第3話 事故物件なんて
「で、どうだった?」
安西拓海の声は電話越しでも明るかった。理帆は自宅のソファに沈み、缶ビールのプルタブを開けた。炭酸が弾ける音がスマートフォンのマイクに拾われて、拓海が「お、始まってんな」と笑った。
六月の湿気がまだ肌に残っている。シャワーを浴びて髪を乾かしたのに、首筋がべたつく気がした。ビルの空気だ。あのエントランスで吸い込んだ、重くて動かない空気が、まだ肺の底に沈んでいるような感覚がある。
あの匂い——澱んだ配管の匂いが、鼻の奥にうっすらと残っている気がする。気のせいだろう。シャワーを浴びたのだから。エアコンは二十四度に設定してある。部屋は涼しいはずだ。理帆は缶を額に当てた。アルミの冷たさが心地よかった。
「普通の古いビル。思ったより状態は悪くない」
「事故物件っていっても、不動産じゃ珍しくないからな。むしろ立地は悪くないだろ、あのエリア。駅から七分で、オフィス需要もある。再生すればテナントつくんじゃない?」
拓海は不動産仲介会社の営業をしている。三十一歳。交際一年半。同棲はしていない。週末にどちらかの部屋に泊まる程度の距離感が、二人には合っていた。理帆の仕事に興味は持つが、深くは踏み込まない。拓海の案件の話も同じだ。互いの領域に土足で入らない関係を、二人とも気に入っていた。それが優しさだと思っていたし、実際に優しさだった。少なくとも今は。
「前の入居者、何があったの」
「いくつかある。急性心不全がひとつ、飛び降りがひとつ。あと短期退去が多い」
「飛び降りか。屋上の柵、ちゃんとあった?」
「あった。高さも基準を満たしてる」
「ならまあ、建物の問題じゃないな。事故物件って言ってもさ、たまたまそこで起きただけで、建物が原因ってことはほぼないから。場所の問題じゃなくて人の問題だよ。気にしすぎると仕事にならないだろ」
拓海の声は軽かった。不動産屋としての合理性があった。事故物件は統計の問題であり、感情の問題ではない。場所が人を壊すのではなく、壊れた人がたまたまその場所にいた。その考え方は正しいのだろう。数字としては。
拓海は少し黙った。受話器の向こうで氷がグラスに当たる音がした。ハイボールだろう。金曜の夜は決まってハイボールを飲む人だった。
「まあ、気をつけてな」と拓海は言った。
心配はしているが、それ以上は聞かない。仕事の話はここで終わりだという合図でもあった。理帆はその言葉に「うん」と返した。気をつけてな、という一言で十分だった。掘り下げてほしいわけではない。ただ、自分がどこで何をしているかを知っている人間がいること。それだけで夜の部屋は安全な場所になる。
電話を切った。缶ビールを一口飲んだ。麦の苦味が喉を通った。——味が薄い気がした。いつもの銘柄だ。気のせいだろう。疲れているのだ。
テレビはつけていない。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。エアコンの風がカーテンの裾を揺らし、その影がフローリングの上でゆっくりと揺れていた。窓の外から、近所の居酒屋の換気扇の音がかすかに聞こえる。日常の音だった。自分の部屋の、いつもの夜。ビルの空気はもうここにはない。
ソファのクッションに背中を預けた。首の後ろに汗がにじむ。シャワーを浴びたはずなのに、まだ体の芯に今日の疲労が沈殿している。目を閉じると、ビルの階段の手すりの感触がよみがえった。
錆のざらつき。鉄の匂い。左手の指先に、あの冷たさの残像がまだある。あのビルを、人が安心して働ける場所に変える。それが自分の仕事だ。ゼネコンではできなかったことが、ここではできる。梶原のもとでなら。
立ち上がってキッチンに向かったとき、視界の端で何かが動いた。
廊下。自分の部屋の、短い廊下。玄関までの三メートルほどの空間に、灰色が見えた。
コンクリートの壁。天井を走る配管。非常灯の緑色。あのビルの廊下が、一瞬だけ自分の部屋に重なった。空気の温度まで変わった気がした。重くて、冷たくて、動かない空気。あの匂い。澱んだ水の匂い。壁の内側の匂い。
理帆は立ち止まった。まばたきをした。
白い壁紙。木目調のフローリング。玄関の靴棚にスニーカーが二足。傘立てに折りたたみ傘が一本。洗面所のドアが少し開いていて、さっき使ったタオルの端が見えている。いつもの廊下だった。何も変わっていない。
疲れているのだ。初日で緊張したのだろう。古いビルに半日いたせいで、残像が焼きついただけだ。そういうことはある。環境が変われば脳が過剰に反応する。建築を学んだ人間なら、空間が心理に与える影響くらい知っている。
理帆は缶ビールを飲み干して、空き缶を流しに置いた。明日の準備を始めなければならない。バッグから図面のコピーを取り出し、ダイニングテーブルに広げた。蛍光ペンのキャップを外す。確認すべき箇所に印をつけていく。
宮内が四階で足を止めたこと。梶原の「感じる?」という問いかけ。ボールペンの位置が変わっていたこと。ガラスの内側の指紋。廊下に見えた灰色。左手の、まだ戻らない冷たさ。
そのどれについても、理帆は考えなかった。ひとつずつ、丁寧に、考えないことに決めた。




