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断片

白い壁だった。それだけを覚えている。


長い廊下の両側に続く、塗り直されたばかりの白い壁。蛍光灯の光を吸い込んで、どこまでも同じ色をしていた。天井も白い。床のタイルだけが、薄い灰色をしている。


女の子は廊下に立っていた。


うわばきのつま先が、タイルの目地をなぞっている。左足、右足。規則正しく並んだ線を踏まないように歩く遊びを、さっきからずっと続けていた。目地のあいだに小さな砂粒が挟まっている。それを爪先で弾くと、乾いた音がした。


母の手が背中にあった。温かくて、少し湿っていた。


急いでいるのに歩調を娘に合わせている手のひら。その微かな力加減を、女の子は知っていた。買い物に行くときとは違う。病院に行くときとも違う。指先に迷いがある。行かなければならないけれど、行きたくない場所に向かっている手だった。


廊下の突き当たりに、花があった。


隣の部屋のドアの前。白い菊と、セロファンに包まれた淡い花束。花束の根元から水が染み出して、コンクリートの床に小さな影を落としていた。花弁の先が茶色く縮れ始めている。三日前からある花だと、女の子は知っていた。毎朝、この廊下を通るたびに見ていた。花の数は増えない。減りもしない。ただ少しずつ枯れていく。


誰も片づけない。誰もその前を通りたがらない。


同じ階の住人は、エレベーターの前で目を伏せるようになった。女の子にはその理由が分からなかった。ただ、大人たちが花の前を通るとき息を止めることだけは知っていた。母も同じだった。


母の手が動いた。背中から持ち上がり、女の子の目を覆った。


五本の指のあいだに、薄く光が差した。視界が肌色の縞模様になった。指の隙間から菊の白が覗いている。なぜ隠すのか分からなかった。花なら毎日見ている。


母の指先が震えていた。爪の先が額の皮膚に食い込むほど、強く。


女の子はそのとき、別のことを感じていた。


花ではなく、壁のほうを。左側の壁——隣の部屋との境になっている壁が、かすかに動いた気がした。


音はない。振動もない。目に見える変化は何もない。ただ、壁の奥に何かがいる。そう感じた。


壁が、こちらを見ている。


母の手が目を塞いでいるのに、女の子には分かった。壁の向こうに、声にならない声がある。花の向こうに、まだ誰かがいる。聞こうとしなくても耳に届く、低い、低い、うねりのようなもの。


それは音ではなかった。空気の震えですらなかった。壁そのものが、何かを訴えている。女の子にはその内容が分からない。ただ壁が「ある」ことだけが、異様な重さで胸に落ちてきた。


母は足を速めた。女の子の肩を抱き、廊下を早足で通り過ぎた。うわばきのゴム底がタイルを擦る音だけが響いた。


振り返ることは許されなかった。



白い壁が消えた。代わりに、灰色があった。


コンクリートの壁。化粧板の剝がれた鉄骨。配管が天井に沿って走り、その表面に結露が光っている。空気は重く、かすかに錆の匂いがした。古い建物に特有の、換気では取りきれない澱みが鼻の奥に張りつく。


大人の女が立っていた。


廊下の奥を見つめている。髪が肩にかかり、手にはクリップボードを持っていた。背筋はまっすぐに伸びている。仕事で来ている。この場所を測り、記録し、図面に起こすために来ている。そのはずだった。


けれどその指先だけが、わずかに震えていた。


クリップボードの金具が小さな音を立てた。女は唇を薄く開き、何か聞こえたように首をかしげた。空調は止まっている。外の車の音も、ここまでは届かない。


壁が——灰色の壁が、見ていた。


女の子が感じたものと同じ視線。何年も前に白い壁の向こうに感じた、あの気配と同じものが、ここにもある。コンクリートの肌理のなかに、何かが潜んでいる。


女は目を閉じなかった。手で覆うこともしなかった。


歩き出した。廊下の奥へ。壁が見つめる方向へ。まるで呼ばれたかのように。


うわばきのゴム底は、もうどこにもなかった。代わりにパンプスの硬い踵が、コンクリートを叩いていた。規則正しく。一歩、また一歩。タイルの目地を踏まないように歩いた子供の足取りとは、もう違っている。


一歩ごとに、壁の気配が濃くなった。


建物が、息を吸った。

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