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第17話 動線

翌日も実測を続けた。今度は廊下だった。


七月の朝、ビルに入ると空気が変わる。もう慣れたと思っていた。けれど慣れたのではなく、体が空気の変化を受け入れるのが早くなっただけだった。外の湿気と内部の澱んだ空気の境目を越える瞬間、肺がわずかに縮む感覚がある。毎朝、理帆はそれを感じていた。今朝は、それに加えて匂いがあった。エントランスに入った瞬間、あの甘くて重い匂いが鼻をかすめた。


404号室の匂い。一階まで降りてきている。前はエントランスでは感じなかった。匂いの範囲が広がっているのか、自分の嗅覚が鋭敏になっているのか。——どちらでも同じことだ。感じる閾値が下がっている。


各階の廊下幅を、五メートル間隔で測定していった。図面上の幅は九百五十ミリで統一されている。一階のエントランスから順に。一階、九百五十ミリ。二階、九百五十ミリ。三階、九百四十八ミリ。誤差の範囲だ。


四階で数値が変わり始めた。


廊下の起点——階段室を出たところで九百五十ミリ。五メートル進むと九百四十五ミリ。十メートルで九百四十ミリ。十五メートルで九百三十二ミリ。廊下の奥に向かうにつれて、幅が狭まっている。一歩ごとに数ミリ。歩いていて気づくような差ではない。けれど廊下を端から端まで歩いたとき、起点と終点では二センチ近い差がある。終点にあるのは——404号室だった。


……あの部屋に、向かっている。


偶然だろうか。


理帆は他の階でも同じ測定を行った。五階の廊下は均一だった。六階も。七階の廊下だけが、四階と同じ傾向を示した。起点から奥に向かって徐々に狭くなる。七階の廊下の奥にあるのは、天井が十五センチ低いあの会議室だった。


窓を確認した。各部屋の窓の位置を図面と照合した。ほとんどの部屋は図面通りだった。けれど四階の404号室と、七階の会議室は、窓の位置が図面より十センチほど高かった。たった十センチ。けれどその十センチのせいで、向かいのビルの壁に遮られ、直射日光がまったく入らない。建築の設計者なら、この十センチが何を意味するか分かる。


日照角度と隣棟との距離関係から、採光を確保するための窓高を決定する。十センチ高くすれば光が遮られることを、設計者は計算で知っていたはずだ。知った上で、十センチ上げた。理帆は404号室の窓際に立った。外は晴れていた。七月の太陽が照りつけている。窓ガラス越しに光は見える。向かいのビルの壁に反射した白い光が、窓の上半分を明るく照らしている。手を伸ばし、ガラスに触れた。


温かくなかった。


七月の直射——ではないにしても、反射光が当たっているガラスだ。多少の熱は感じるはずだった。ガラスの表面は冷たいとまでは言えないが、外気温から想像される温度とは明らかに違っていた。光は見えるのに、熱がない。……光だけの窓。見せかけの外。理帆はそう思って、自分の言葉にぞっとした。


理帆は窓から手を離した。


非常階段に向かった。各階の踊り場を確認しながら降りていく。三階と四階のあいだの踊り場で、足が止まった。壁に扉があった。


スチール製の片開き。ドアノブは丸型。他のドアと同じ仕様だったが、色が違った。周囲の壁と同じ灰色に塗られていた。意識して見なければ壁の一部にしか見えない。ドアノブを回した。鍵がかかっていた。ドアノブの金属が、手のひらに異様な冷たさを残した。この扉の向こうに何があるのか。あの「名前のない壁」の内部に繋がっているのか。


三階の廊下に出て、この扉にアクセスできる部屋を探した。なかった。四階の廊下からも同じだった。踊り場の扉は、どのフロアからもアクセスできない場所にある。図面を確認した。この扉は図面に記載されていなかった。存在しないはずの扉が、そこにある。


理帆は非常階段の踊り場に座り込み、手帳を開いた。今日の発見をすべて書き出した。天井が十五センチ低い会議室。奥に向かって狭まる廊下。窓の位置がずれて日光が入らない部屋。図面にない扉。ペンを走らせながら、理帆は自分が落ち着いていることに気づいた。


怖くないわけではない。けれど恐怖よりも強い感情がある。知りたい、という欲求。この建物が何を隠しているのか。図面が何を嘘をついているのか。それを暴きたいという衝動が、恐怖を押し退けていた。これは危険な感覚かもしれないと、理帆はどこかで分かっていた。


手帳にすべてを書き終え、図面のコピーを広げた。異常があった場所にマーカーで印をつけていく。ひとつずつ見れば、建築の誤差や設計変更で説明がつく。けれどすべてを図面上にマッピングしたとき、理帆は気づいた。


これらは動線だ。


廊下が狭まる方向。天井が低い部屋の位置。光が入らない窓。すべてが特定の一室——404号室に向かって、人を誘導するように配置されている。意識しなくても、この建物の中を歩いていれば、足は自然とあの部屋に向かう。狭い方へ、暗い方へ、冷たい方へ。


偶然ではない。これは設計されている。

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