第5話 空調を止めても
翌日、作業員の鳥山が言った。
「上の階で誰か歩いてませんでした?」
朝の打ち合わせの席だった。五階の旧会議室にパイプ椅子を並べ、四人と作業員三人が図面を広げている。鳥山は五十代の電気工事士で、顎髭を短く刈り込んだ大柄な男だった。現場歴三十年のベテランで、声が太い。冗談で場を和ませるのが上手い人だったが、今朝はその声に冗談の色がなかった。
「昨日の夕方、五時過ぎくらいに。六階で足音がしたんですよ。革靴の」
理帆の指が止まった。ペンのキャップを回す手が、一瞬だけ硬くなった。
「配管の音じゃないですか」
宮内が言った。穏やかな声だった。ただ図面から目を上げなかった。ボールペンで図面の配管経路をなぞりながら、視線を手元に固定していた。
「いや、足音ですよ。はっきり聞こえた。右から左に歩いて、戻って、また右から左。何往復もしてた」
理帆が聞いた音と同じだった。方向も、リズムも、繰り返しのパターンも。鳥山の言葉が、昨日の記憶を正確になぞっていた。他の作業員二人も顔を見合わせた。
若い方の作業員が「俺も聞いた気がする」と小さく言った。もう一人は腕を組んだまま黙っていた。理帆は口を開きかけた。自分も聞いたと言おうとした。言えば鳥山の証言を裏づけることになる。二人が同じ音を聞いている。それは配管の膨張では説明しにくい。
「確認しましたけど、六階には誰もいませんでした」
宮内がそう言って、話を打ち切った。声の調子は変わらなかった。穏やかで、断定的で、これ以上この話題を続ける必要はないという空気を、一文で作った。鳥山は少し黙ってから、「まあ、古いビルですからね」と笑った。笑い方がぎこちなかった。
理帆は口を閉じた。
自分も聞いた、と言えばよかった。でも言えなかった。言わなかった理由を、理帆は正確に理解していた。宮内が話を打ち切ったからではない。この場の空気を壊したくなかったからでもない。ただ、言葉にしてしまうと、聞いた音が「本当のこと」になる。黙っていれば、まだ空耳の可能性がある。可能性があるうちは、考えなくていい。
打ち合わせが終わり、各自が持ち場に散った。理帆は六階に上がった。昨日足音が聞こえた場所の真上に立ってみた。旧事務室。窓際にスチールデスクが一台残されている。引き出しを開けた。空だった。ホチキスの針が一本、引き出しの底に転がっていた。
床を見た。リノリウムの表面に埃が薄く積もっている。足跡はなかった。理帆の靴跡だけが、ドアから部屋の中央まで点々と続いている。それでいい。誰もいなかった。足音は配管の音だった。理帆はそう結論づけて、階段を降りた。
午後、五階のトイレで手を洗ったとき、水が一瞬だけ止まった。
蛇口から落ちる水が、排水口に吸い込まれる途中で速度を落とした。水の膜が洗面台のボウルに薄く広がり、一秒にも満たないあいだ、流れることを忘れたように留まった。蛇口から落ちる水滴が、落下の途中でほんの一瞬だけ、空中に引っかかった。糸で吊られたように。
理帆はまばたきをした。水は普通に流れていた。排水口に渦を巻いて吸い込まれていく。蛇口からの水は途切れなく落ちている。水道管の水圧が安定していないのだろう。古いビルにはよくあることだ。
手を拭きながら、理帆は鏡を見た。蛍光灯の光が白く反射して、自分の顔が青白く映っていた。目の下に薄い隈ができている。最近、眠りが浅い。夜中に一度目が覚める。理由は分からない。ただ目が覚めたとき、耳の奥に何か低い音の残像がある気がする。
目覚めた瞬間に消える、輪郭のない音。鏡の中の自分の顔を、理帆はしばらく見つめた。三日前と比べて、何か変わっただろうか。目の下の隈。頬の色。唇の血色。分からなかった。変わっているとしても、それは寝不足のせいだ。
トイレを出るとき、背後で音がした。蛇口は閉めたはずだった。振り返ると、蛇口の先端に水滴がひとつ、膨らんでいた。ゆっくりと重さを増し、落ちた。次の一滴が膨らみ始める。パッキンの劣化だろう。修繕リストに追加しておく。そう考えて、理帆はチェックシートにメモを書いた。「5F トイレ 蛇口パッキン要交換」。事実を記録する。それが仕事だ。
理帆はドアを閉めた。




