ブラックバス釣り事件(上)
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
中学2年生の明宏には、二人のきょうだいがいる。
二つ年上で高校1年生の姉・愛生。
そして九つ年上で社会人の兄・圭介。
明宏は、そんな二人に囲まれた末っ子だ。
――少し時間を巻き戻そう。
半年前。
明宏がまだ中学1年生で、愛生が中学3年生だった頃の物語である。
明宏には、毎日のように一緒に遊んできた仲間がいる。
哲也、学、そして辰夫。
3人とも比較的裕福な家庭に育ち、休みの日には親に連れて行ってもらった旅行や、習い事の話で盛り上がることが多い。
それに比べて明宏の家庭は、決して恵まれているとは言えなかった。
父親の暴力が原因で両親は離婚。
今は母親と、社会人として働く兄・圭介の収入で暮らしている。
普通に食べてはいけるが、友達のように贅沢なことを望める余裕はなかった。
ある日、辰夫がスマホを取り出し、皆に画面を突き出した。
「見ろよ、これ! 昨日の釣果だ」
そこには、大きなブラックバスを掲げて満面の笑みを浮かべる辰夫の姿があった。
「うわ、デカッ! スゲーな」哲也が目を輝かせる。
「俺もバス釣りたい!」と学も興奮気味に身を乗り出した。
「だろ? 隣町の池で仕留めたんだ。なかなかのファイトだったぜ、」辰夫は得意げに鼻を鳴らす。
「今度の日曜、俺が釣り方教えてやるよ。みんなでバス釣り行こうぜ!」
「行く行く! 楽しみ!」と哲也。
「マジ? 最高だな!」学も即答した。
辰夫の視線が自然と明宏に向けられる。
「もちろん、明宏も行くよな?」
「う、うん……もちろんだよ」
と答えたものの、胸の奥がずしんと重くなる。
(どうしよう……僕、釣り竿もリールも持ってない。新しく買うお金なんて、あるわけないのに……)
仲間外れにされたくない気持ちが勝ってしまい、明宏はただ苦笑いを浮かべながら約束をしてしまった。
放課後、辰夫たちと別れ、一人で歩く帰り道。
夕陽が住宅街を赤く染める中、明宏の心は重く沈んでいた。
(……バス釣りに行くって約束しちゃったけど、僕、釣り道具を持ってないよ)
背負ったスクールバッグの肩ひもを握る手に、自然と力が入る。
(お母さんは毎日遅くまで仕事で疲れてるし……圭ちゃんだって社会人で忙しい。愛生にも勉強があるのに……僕のために無理させたくない)
頭を振ると、ため息がこぼれた。
(家族に相談なんてできない……でも、このままじゃ友達と一緒に釣りに行けない……どうしよう……)
コンビニの前を自転車で走り抜ける同級生たちの姿を目で追いながら、
明宏は自分だけが取り残された気持ちになって、足を止めてしまった。
その時、明宏の脳裏にある光景がよぎった。
(……そうだ。圭ちゃんの部屋にリール付きの竿が1本、立てかけてあったじゃないか)
圭介は最近エリアフィッシングを始めたばかり。
部屋の隅にはピカピカのエリアロッドが、まだ新品同様のまま置かれている。
(そうっと持ち出して……そうっと返せば……)
胸の中で小さくガッツポーズをする。
(大丈夫、大丈夫。圭ちゃんは鈍くさくて天然だから。絶対に気づかないって!)
ほんの少し罪悪感を覚えながらも、明宏の顔には安堵の色が浮かんでいた。
これでなんとか、みんなと同じようにバス釣りに行ける……そう信じて。
バス釣りの予定日前日、土曜日。
明宏は自転車を走らせ、近所の「100円ショップ・タイゾー」で300円のクランクベイトを買った。
さらに少し足を伸ばし、ホームセンターで500円のスピナーベイトを購入する。
(よし、これでルアーは揃った。あとは明日、出発前に圭ちゃんの釣り竿をこっそり持ち出せば完璧だ……!)
胸を張って家に戻ったが、その夜ふと思い立ち、何気ない風を装って圭介に探りを入れてみた。
「圭ちゃん、明日はどこか出かけたりしないの?」
圭介はソファでテレビを見ながら、ちらりと弟を見た。
(ん? なんでそんなこと聞くんだ……? まさか俺が“あの店”に行くのを疑ってるのか?)
