岩盤の内側から、あるいはもっと深い奈落の底から反響して昇ってくるように、次第に明瞭になっていった。
『そこを動くな、バカ野郎!!』
ケンは完全に凍りついた。
その怒鳴り声は、紛れもなく「自分自身の声」だったのだ。
「えっ……俺の、声……?」
激しい動揺に襲われたケンは、無意識のうちに穴の縁に身を乗り出しすぎた。
足元の脆い石灰岩が、ケンの体重に耐えきれず、パラパラと音を立てて崩れ始める。
「あっ!」
バランスを崩した。
体が前へのめり、視界が急激に傾く。
咄嗟に岩肌を掴もうとしたが、その右手にはスマートフォンが握られていた。
指先からスマホが滑り落ちそうになる。
『落としてたまるか……!』
昨夜見たニュースの映像が、脳裏にフラッシュバックした。
ケンは歴史の矛盾を防ごうと腕を限界まで伸ばし、空中でスマホをガッチリと掴んだ。
その瞬間だった。
穴の底から、強烈なフラッシュのような光が溢れ出した。
穴全体が、青白いプラズマのような発光現象に包まれ、ケンの身体を飲み込んだ。
「ケン! 何をしている!」
遠くで教授の絶叫が聞こえた気がした。
だが、ケンの身体はすでに重力を失っていた。
高密度のゼリー状の空間に沈み込んでいくような、強烈な圧迫感と浮遊感。
耳の奥で、巨大な石と石が擦れ合うような「ゴゴゴゴ」という地鳴りが響き渡り、視界が完全に真っ白に染まった。
次に目を覚ました時、ケンは強烈な太陽の熱に焼かれていた。
「……おい、起きろ。見慣れない服だが、ヌビアの商人か? それとも盗賊か?」
頬を叩かれ、ケンはむせながら意識を取り戻した。
肺に流れ込んでくるのは、土埃の匂いと、獣の臭い。
目を開けると、半裸の筋骨隆々な男が、銅製のノミを握ってケンを見下ろしていた。
そこには、現代のカイロの喧騒も、シュミット教授の姿もなかった。
代わりに広がっていたのは、活気に満ちた「超巨大な建設現場」だった。
数万人の労働者が、巨大な石灰岩を引きずり、歌うような掛け声を上げている。
そして、ケンの目の前には、足場に囲まれた、これから「スフィンクス」と呼ばれることになる像の原型があった。
「嘘だろ……。本当に……俺は飛んだのか?」
ケンは呆然と立ち尽くした。
ふと、右手に違和感を覚える。
「……ない」
落ちる瞬間、確かに握りしめていたはずの、あのスマートフォンが右手にないのだ。
ポケットの中にも、周囲の砂の上にも。
「しまった……! 落としたのか? あの瞬間に……」
ケンはパニックになり、周囲の砂を掘り返した。
だが、あんな目立つピンク色の物体はどこにも見当たらない。
(あぁ、やっぱり俺が現代のあの穴の底に落としたんだ。そして数千年後に見つかるんだ……)
その時のケンには、まだ分かっていなかった。
スマホは現代に残ったわけではなく、実は自分のズボンの、普段は使わない深いサイドポケットの中に、無意識にねじ込まれていたことを。
そして、自分が歴史の巨大な渦に飲み込まれたことを、そして、あの「5メートルの穴」を巡る、絶望的で滑稽なタイムパラドックスが始まってしまったことを、彼はまだ知る由もなかった。
事実と推測の区別
この小説は、以下の考古学的な事実と推測(空想)を織り交ぜて構成しています。
・ハワード・ヴァイスの穴: 1837年、イギリスの探検家ハワード・ヴァイスが、スフィンクスの背中に深さ約5メートルの垂直坑を掘りました。現在は行き止まりであることが確認されています。
・スフィンクスの製法と当時の姿: ギザ台地の天然岩盤を削り出して作られており、建設当時は顔や頭巾に赤や青などの鮮やかな顔料で彩色されていました。
・ミューオン透視調査: 宇宙線を用いて内部の空洞を調査する非破壊検査技術は、実際のピラミッド調査(ScanPyramidsプロジェクト等)で使用されています。
・圧電効果(ピーゾ効果): 石英などを含む岩石に圧力がかかると電圧が生じる物理現象は実在します。
・労働者の様子: 巨大な石材は木のソリに乗せ、摩擦を減らすために砂に水を撒きながら人力で運搬されていました。




