第19話 聞こえない音
404号室に測定器を持ち込んだのは、七月の第三週だった。
理帆は大学時代の同期に連絡を取り、音響測定器を借りた。環境計測を専門にしている友人で、「何に使うの」と聞かれたが、「仕事で使う古いビルの音環境を調べたい」とだけ答えた。嘘ではない。ただ、調べたいのは「音環境」ではなく「聞こえない音」だった。インフラサウンド。人間の可聴域を下回る超低周波音。二十ヘルツ以下の音は耳では聞こえないが、体には影響を与える。
不安感、圧迫感、視覚の異常、冷感、震え。とくに十八から十九ヘルツ付近は人間の眼球の共振周波数に近く、視界の端に「何かがいる」感覚を引き起こすことが知られている。理帆は大学でそれを学んでいた。建築環境工学の講義で、空間が人間の心理に与える影響のひとつとして紹介された。当時は試験のための知識でしかなかった。今は違う。このビルの中で自分の体に起きていることの正体が、あの教科書の中にあるかもしれない。
404号室に入ると、いつもの冷気が肌を包んだ。七月の気温を忘れる、あの冷たさ。甘くて重い匂い。理帆はもう慣れていた。慣れたのか、鈍くなったのか——あるいは、この冷気と匂いを自分の体が受け入れ始めたのか。そのどれなのか、自分でも分からなかった。今日は匂いが以前より薄く感じた。嗅覚が麻痺しているのか、それとも匂いのほうが理帆に馴染んでいるのか。区別がつかなかった。
測定器を部屋の中央に設置した。三十分間の連続測定。その間、理帆は廊下に出て待った。五階のトイレで手を洗おうとして、蛇口のパッキンがまだ交換されていないことに気づいた。修繕リストに書いたのはもう三週間前だ。蛇口の先端に水滴が膨らんでは落ち、膨らんでは落ちを繰り返している。あのときと同じリズムで。ゆっくりと、正確に。まるで何かの鼓動を刻むように。理帆は蛇口を閉め直した。水滴は止まらなかった。
404号室に戻り、結果をラップトップに取り込んだ。数値がグラフになって画面に表示された。
ピークが出ていた。十八・七ヘルツ。
グラフのピークを見た瞬間、胸の奥で何かが震えた。画面の中の波形に、体が応答している。十八・七ヘルツの数字を目で読んだだけなのに、肋骨の内側がかすかに共鳴した。まるで体がその周波数をずっと前から知っていたかのように。グラフの波形と、自分の鼓動が、一瞬だけ同期したような錯覚があった。
……やっぱり。
理帆は画面を見つめた。十八・七ヘルツの超低周波音が、この部屋に充満している。音源は特定できない。壁からなのか、床からなのか、天井からなのか。部屋全体がひとつの共鳴体になっている。人間には聞こえない。けれど体は受け取る。不安感。圧迫感。視界の端に揺らめく影。背筋を走る冷感。理帆がこの部屋で感じてきた
「いてはいけない」という衝動の少なくとも一部は、この音で説明できる。あの「名前のない壁」が隣接している。壁の内部が空洞であれば、外部の振動が壁の中で増幅され、特定の周波数に共鳴する。パイプオルガンと同じ原理だ。八階建てのビルを貫く空洞。その長さが十八・七ヘルツに共鳴する寸法なのだとすれば——この壁は最初から、この周波数を鳴らすために設計されている。
理帆は測定器を片付けながら、体の力が抜けていくのを感じた。肩の強張りが解けていく。いつから肩を上げていたのか分からないほど、ずっと力が入っていた。……原因が分かった。
足音。冷気。視界の端の影。頭痛。「いてはいけない」という衝動。そのすべてに、インフラサウンドという物理的な説明がつく。幽霊ではなかった。建物の構造が人間の体を狂わせていた。対処できる。壁の空洞を埋めるか、共鳴を遮断する構造を入れればいい。梶原が言った通りだ。
「原因が分かれば対処できる」。部屋を出るとき、理帆は404号室のドアを閉めながら、ほとんど愛着に似た感情を覚えた。この部屋がずっと怖かった。でもその怖さの正体は、聞こえない音だった。音なら止められる。ラップトップの画面を閉じ、測定器をケースに収めた。データはすべて保存してある。明日、梶原に見せよう。宮内にも。小峰にも。みんなに見せて、「大丈夫だ」と言おう。
理帆は階段を軽い足取りで降りた。エントランスを出ると、七月の夕暮れが目に眩しかった。