一瞬ヒヤリとしたが、表情には出さない。
「明日? うーん、ショッピングモールに買い物かな」
「そ、そうなんだ……」
(よかった、釣りには行かないらしい。これなら竿を借りてもバレないぞ!)
心臓をバクバクさせながら答える明宏。
もし 「何のために?」 なんて聞かれたらごまかせない――そう思うと冷や汗が止まらなかった。
だが圭介もまた、弟の「どうしてそんなことを聞くのか」という疑問を飲み込んだ。
本当の目的――「ミニミニアニマルショップで新商品のチャームを買うこと」――を知られるのは死ぬほど恥ずかしいからだ。
こうして、兄と弟、互いに“触れられたくない秘密”を抱えながらの会話は、それ以上深まることなく終わった。
翌日。
圭介がショッピングモールへ出かけたのを確認した明宏は、胸を高鳴らせながら動いた。
リビングでは愛生がジャンボシュークリームを頬張りながら、のんきにアニメを見ている。
(今がチャンスだ……!)
そっと圭介の部屋へ忍び込み、壁に立てかけられていた一本のエリアロッドを手に取る。
柔らかくて細い竿――だが今の明宏には、これしか選択肢はない。
昨日買った300円クランクと500円スピナーベイトをポケットに詰め込み、急いで家を出た。
「おーい、明宏!」
辰夫、哲也、学が待つ集合場所に着いた明宏。4人はそのまま自転車を走らせ、隣町の野池に到着した。
「よし、まずはみんなのタックルを見せろよ!」
リーダー気質の辰夫が声を張ると、さっそく自慢大会が始まった。
「見ろよ、俺の愛用バスロッド! ベイトリールとの相性バッチリだぜ」
辰夫はピカピカに手入れされたロッドを誇らしげに掲げる。
「俺達も買ったんだぜ!」
哲也と学も続き、新品のバスロッドにベイトリールを装着したセットを見せつけた。
太い竿にゴツいベイトリール、いかにも“バス釣り用”という迫力があった。
そして、みんなの視線が明宏に集まる。
空気に押されるように、明宏は圭介のエリアロッドをケースから出した。
「これ……」
シュッと細身のシルエット。小さなスピニングリール。
明らかに他の三人のタックルとは違っていた。
「……なんだよこれ、細っそいな!」辰夫が鼻で笑う。
「ほんとだ、バスロッドじゃねぇじゃん」哲也が顔をしかめる。
「しかもスピニングリール? ダッサ!」学が追い打ちをかける。
3人に囲まれて笑われ、明宏の顔は一気に真っ赤になった。
唇を噛みしめながら、下を向く。
(わかってた……わかってたけど……やっぱり恥ずかしい……!)
それでも竿を握る手だけは、決して離さなかった。
4人は野池に到着すると、それぞれ釣り座を構えた。
辰夫、哲也、学の三人は、当然のようにワームをセットし、次々とキャストを始める。
シュッ――ビューン!
ベイトリール特有の鋭いスプール音が響くたび、3人は 「カッケー!」 「飛ぶなぁ!」 と声を上げ、盛り上がっていた。
その輪の中で、明宏だけが浮いていた。
細いエリアロッドに小さいスピニングリール――見た目からして場違いだ。
それでも必死に仲間と並び、スピナーベイトを結んでキャストする。
ヒュッ――グン、と竿が大きく曲がる。
細いブランクが悲鳴を上げるようにしなり、投げるたびに不安になる。
(大丈夫……これで釣れれば……きっとみんなに認めてもらえる……!)
そう思って何度も振り抜いていた、その時。
――ボキッ。
甲高い破裂音が静かな池に響いた。
明宏の手に伝わる虚しい軽さ。視線を落とせば、エリアロッドが無残に折れていた。
「……えっ」
言葉を失う明宏。
「折れてんじゃん! マジでウケるんだけど!」
「やべー、笑える!」
哲也と学は腹を抱えて爆笑した。
唇を震わせ、視界が滲む。
(どうしよう……どうしよう……圭ちゃんの竿なのに……)
そんな明宏を見て、辰夫は苛立ったように吐き捨てた。
「はぁ……せっかく楽しみにしてたのに。もういいよ、帰れよ」
胸の奥がギュッと締めつけられる。
何も言い返せず、明宏は俯いたまま、竿の残骸を抱えてその場を後にした。
夕暮れの町を、明宏は自転車をゆっくりとか弱く漕いで帰ってきた。
胸の奥は重く、頭の中はぐちゃぐちゃで、涙をこらえるのに必死だった。