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第6話 酔ってた、忘れてくれ

その夜、事務所で残業していた。


梶原設計の事務所は駅前の雑居ビルの三階にある。対象のビルからは電車で二十分の距離だった。白い壁にフローリングの床。デスクが六つ並び、それぞれにモニターとキーボードが載っている。奥に梶原の個室。ガラスの仕切りの向こうに、本棚とデスクが見える。棚には建築の専門書と、過去の物件の竣工写真を収めたファイルが並んでいた。整然としていて、清潔で、何の変哲もないオフィスだった。


ここにいると安心する。あのビルの重い空気が嘘のように、この事務所は風通しがいい。梶原が選んだ場所だから当然だろうと理帆は思っていた。——事務所に入ったとき、一瞬だけ、あのビルの匂いがした気がした。澱んだ配管の匂い。壁の内側の匂い。理帆は鼻の奥の感覚を疑った。ビルから電車で二十分離れた場所で、あの匂いがするはずがない。服についているのかもしれない。帰ったら洗濯しよう。


理帆はモニターに向かい、今日の記録をCADに入力していた。壁のクラック、設備の状態、天井裏の写真。データを整理しながら、リノベーションの方針を頭の中で組み立てていく。こういう作業は好きだった。現場の混沌が、図面の上で秩序に変わっていく。無数のひび割れや劣化や不具合が、線と数字の論理に還元される。


建築が好きな理由のひとつは、この翻訳の過程にあった。人の手が届かなくなった空間を、もう一度人のための場所に戻す。事故物件という名前がついた建物の、その名前の下にある本来の姿を掘り出す。梶原はそれを「再生」と呼んだ。理帆もその言葉を信じていた。


午後九時を過ぎていた。事務所には理帆だけだった。


空調が低く唸っている。エアコンの室外機が窓の外で回る音。キーボードを叩く自分の指の音。蛍光灯が白い光を落としている。日常の音の層が、薄く重なっている。


ふいに、首の後ろに風を感じた。


冷たくはない。温かくもない。温度のない風だった。息のような、気配のような。肌の産毛が一方向に靡いた。エアコンの吹き出し口は天井にある。首の後ろに直接当たる角度ではない。


理帆は振り返った。誰もいなかった。デスクの上にモニターが六つ並び、そのうち五つは暗い画面を向けている。梶原の個室のドアは閉まっていた。ガラス越しに暗い室内が見える。人影はない。窓の外は夜の街で、向かいのマンションの明かりがいくつか灯っている。


風はもう感じなかった。空調のリズムが変わっただけだろう。理帆はモニターに向き直った。


CADの画面にビルの図面が表示されている。五階の平面図。壁の線、窓の位置、廊下の幅。数字と線だけで構成された、感情のない空間の記述。理帆はその図面を眺めていて、何かが引っかかった。


廊下の幅が、左右で違う気がした。


いや、図面上の数値は同じだ。九百五十ミリ。標準的な廊下幅。数値に異常はない。けれど図面全体を俯瞰したとき、建物の重心がわずかに左に偏っているような印象を受けた。壁の配置、部屋の大きさ、窓の位置。すべての数値は正しいのに、全体の印象が歪んでいる。拡大してみた。寸法線を確認した。数値は正しい。何も間違っていない。


ただ「正しい数値で構成された、正しくない印象」がある。建築士の直感が何かを拾い上げているのに、知性がそれを言語化できない。壁の線をなぞっていると、目の奥が微かに痛んだ。三半規管が揺れるような、ごくわずかな眩暈。画面を見すぎたせいだろう。


気のせいだ。疲れている。理帆はファイルを保存して、モニターを閉じた。


帰り支度をしているとき、スマートフォンが震えた。宮内からのメッセージだった。


『図面をよく見て』


一行だけだった。送信時刻は午後十時十二分。理帆は画面を見つめた。何の図面のことだ。どこを見ろというのか。今まさに図面を見ていたところだった。偶然にしてはタイミングが合いすぎている。返信を打とうとした。


「何のことですか」と打ちかけて、指を止めた。聞いてしまったら、答えを受け取らなければならない。その答えが、理帆がまだ知りたくないものだったら。既読はついている。追加のメッセージは来なかった。


翌朝、事務所で宮内に聞いた。


「昨日のメッセージ、どういう意味ですか」


宮内は一瞬だけ目を伏せた。机の上の缶コーヒーに視線を落とした。ブラック。いつもは微糖を飲む人だった。それから苦笑いを浮かべた。眉間の皺が深くなっている。目の下の隈は、三日前より濃くなっていた。


「ああ、あれ。酔ってた。忘れてくれ」


理帆は宮内の顔を見た。酔っていたという言葉と、あの一文の正確さが噛み合わない。酔った人間が送る文面ではなかった。


「このビル、前の担当のときもこうだった」


宮内はそう言いかけて、口を閉じた。缶コーヒーを一口飲み、それからもう一口飲んだ。喉仏が上下するのを、理帆は見ていた。


「気にしないほうがいい」


その声には、理帆に向けた忠告と、自分に言い聞かせる言葉が、等分に混ざっていた。どちらが本音なのか、あるいはどちらも本音なのか、理帆には判断がつかなかった。それ以上は聞かなかった。聞けなかった。聞いてしまえば、自分も何かを見なければならなくなる。宮内の隈のように、何かが自分の顔にも刻まれ始めるかもしれない。


理帆は自分のデスクに戻り、CADを開いた。昨夜の図面が画面に表示された。五階の平面図。廊下の幅は左右とも九百五十ミリ。何もおかしくない。


理帆は新しいチェックシートを印刷して、バッグに入れた。今日もビルに行かなければならない。バッグを持ち上げたとき、左手の指先がまだ冷たいことに気づいた。もう三日になる。右手でバッグの取っ手を握り直した。

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