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第18話 たまたまじゃない?

その夜、拓海の部屋にいた。


二週間ぶりだった。拓海はビールとピザを用意してくれていた。テレビではプロ野球のナイター中継が流れている。理帆はソファに座り、ビールのグラスを手に、今日の発見を話していた。


話さずにはいられなかった。誰かに聞いてほしかった。図面と現実のずれ。天井高の異常。廊下の幅。窓の位置。動線。すべてが404号室に向かっていること。理帆の声は自分でも分かるほど早口になっていた。言葉が次から次へと溢れ出る。グラスのビールに口をつけるのも忘れて、テーブルの上に手帳を広げ、数値を指で辿りながら話した。


拓海は聞いていた。ピザを食べる手を止めて、理帆の顔を見ていた。理帆の話が終わると、少し間を置いて言った。


「たまたまじゃない?」


理帆の口が閉じた。……たまたま。その一言で、二日間かけて積み上げた数値が、ただの偶然の集まりに戻されていく。


「築三十二年だろ。施工精度だって今とは違うし、途中で改修も入ってるだろうから、多少のずれは出るよ。十五センチったって、天井裏の配管が増設されたとか、そういう理由じゃないの」


間違ったことは言っていなかった。不動産の営業として、拓海の見解は妥当だった。古いビルに施工誤差はつきものだし、図面と現実のずれは珍しくない。拓海は自分の知識の範囲で、誠実に答えている。


「廊下の幅が狭くなるのだって、壁の仕上げが重なってるだけかもしれないだろ。動線がどうこうって言うけど、それは後から理屈をつけてるだけで——」


「違うの」


理帆は自分の声の鋭さに驚いた。拓海も少し目を見開いた。けれど引けなかった。ここで黙ったら、自分まで「たまたま」の側に行ってしまう。


「ごめん。でも違うの。全部バラバラに見れば偶然に見える。でも全部を重ねると、意図が見えるの。このビルは最初からそう設計されてる」


拓海はしばらく黙っていた。テレビでは打者がファウルを打ち、観客の声が響いていた。拓海はビールを一口飲み、グラスをテーブルに置いた。


「理帆、最近ちょっと根詰めすぎじゃない? 顔色悪いし、痩せたし。あの事務所の仕事、合ってないんじゃないかって、最近思うんだけど」


優しい声だった。心配している声だった。理帆を思いやる声だった。けれどその優しさが、理帆の発見をまるごと「疲労による思い込み」に変換していた。拓海は理帆が間違っていると言いたいのではない。理帆が疲れていると言いたいのだ。疲れた人間が見つけたものは信用できない。だから休め。そういう文脈だった。


善意だと分かっていた。正しい善意だと。理帆が逆の立場なら、同じことを言うかもしれない。……でも私は疲れているから間違っているのか。疲れていたら、正しいことも間違いになるのか。


「そうかもね」


理帆はそう言って、ビールを飲んだ。味がしなかった。前にも味が薄いと感じたことがある。最初の夜、ビルから帰った日。あのときは「気のせいだろう」で済ませた。今はもう分かっている。味覚が鈍くなっている。いつからか。ビルに通い始めてからだ。缶ビールの味は薄くなり、朝食のトーストの味も薄くなり、コンビニの弁当の味も薄くなった。


けれどあのビルの中では違う。廊下の水飲み場で飲んだ水は、はっきりと味がした。壁に近い場所にいると、空気の匂いが鮮明になる。コンクリートの粉塵の匂い。鉄錆の匂い。あの甘くて重い匂い。ビルの中にいると、感覚が開く。ビルの外にいると、感覚が閉じる。——自分が折れたのではなく、折れたふりをしたのだと分かっていた。拓海を安心させるための「そうかもね」だった。


拓海はテレビに目を戻した。ナイターの実況が流れている。日常の音。安全な夜。理帆はソファの背もたれに頭を預け、天井を見た。拓海の部屋の天井は白くて平坦で、照明の光が均一に広がっている。


天井高は二千四百ミリ。一般的なマンションの標準だ。この天井は正しい高さだと、理帆は確信を持って言える。この部屋には何の異常もない。廊下は狭くならないし、窓から光は入るし、壁の中に名前のない空洞はない。拓海がそばにいた。ソファの隣で、ナイターを見ている。


理帆は拓海の匂いを嗅いだ——嗅ごうとした。シャンプーの匂い。柔軟剤の匂い。拓海の体の匂い。以前は分かっていた。隣にいるだけで、拓海の存在を匂いで感じられた。今は分からなかった。拓海の匂いが、遠い。そこにいるのに、鼻が拓海を捉えられない。あのビルの壁の匂いなら、階を越えても感じるのに。


あのビルの異常さが分かるのは、正常な空間を知っているからだ。理帆は建築士だ。空間の正しさと歪みを見分けるのが仕事だ。疲れているから見間違えたのではない。正しく見えているから怖いのだ。……私の目は間違っていない。数字が証明している。


けれどそれを拓海に説明する言葉を、理帆は持っていなかった。数字を並べても「たまたま」と返される。体の感覚を話しても「疲れてる」と返される。理帆が持っている確信は、理帆の体の中にしかない。取り出して見せることができない。


「来週、温泉でも行く?」


拓海が言った。理帆は「いいね」と答えた。温泉には行かないだろうと、どこかで分かっていた。来週も理帆はあのビルにいるだろう。測り続けるだろう。見つけ続けるだろう。


帰り道、電車の窓に自分の顔が映っていた。拓海の言う通り、痩せていた。頬の肉が落ち、目の下に薄い影がある。いつからこうなったのか。あのビルに通い始めてから、どれくらい経ったのか。窓の向こうを夜景が流れている。ビルの灯り。マンションの灯り。どの建物にも窓があり、光があり、人がいる。


あのビルの窓には、光はあるのに熱がなかった。理帆はその違和感を、まだ手放せずにいた。

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