第2話 四階は後でいい
エレベーターは停止していた。非常階段で上がる。
踊り場ごとに非常灯の緑色が滲んでいた。手すりの金属は冷たく、表面にうっすらと錆が浮いている。理帆は指先でその感触を確かめながら、一段ずつ上った。指の腹にざらついた粉が残る。鉄の匂いが鼻腔の奥に触れた。六月の外気より、階段室の空気のほうが明らかに冷たい。手すりを握る左手が、じわじわと熱を奪われていくのが分かった。
階段の幅は建築基準法の最低限に近い。二人が並んで歩けるかどうかという狭さだった。壁のコンクリートに、過去の入居者が貼ったらしいテープの痕が残っている。何かの案内表示があったのだろう。剝がされた跡だけが、四角い影になっていた。
宮内が先頭を歩いていた。各階で立ち止まり、防火扉を開けて廊下の奥を覗き込み、図面と照合する。
二階は旧テナントのカーペットが残っていた。濃紺の毛足が寝て、継ぎ目が浮き上がっている。歩くたびに埃の匂いが立った。壁際に段ボール箱が三つ積まれている。中身は確認しなかった。三階は床がむき出しのコンクリートで、窓から差す曇天の光が壁に鈍く反射していた。廊下の突き当たりに消火器が一本、傾いて立っていた。
順調だった。
四階の踊り場で、宮内の足が止まった。
防火扉に手をかけたまま、動かなかった。三秒、五秒。背中が強張っている。紺のポロシャツの生地越しに肩甲骨のかたちが浮いていた。首筋に汗が光っている。六月とはいえ、階段室はそこまで暑くない。理帆は一段下から、宮内の背中を見ていた。手すりを握る自分の左手に、さきほどの錆の粉がまだ残っていた。指先が冷たかった。手すりを通じて、金属の冷えが手のひら全体に広がっている。
「宮内さん?」
声をかけると、宮内は振り返った。いつもの穏やかな顔だった。けれど目の焦点が一瞬だけ合わなかった。理帆のすこし左——壁のあたりを見ていた。
「ここは後でいい」
それだけ言って、五階に向かった。防火扉から手を離すとき、指が一本ずつ剝がれるような動きをした。握りしめていたのだ。指の跡が金属の表面に汗の痕として残っていた。小峰が理帆に目配せした。理帆は肩をすくめて返した。何でもないことだと思った。思おうとした。宮内は五年もこの仕事をしている。事故物件には慣れているはずだ。ただ体調が悪いだけだろう。朝から顔色が良くなかった。
五階から順に見て回った。梶原が各部屋の状態を確認し、宮内が寸法を測り、理帆が記録する。小峰は写真を撮りながら、ときどき軽口を叩いた。
「いやー、雰囲気ありますね。心霊スポット系YouTuberが泣いて喜ぶやつ」
梶原は笑わなかった。六階の廊下で、壁に手を当て、目を閉じた。掌をコンクリートに押しつけて、何かを聴いているような仕草だった。五秒ほどそうしてから、静かに手を離した。指先で壁の表面を一度だけ撫でた。撫でるというより、確かめるような動きだった。壁の下に脈があるかどうかを診るように。
理帆はその指の動きを目で追っていた。理帆にも覚えのある仕草だった。初めて入る建物の壁に触れるとき、コンクリートの温度や湿り気から、その空間の状態を読み取ろうとする。梶原はそれを、理帆よりもずっと深い場所でやっているように見えた。この人は建物と対話している。理帆はそう感じて、小さな敬意と、それよりもっと小さな羨望を覚えた。
七階の会議室に入ったとき、理帆は違和感を覚えた。
天井が低い。数字で言えるほどの差ではない。図面上の天井高は他の部屋と同じはずだ。それでも、この部屋に立つと背筋を伸ばしきれない感覚がある。頭の上に何か見えない膜が張っているような圧迫感。蛍光灯が一本切れていて、部屋の奥が暗い。窓はあるが、向かいのビルの外壁が近く、光がほとんど届かなかった。
匂いも違った。他の部屋にあった埃とコンクリートの匂いに、何かが混ざっている。甘いような、重いような、鼻の奥にひっかかる匂い。理帆はそれを特定しようとして、やめた。古いビルの会議室だ。何十年ぶんの空気が詰まっている。特定の匂いを拾い上げること自体に意味がない。
長机の上に、誰かが忘れたボールペンがあった。黒い軸に銀色のクリップ。机の端から三センチほどの位置に、横向きに置かれている。理帆はそれを何となく目に留めた。三センチ。落ちはしない距離だ。
梶原の声が廊下から聞こえた。宮内と何か話している。理帆は手元の記録に目を落とし、数字を書き込んだ。
部屋を出るとき、もう一度目が行った。ボールペンは机の端にあった。クリップが机の縁から突き出している。
さっきと場所が違う。
三センチが一センチになっている。机の縁に向かって、ペンが移動している。誰かが触ったのだろう。宮内か、小峰か。理帆は二人の動線を思い返した。宮内は窓際で寸法を測っていた。長机には近づいていない。小峰は部屋の入口で写真を撮っていた。長机の方向にはカメラを向けていたが、手は届かない。
自分が無意識にずらしたのかもしれない。記録を書き込むときに手が当たったのだ。そうに違いない。机が微かに傾いている可能性もある。築三十二年。床のレベルが狂っていても不思議ではない。数ミリの勾配で、ボールペンくらいは動く。三つの説明のどれかが正しい。それ以外の説明はない。
理帆はドアを閉めた。振り返らなかった。
廊下に出て、右手で記録用のバインダーを持ち直したとき、左手がまだ冷たいことに気づいた。階段の手すりを握ってから、もう二時間近く経っている。六月だ。体温は戻っているはずだ。けれど左手の指先だけが、うっすらと冷たいままだった。右手は普通の体温をしていた。
空調が効いていないビルに半日いたのだ。末端冷え性が出ただけだろう。帰ったら温かいものを飲めば治る。理帆はバインダーを左手に持ち替え、右手をポケットに入れた。左手の冷たさは、バインダーの硬い表面に紛れて、すぐに気にならなくなった。




