第20話 ほら、説明つくじゃん
その夜、帰りの電車の中で拓海に電話をかけた。
「原因が分かった」
理帆の声は自分でも驚くほど明るかった。乗客の少ない車両で、窓の外を流れる夜景を見ながら話した。インフラサウンドのこと。十八・七ヘルツのこと。壁の空洞が共鳴管になっていること。人間の体に与える影響のこと。言葉が次から次に溢れた。前回拓海に話したときは興奮と焦燥だった。今回は違う。裏づけがある。データがある。
「つまり、幽霊じゃなくて音ってこと?」「そう。聞こえない音。建物の構造が作り出してる超低周波音」「ほら、説明つくじゃん」
拓海の声が笑っていた。安心した笑い方だった。理帆が好きな笑い方だった。
「だから言っただろ。ちゃんと理由があるんだよ、ああいうのは。理帆は頭いいんだから、調べれば分かるんだよ」
理帆も笑った。久しぶりに笑った気がした。ここ二ヶ月、自分が声を出して笑ったのはいつ以来だろう。数値がある。グラフがある。科学的な根拠がある。もう「たまたまじゃない?」とは言われない。拓海と同じ言葉で、同じ世界の話ができる。
「壁の空洞を埋めるか、遮音構造を入れれば解決できる。梶原さんに提案するつもり」「すごいな。さすが建築士」「来週、箱根行こう。今度こそ」「行く。絶対行く」
電話を切った。改札を出ながら、理帆は深呼吸をした。七月の夜風が生温かった。日常の空気。あのビルの冷気はここにはない。胸のつかえが取れていた。この二ヶ月間、自分を縛っていた不安の正体が分かった。科学で説明できる現象だった。対処すればいい。それが仕事だ。
自宅に着き、シャワーを浴び、ビールを開けた。缶を額に当てた。冷たくて、心地よかった。ソファに沈みながら、理帆は自分が笑っていることに気づいた。テレビをつけた。バラエティ番組の笑い声が部屋に広がった。
二ヶ月ぶりにテレビをつけた気がする。ビールを一口飲んだ。——味がした。拓海の部屋では味がしなかったビールが、今夜は味がする。安堵が味覚を取り戻したのだろうか。
その夜、よく眠れた。二ヶ月ぶりだった。夜中に目が覚めなかった。耳の奥の低い残像もなかった。
翌朝、目覚めたとき、窓から差し込む朝日を見て目が潤んだ。ああ、怖かったのだ。ずっと怖かったのだ。認めたくなかっただけで、ずっと。……でも、もう大丈夫。朝食のトーストにバターを塗りながら、理帆は梶原への提案書の構成を頭の中で組み立てた。壁の空洞構造の調査、共鳴周波数の遮断方法、施工手順。建築士としてやるべきことが明確に見えている。
鼻歌が出た。自分が鼻歌を歌っていることに気づいて、少し照れた。——トーストの味がはっきり分かった。バターの塩気。パンの甘み。コーヒーの苦味。全部分かった。ここ二ヶ月で最も鮮明な朝食だった。安堵が体を解放したのだ。そうに違いない。
月曜日、ビルに入った。
エントランスの空気はいつもと同じだった。重くて、動かなくて、肺の底に沈む空気。理帆はそれを「インフラサウンドの影響」として受け流した。科学的に説明がついている。怖くない。名前のついた恐怖は、もう恐怖ではない。
五階の旧事務室に荷物を置いた。窓の外は久しぶりに晴れていた。七月の日差しが窓から差し込み、床に四角い光を落としている。この部屋は明るい。404号室と違って窓の向きが正しい。光が入る。それだけで空間の印象はまるで違う。デスクの上の——ボールペンに目が行った。
位置が変わっていた。
金曜日に帰るとき、理帆はペンをクリップボードの横に置いた。今、ペンはデスクの端にある。クリップが机の縁から突き出している。七階の会議室で、初日に見た光景と同じだった。
……掃除の人が触ったんだろう。理帆はペンを元の位置に戻した。インフラサウンドではペンは動かない。音は物体を移動させない。その事実に、理帆は目を向けなかった。
宮内のデスクに向かった。報告事項がある。宮内は席にいなかった。デスクの引き出しが少しだけ開いていた。隙間から白い紙が見えた。御札だった。神社の御札が、引き出しの中に三枚重ねて入っていた。
理帆は視線を逸らした。見なかったことにした。




