第14話 傾き
月曜日、ビルに入った瞬間に分かった。
足元が傾いている。
右足と左足にかかる重力が、ほんのわずかだけ違う。水平な廊下を歩いているはずなのに、体が左に引かれる。一歩ごとに修正しなければ、壁に寄っていく。船の甲板を歩くような感覚に似ていた。見た目は水平なのに、内耳が傾斜を訴えている。三半規管がかすかに揺れている。
吐き気とまでは言えないが、胃のあたりに薄い不快感がある。理帆は立ち止まった。水平器を持ってきていた。日曜に図面を見た後、気になって工具箱から取り出しておいた。廊下の床にそっと置いた。気泡は中央にあった。水平だ。
傾いていない。けれど体は傾いている。
歩き始めると、やはり左に引かれた。意識して右足に力を入れないと、まっすぐ歩けない。三階でも同じだった。五階でも。どの階でも、体は左側の壁——日曜に図面で見つけた「あの壁」がある側に引かれていった。まるで壁が磁石で、自分の体が砂鉄であるかのように。左手が特に反応していた。
ずっと冷たかった左手の指先が、壁に近づくと温かくなる。壁から離れると冷たくなる。手が、壁との距離を測っている。今まで気づかなかったのか。それとも、気づいていたのに気づかないふりをしていたのか。あるいは——今日から始まったのか。図面を見たことで、体が反応し始めたのか。知ってしまったから、感じるようになったのか。
あの夜のことを思い出した。事務所で一人、図面を見ていたときの違和感。「正しい数値で構成された、正しくない印象」。あのときは気のせいだと片づけた。今なら分かる。建物の重心が左に偏って見えたのは、あの壁のせいだ。図面には描かれていない何かが、建物全体の均衡を崩している。
昼休みに四階に上がった。
404号室には入らなかった。その隣——問題の壁がある場所に立った。廊下の東側、404号室と405号室の境。見た目は何の変哲もないコンクリートの壁だった。表面には薄い汚れと、経年の小さなひびがある。手を伸ばした。
壁に触れた。
冷たかった。404号室の冷気とは違う種類の冷たさだった。あれは空気の冷たさだった。これは固体の冷たさだ。壁そのものが冷えている。コンクリートの熱伝導を考えれば、外気温との差で冷たく感じることはある。けれどこれは七月だ。外気温は三十度を超えている。壁がここまで冷たい理由がない。
右手で触れた。凍るように冷たかった。左手で触れた。冷たくなかった。むしろ——温かかった。左手だけが壁の温度に同調している。初日の手すりから始まったあの冷たさが、壁との親和性に変わっている。右手を離した。左手は残した。掌の下で、壁の温度と自分の体温の境界が溶けていく。壁と手のひらのあいだに、どちらのものとも言えない温度がある。
掌を壁に押しつけたまま、理帆は目を閉じた。梶原がやっていた仕草だ。壁に手を当て、目を閉じ、何かを聴く。理帆はあのとき、梶原を見て敬意を感じた。建物と対話する人だと思った。今、同じことをしている。
壁の下に、何かがあった。
振動ではない。音でもない。脈のようなもの。ごくかすかな、規則的な波動。吸って、吐いて。吸って、吐いて。呼吸のリズムに似た、ゆっくりとした繰り返し。左手が、その脈動と同期していた。理帆の心拍がその波動に引き寄せられ、ゆっくりと……ゆっくりと速度を合わせていく。
壁と心臓が同じリズムで脈打っている。壁に合わせているのか、心臓に壁が合わせているのか。左手は温かかった。壁が温かいのではない。左手と壁が同じ温度だから、温かいと感じるのだ。壁が呼吸している。
馬鹿な、と思った。コンクリートの壁が呼吸するわけがない。けれど掌が受け取ったリズムは、他の何にも喩えようがなかった。機械の振動ではない。水流でもない。もっと有機的な、生きているものの鼓動に近い何か。
理帆は「設計の呼吸」という言葉をまだ知らなかった。けれどこの瞬間、壁の向こう側に何か——構造や設備では説明できない何かがあることを、体が理解した。
理帆は手を離した。左手を離すのに、右手を離すときより力がいった。掌が吸いつくように。名残惜しいように。壁の冷たさが右手の掌に残っていた。左手は——温かかった。壁に触れる前より温かくなっている。指の腹がわずかに痺れていた。
壁が呼吸しているわけがない。コンクリートの壁は呼吸しない。配管の中を水が流れる振動が壁を伝わっている可能性はある。けれどこの壁の中に配管はない。図面で確認した。
理帆は手帳を開き、「壁面接触時の体感:微振動あり。周期的。要因不明」と書いた。左手が温かくなったことは、書かなかった。事実を記録する。それが仕事だ。記録すれば、体験は事実になる。事実になれば、感情を切り離せる。怖いという感覚を、データの裏側に押し込める。
四階の廊下を歩いて階段に向かうとき、理帆は自分が壁の左側を歩いていることに気づいた。右側の壁——あの厚い壁から、無意識に距離を取っていた。けれど左手だけが、壁のある方向にかすかに向いていた。




