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第15話 設計の呼吸

梶原に聞いたのは、その週の木曜日だった。


現場からの帰り道、梶原と二人で駅に向かって歩いていた。七月の夕暮れ。西日がビルの隙間から差し込み、歩道に長い影を落としている。梶原は歩くのが速い。理帆は半歩遅れてついていく。二人のヒールの音が、歩道のタイルの上で少しだけずれたリズムを刻んでいた。


「梶原さん、図面のことで聞いてもいいですか」


梶原は歩きながら頷いた。


「全フロアを比較したんですが、東側に一箇所、全階共通で壁が厚い箇所があります。構造壁でも配管シャフトでもない。何のための壁なのか、図面からは読み取れませんでした」


言いながら、理帆は梶原の横顔を見ていた。驚くだろうか。あるいは、既に知っているだろうか。


梶原は微笑んだ。驚いていなかった。


「よく見つけたわね」


その声のトーンに、理帆は聞き覚えがあった。面接のときと同じだ。「この窓の配置、面白いわね」。あのときと同じ、理帆の能力を認める声。胸が温かくなりかけた——けれど同時に、薄い警戒心が芽生えた。知っていたのだ。梶原はあの壁のことを知っていた。


「設計の呼吸よ」


梶原は立ち止まった。交差点の赤信号。夕日が梶原の眼鏡に反射して、目が見えなかった。


「建物にも息をする場所が必要なの。人間に気管があるように、建物にも空気の通り道がある。あの壁は、そのための設計。建物全体の空気を循環させる、いわば呼吸器官」


建物の呼吸器官。理帆は頷いた。理屈としては分かる。建物の換気計画において、垂直方向の通気経路を設けることはある。煙突効果を利用した自然換気のシステムだ。古い建築には時折見られる。


「ただ、図面上は内部が空白でした。空洞なんですか」


梶原は数秒間黙った。信号が青に変わった。歩き出した。理帆もついていく。


「昔の設計者にはこだわりの強い人がいたの。図面に残さない工夫を仕込む人が。あの壁もそのひとつ。建物が長く使われるための、設計者なりの祈りのようなもの」


祈り。その言葉が、理帆の胸の中で反響した。建物に祈りを込める。それは理帆自身がこの仕事に感じていたものと同じだった。誰かが安心して過ごせる空間を作ること。それは設計者の祈りだ。梶原の言葉は、理帆が信じたいことを正確になぞっていた。


「あの壁は壊さないでね。リノベーションの対象外にしましょう」


梶原はそう言って、改札に向かった。理帆は自動改札の前で立ち止まり、梶原の背中を見送った。グレーのジャケットが人混みの中に消えていく。


設計の呼吸。建物の呼吸器官。設計者の祈り。美しい説明だった。理帆はそう思った。そう思いたかった。


けれど理帆の左手には、月曜日に触れた壁の感覚がまだ残っていた。壁と同じ温度になった掌。同期した心拍。あの壁の下で感じた脈動は、空気の循環では説明できない。通気経路なら、風の流れを感じるはずだ。理帆が感じたのは風ではなかった。もっと遅い、もっと深い、もっと生々しいリズムだった。


梶原の説明は美しかった。けれど美しい説明が正しい説明とは限らない。


理帆は改札を通り、ホームに降りた。電車を待ちながら、スマートフォンを取り出した。宮内にメッセージを打った。


『東側の壁のこと、梶原さんに聞きました。設計の呼吸、と。宮内さんはどう思いますか』


送信した。既読はすぐについた。返信が来たのは、三十分後だった。


『壁に触るな』


三文字だった。理帆はホームのベンチに座ったまま、その三文字を見つめていた。電車が一本、二本と通り過ぎた。梶原は「よく見つけたわね」と言った。宮内は「壁に触るな」と言った。同じ壁について、二人の反応はまったく違う。片方は認め、片方は遠ざける。


どちらを信じるべきか、理帆にはまだ分からなかった。けれどどちらの言葉にも、嘘はないと感じていた。梶原も、宮内も、自分が信じていることを言っている。その「信じていること」が違う。壁の中にあるものが、二人には違って見えている。


三本目の電車が来た。理帆は立ち上がり、乗り込んだ。吊り革を握る左手が、温かかった。壁に触れてから、左手だけが温かい。右手は普通の体温だった。一ヶ月前と逆だ。冷たかった左手が、壁に馴染んで温かくなった。正常に戻ったのか。それとも——別の何かに変わったのか。

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