第1話 空気が変わる
六月の曇天だった。
湿気を含んだ風が首筋に貼りつく。久住理帆はビルを見上げた。
築三十二年。地上八階建て。外壁のタイルは白だったはずだが、排気と雨に晒されて灰色に沈んでいる。目地のあいだに黒ずんだ汚れが走り、雨樋の継ぎ目から錆の筋が一本、三階の窓枠まで垂れていた。
屋上のフェンスが曇り空を背に歪んで見える。エントランス脇の植栽は枯れかけたツツジで、根元に煙草の吸殻が三本落ちていた。その横に、前の入居者が置いていったらしいプラスチックの傘立てが転がっている。中は空だった。どこにでもある古いオフィスビルだった。
近隣は雑居ビルと月極駐車場。向かいのコンビニの看板だけが、やけに明るい。けれど理帆は、こういう建物が嫌いではなかった。誰にも必要とされなくなった空間には、独特の静けさがある。放置された時間が壁に染み込んで、建物が自分自身の重さだけで立っている。それをもう一度、人が集まる場所に変えること。それが理帆の仕事だった。
「ここが今回の物件よ」
梶原薫の声は、車道を走るトラックの音の中でも不思議と輪郭がはっきりしていた。五十二歳。事故物件リノベーション専門の設計事務所、梶原設計の代表。グレーのジャケットに黒いパンツ。化粧は薄く、銀縁の眼鏡をかけている。爪は短く切り揃えられ、左手の薬指には何もない。派手さはない。声を荒げたところを見たこともない。けれど梶原が立っているだけで、その場の空気に芯が通る。
現場の職人もクライアントも、気づけばこの人の言葉に耳を傾けている。理帆が三年前にゼネコンを辞め、この事務所を選んだ理由の大部分は、この人の存在だった。ゼネコンの設計部では三年間、自分の設計が一度も採用されなかった。会議で提案するたびに先輩の案に吸収され、自分の名前が図面に残ることはなかった。梶原だけが違った。面接で持参したポートフォリオを見て、「この窓の配置、面白いわね」と言った。理帆の設計を「面白い」と言った人間は、梶原が初めてだった。
「久住さん、これ」
宮内隆が図面のコピーを差し出した。三十五歳。事務所に五年在籍する先輩社員で、理帆の教育係でもある。紺のポロシャツの袖から伸びる日焼けした腕に、現場で何度もぶつけたらしい傷だらけの腕時計が巻かれていた。真面目で堅実。施工管理の知識が厚く、職人からの信頼も篤い。ただ今日は目の下に隈があった。左の顎に剃り残しが一筋ある。宮内にしては珍しいことだった。
「小峰くんは?」「あ、来てます来てます」
小峰翔太が角を曲がって駆け寄ってきた。二十四歳。建築系専門学校卒、入社一年目。片手にスマートフォン、もう片方にコンビニのアイスコーヒーを持っている。ストローの先が噛み潰されていた。カバンのストラップが肩からずり落ちかけている。
「外観、もう撮っときました。SNS用に。いい廃墟感出てますよ」
梶原が小さく頷いた。四人が揃った。エントランスの自動ドアは電源が落ちていて、宮内が手で引き開けた。ガラスの表面に指紋と埃が重なっている。取っ手のステンレスは曇り、触れると六月の外気にそぐわない冷たさがあった。ガラスをよく見ると、指紋は外側だけでなく内側にもあった。内側の指紋は外側より新しく見えた。テナントがすべて退去した後に、誰かが内側からこのドアに触れている。清掃業者だろう。管理会社の点検かもしれない。理帆はそう判断して、それ以上は見なかった。
理帆が一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
温度ではない。湿度でもない。音の響き方が違う。外の車の音が、ガラス一枚を隔てただけなのに遠くなった。自分の足音だけが、やけに近く聞こえる。天井の低いエントランスホールに、四人ぶんの呼吸が溜まっていく感覚があった。吸った空気が肺の底に沈む。吐いた息が拡散せず、顔の前に留まっている。匂いがあった。コンクリートの粉塵。鉄錆。それと、もうひとつ——長いあいだ換気されなかった空間が持つ、澱んだ空気の匂い。
生ぐさいとまでは言えない。けれど無臭ではない。古い水が蒸発した後のような、配管の内側のような、壁の中に溜まった時間のような匂い。エントランスの郵便受けが壁に並んでいた。テナント名はすべて剝がされていて、番号だけが残っている。「301」「502」「703」——歯が抜けたような配列だった。満室だった時期があるのかどうかも分からない。
古いビル特有の空気だと思った。換気が止まっているのだろう。空調を入れれば変わる。それだけのことだ。
梶原が理帆の横に並んだ。こちらを見ている。眼鏡の奥の目が、理帆の表情を静かに読んでいた。
「感じる?」
短い問いかけだった。理帆は意味が分からず、首をかしげた。
「——このビルの空気。独特でしょう」
梶原は微笑んだ。穏やかな、いつもの笑顔だった。口元だけが柔らかく弧を描いている。目は笑っていなかった——いや、笑っていた。ただ、その目の奥で別の何かが動いていた気がした。理帆は頷いた。それ以上のことは、考えなかった。




