第16話 天井が低い
七月の第二週、理帆は全フロアの再実測を始めた。
図面で見つけた「名前のない壁」が気になっていた。図面上の数値と実際の空間に、他にも乖離があるのではないか。宮内の「図面をよく見て」は、壁だけを指していたのか。もっと広い意味で、このビル全体の設計に何かがあるのではないか。通常の業務に加えての作業だった。
梶原には「基本設計の精度を上げるために再実測したい」と伝えた。嘘ではないが、すべてでもない。本当の動機は説明できなかった。図面と現実のあいだにある何かを、自分の手で確かめたい。それだけだった。
レーザー距離計を持って、一部屋ずつ測っていった。天井高、間口、奥行き。図面の数値と照合し、差異があれば記録する。地味な作業だった。小峰は別フロアで配線の確認をしている。宮内は事務所にいる。最近、宮内が現場に来る頻度が減っていた。理帆は一人だった。
三階までは問題なかった。図面の数値と実測値の差は誤差の範囲——最大で五ミリ程度。三十二年前の施工としては優秀な精度だった。むしろ不気味なほど正確だったと言ってもいい。このビルを建てた施工者は、高い技術を持っていた。だからこそ、図面との乖離があるとすれば、それは誤差ではなく意図だということになる。
四階の会議室に入ったとき、数字が合わなくなった。
天井高。図面上は二千七百ミリ。レーザー距離計を床に置き、天井に向けて照射した。赤い点が天井のコンクリートに当たる。数値が表示された。二千五百五十ミリ。
十五センチ低い。
理帆は距離計を拾い上げ、もう一度測った。同じ数値だった。場所を変えて、部屋の四隅と中央で測った。すべて二千五百五十ミリ。均一に、正確に、十五センチ低い。……これは誤差じゃない。施工誤差で天井高が十五センチもずれることはない。しかも四隅と中央がすべて同じ数値ということは、天井が水平のまま十五センチ下がっているということだ。わざとだ。
誰かが意図して、この部屋の天井を十五センチ下げた。スラブの厚さを変えたのか、床を嵩上げしたのか。目視では判断できなかった。ただ、図面と現実が食い違っている。
初日のことを思い出した。七階の会議室に入ったとき、「天井が低い」と感じた。あのときは照明のせいだと思った。気のせいだと思った。気のせいではなかった。体は最初から正しく感じていた。理帆の頭がそれを却下していただけだ。あのとき体の声を聞いていれば、もっと早く気づけた。一ヶ月以上、自分の感覚を自分で踏みつぶしてきた。
四階の他の部屋も測った。通常の部屋は図面通りだった。異常があるのは会議室だけだった。それから七階に上がり、あの会議室を測った。二千五百五十ミリ。同じだった。ボールペンが移動していた、あの部屋だ。
二つの会議室。どちらも図面上は二千七百ミリ。どちらも実測は二千五百五十ミリ。十五センチ。正確に、十五センチ。十五センチという数字が頭の中で回っていた。人間の頭の長さにほぼ等しい。天井が頭ひとつぶん低い。そう考えると、あの部屋にいたときの圧迫感が説明できた。頭の上の空間が一人ぶん失われている。その失われた空間は、どこへ行ったのか。
理帆は七階の会議室に立ったまま、天井を見上げた。コンクリートの灰色。蛍光灯の白い光。何も異常は見えない。ただ、図面が示す高さより十五センチ低い天井が、理帆の頭上にある。初日にこの部屋で感じた「背筋を伸ばしきれない感覚」を思い出した。見えない膜が張っているような圧迫感。あれは心理的なものではなく、物理的に正しい反応だった。天井は実際に低かったのだ。
理帆はクリップボードに数値を書き込みながら、手が震えていることに気づいた。恐怖ではなかった。興奮だった。図面と現実のあいだに嘘がある。その嘘を、自分の手で見つけている。建物の傷を見つけて記録するのが好きだと思っていた。今やっているのはそれに似ている。
けれどもっと深い場所にある、もっと意図的な何かを掘り出そうとしている。梶原が「空間の変化に敏感ね」と言った言葉が、違う色で蘇った。あのとき胸が温かくなった。今は少し違う感覚がある。自分のこの感受性は、いったい何のために使われようとしているのか。




