第4話 上の階
現場作業が始まって三日目の午後だった。
理帆は五階の旧事務室で、壁の状態を記録していた。クリップボードに挟んだチェックシートに、ひび割れの位置と長さを書き込んでいく。北側の壁に縦方向のクラックが二本。幅は〇・三ミリ以下。構造には影響しない程度だが、リノベーション時に補修が必要になる。
クラックの端点にマスキングテープで印をつけ、日付を書いた。進行するかどうかを経過観察するためだ。こういう地道な作業が理帆は好きだった。建物の傷を一つずつ拾い上げて記録する。見落とせばそのまま残る。見つければ直せる。見ることが、そのまま建物を助けることになる。ゼネコン時代にはなかった実感だった。
窓の外は曇りだった。三日間ずっと曇りだった。六月の陽射しが恋しい。このビルにいると季節感が薄れる。外の気温が何度なのか、肌で分からなくなる。朝ここに来て、夕方出ていく。その間、空はいつもコンクリートと同じ色をしている。
五階は以前、小さな商社が入っていたらしい。壁にカレンダーのピン穴が残り、床のリノリウムにはデスクの脚の跡が四角く色褪せずに残っていた。人がいた痕跡はあるのに、人の気配だけがきれいに抜け落ちている。
小峰が脚立を担いで入ってきた。
「久住さん、六階の天井裏見てきました。配管は生きてますけど、断熱材がボロボロっす」
「写真は?」
「撮ってあります」
小峰がスマートフォンの画面を差し出した。天井裏の暗がりに、黄ばんだグラスウールが垂れ下がっている。その奥にアルミダクトの銀色が光っていた。湿気を吸ったのか、グラスウールの表面に茶色い染みが広がっている。
「あと、六階の東側の部屋、なんか臭いっすよ。排水管のトラップが切れてるかも」
「宮内さんに報告した?」
「今から行きます」
小峰が出ていった。脚立の金属の脚がリノリウムの床を引っかく音が廊下に響いて、遠ざかっていった。階段を降りる足音が薄れ、やがて消えた。
静かになった。
理帆は記録に戻った。壁のクラックに沿って指を滑らせる。コンクリートの肌理が指紋の溝に引っかかる。冷たくて、乾いていた。左手で壁に触れている。初日から三日経っても、左手の指先だけがわずかに冷たい。
温かいものを飲んでも、手袋をしても、右手と同じ温度には戻らない。末端冷え性だ。今年は梅雨が長い。体が冷えやすい時期なのだろう。ひび割れの幅にボールペンの先を当ててみる。先端がかろうじて入る程度。問題のない範囲だ。ペンを持ち替えたとき、音が聞こえた。
足音だった。
上の階——六階の床を、誰かが歩いている。革靴のような硬い音が、一定のリズムで天井越しに響いていた。右から左へ。廊下を横切るように。小峰はさっき六階から降りてきたばかりだ。スニーカーを履いていた。革靴の音ではない。作業員は今日この階にはいない。宮内は三階で設備の確認をしている。梶原は午後から別件で事務所にいるはずだった。
足音は止まらなかった。右から左へ歩き、数秒の間があって、また右から始まる。同じ経路を繰り返している。歩幅は一定で、急いでいる様子はない。誰かが考えごとをしながら廊下を往復しているような、そういう足取りだった。
十歩。間。十歩。間。
理帆は無意識に歩数を数えていた。毎回同じだった。十歩で端から端まで。寸分の狂いもない。人間の歩行にしては正確すぎた。
理帆は天井を見上げた。蛍光灯のカバーに埃が積もっている。蛍光灯の光が埃を透かして、天井のコンクリートに薄い影を落としていた。足音はそのスラブを挟んだ向こう側から聞こえていた。
階段を上がって確認すべきだと思った。けれど体が動かなかった。動かないのではなく、動かす理由を見つけられなかった。確認して、本当に誰かがいたらどうする。確認して、誰もいなかったら——それはもっと困る。どちらの結果も理帆は欲しくなかった。
足音が止まった。唐突に、何の余韻もなく。十歩の途中で止まった。七歩目か八歩目で、ぶつりと。最後の一歩の残響が天井のスラブに沁み込むように消えた。
蛍光灯の微かなハム音だけが残った。理帆は息を吐いた。いつの間にか呼吸を止めていた。肩が強張っている。クリップボードを握る指が白くなっていた。壁のクラックに当てていた左手が——
ふと気づくと、壁に密着していた。指を当てていたはずが、いつの間にか掌全体を押しつけている。いつからそうしていたのか、分からなかった。足音に意識を取られているあいだに、手が勝手に壁に吸いついていた。理帆は手を離した。掌にコンクリートの粉がうっすらと残っていた。
背筋を伸ばした。首を左右に傾けると、凝り固まった筋肉が軋んだ。五階の旧事務室には理帆しかいない。窓の外の曇り空と、壁のクラックと、蛍光灯の光。それだけだ。チェックシートに目を落とした。ペン先がクラックの記録の途中で止まっている。続きを書いた。何事もなかったように。




