第21話 二種類の脈動
水曜日、四階で壁の追加調査をしていたとき、気づいた。
提案書のために壁の内部構造を推定する必要があった。打診棒で壁を叩き、反響音から内部の状態を探る。建築調査の基本手順だ。コンクリートの表面を端から順に叩いていく。叩く音が均一なら中は詰まっている。音が変われば空洞がある。壁の中央付近で、音が変わった。こもった低い反響。空洞がある証拠だった。
理帆は打診の範囲を広げ、空洞の輪郭を特定しようとした。そのとき——手が止まった。打診棒を持つ右手ではなく、壁に添えていた左手。掌が壁の振動を拾っていた。
あの壁に手を当てると、脈動が二種類ある。
最初に感じたのは、前と同じ脈動だった。吸って、吐いて。吸って、吐いて。ゆっくりとした呼吸のリズム。壁の奥から伝わる、深い波動。理帆の体はそれに馴染んでいた。もう驚かない。インフラサウンドだ。十八・七ヘルツの超低周波音が壁を通じて体に伝わっているだけだ。科学で説明できる。
左手が壁に触れた瞬間、指先が温かくなった。壁と手が同じ温度になる、あの感覚。もう怖くはなかった。むしろ安心した。壁に触れている左手だけが、正常な温度を取り戻す。この二ヶ月間ずっと冷たかった指先が、壁に触れたときだけ温かい。壁が体温を返してくれている——そんな感覚だった。……説明できる。大丈夫。
けれどその日、もうひとつの振動があった。
最初の脈動の合間に、不規則に混じる別のリズム。速くて、細かくて、切迫している。呼吸というよりも——叩いている。壁の内側から、何かが壁を叩いている。
理帆は手を離しかけた。けれど離せなかった。掌が壁に貼りついている。物理的に貼りついているのではない。離したくないのだ。この振動をもっと感じたい。もっと聴きたい。壁に触れていると味覚が鮮明になっている——昼に食べたおにぎりの味が、今になって口の中に蘇ってきた。塩の味。海苔の味。米の甘み。ビルの外では感じられなかった味覚が、壁に触れた瞬間に戻ってくる。
……何を言っている。
壁の中から、声のようなものが伝わってきた。前にもこれを感じたことがある。一人でビルに残った夜、「来て」と「行ってはいけない」の二つの声。あのとき理帆は椅子から動けなかった。今、壁を通じて同じ二つの波動を感じている。
ゆっくりとした脈動は「来て」と言っている。理帆を壁の内側に招こうとしている。柔らかくて、温かくて、理帆の体を溶かすような波動。左手が温かくなる。味覚が戻る。匂いが鮮明になる。壁に触れていると、体の感覚が完全に機能する。壁が理帆の体を正常にしてくれている——そう感じさせる波動。不規則な脈動は「触るな」と言っている。理帆を壁から引き剥がそうとしている。硬くて、冷たくて、拒絶する波動。
……同じ壁の中に、二つのものがいる。
呼ぶものと、拒むもの。誘うものと、守ろうとするもの。梶原が「よく見つけたわね」と言い、宮内が「壁に触るな」と言ったのと同じ構図だ。二人の反応はこの壁の内側の二重構造をそのまま反映していたのか。
理帆は手を離した。今度は離せた。不規則な脈動——「触るな」の方が、一瞬だけ強くなったからだ。背中を押されるように、手が壁から離れた。掌を見た。赤くなっていた。冷たい壁に長く触れすぎた。
右手は赤い。左手は——白かった。血の気が引いているのではない。壁と同じ色になっている。コンクリートの灰色がかった白。理帆は左手を握ったり開いたりした。血色が戻ってきた。十秒ほどで、普通の肌の色に戻った。時計を見た。三分。たった三分しか経っていない。もっと長く感じた。
廊下に出た。階段を降りた。途中の踊り場で、足を止めた。
……なぜ、また来ている。
理帆は自分に問いかけた。インフラサウンドの原因は特定できた。報告書も書いた。壁の追加調査は業務として必要だと言い聞かせているが、本当にそうだろうか。梶原にはまだ提案書を出していない。
出せば、壁の空洞を埋める工事が始まるかもしれない。空洞が埋まれば、脈動は消える。消えることを、理帆は本当に望んでいるのか。壁に触れているときだけ味覚が戻る。壁に触れているときだけ左手が温かい。壁を塞いだら、それも消える。
一階のエントランスを出た。七月の熱気が肌を叩いた。
……戻ってきた。
また、その言葉だった。「出た」ではなく「戻った」。外の世界に戻ってきた。ビルの中にいるとき、理帆はどこにいるのか。外の世界の対義語はどこだ。
帰宅後、拓海から電話があった。箱根の宿の話。温泉の泉質がどうとか、夕食のプランがどうとか。理帆は相槌を打ちながら聞いていた。
「最近さ、理帆の夢を見るんだよ」
「夢?」
「暗い廊下を歩いてる夢。理帆が前を歩いてて、俺がついていくんだけど、だんだん追いつけなくなって。振り返ってくれないんだよ、何回呼んでも」
理帆は黙った。拓海は笑った。
「変な夢だろ。疲れてんのかな、俺も」
電話を切った後、理帆はソファに座ったまま動けなかった。暗い廊下。振り返らない自分。拓海の声が届かない。……それは夢じゃない。
理帆は自分の手を見た。壁に触れた左手。白くなっていた左手。今は普通の肌の色に戻っている。けれど爪の付け根に、ほんのわずかに灰色がかった線が見えた。壁の色だった。理帆は目を閉じ、もう一度開けた。線は消えていた。見間違いだ。——見間違いだと思うことにした。




