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うちの愛生ちゃん  作者: 横溝 啓介
1年2学期
63/81

ネイティブブラウン編・第一話「音楽室に響く“鱒”」

清き流れに光り映えて

矢のごと走る鱒のありき

歩みをとどめわれ眺めぬ

輝く水に躍る姿

輝く水に躍る姿


午後の陽射しが斜めに差し込む音楽室。

譜面台が並ぶ中、明宏はいつもどおりの“ぼーっ”とした顔で座っていた。

(昼飯食べすぎたな……眠い)


そんな中、ピアノの前に立つのは音楽教師の若林先生。

四十代、ちょっと猫背、クラシック愛が重すぎる男。


「えー、では今日はフランツ・シューベルト作曲、歌曲《ます》について学びます」


「マス?」

と、教室のあちこちから小さなざわめき。

「魚の?」「あの鱒釣りの?」などと、半分ふざけた声も混ざる。


若林先生はチョークを握り、黒板に大きく書いた。


“Schubert – Die Forelle(鱒)”


「そう、鱒です! 魚の“鱒”です!」

先生の目が輝いた。まるで本物の釣り人のように。


「シューベルトはオーストリアの作曲家。

 この『鱒』は、小川で元気に泳ぐ鱒を描いた名曲なんです。

 軽やかなピアノの音は水のきらめき、

 そして鱒が油断した瞬間、釣り人に捕まってしまう――

 そういう詩をもとにしているんですよ!」


「釣られちゃうんだ……」

思わずつぶやく明宏。


「そう、油断大敵だね」

と若林先生がニコリ。


教室の空気が少しだけやわらぐ。


先生はピアノの前に座ると、ゆっくりと指を鍵盤に置いた。


♪〜〜〜


軽やかな音が音楽室に広がる。

水面がきらめき、小魚が跳ねるような旋律。


そして、最後の部分で――

少し陰りを帯びたメロディ。


「……あっ、鱒が釣られた。」

明宏の脳内に、どこかで見たことのある“鱒釣り部の活動風景”が浮かんだ。

愛生がキャッキャして、穂乃花が微笑んで、里香が渋い顔して……。


「……先生、この曲、なんかリアルっすね」

「うむ。人生とは鱒のようなものさ。美しく泳いでいても、

 油断すると釣られる。」


深いのか深くないのか分からない若林先生の名言が響く中、

明宏はただ1つ思った。


(俺、次の部活、絶対釣られないようにしよ……)


若林先生がピアノを弾き終えると、音楽室は静まり返った。

水面のきらめきのような余韻が残る。


そんな中――手が、ゆっくりと、ぴょこん。


「はい、田中くん(じゃなくて)市川くん、質問どうぞ。」


「先生!」

勢いよく立ち上がる明宏。

その目は、今まさに獲物を見つけた釣り人の目だった。


「このシューベルトの《鱒》に出てくる魚って、何鱒ですか?」


一瞬、時が止まる。

ピアノの蓋がカタリと鳴るほどの沈黙。


「……何鱒、とは?」

「魚の種類です! 虹鱒とか、岩魚とか、山女魚とか!」


(おおぉ、まさか音楽室で“魚種確認”が入るとは)

生徒たちの間にざわめきが走る。


若林先生は少し苦笑いしながらも、まじめに答えた。

「えーとですね、この曲のモデルとなった魚は“ブラウントラウト”、

 つまり“茶鱒”だと言われています」


「ブラウン・トラウト……!」

明宏の目が輝く。

その瞬間、彼の頭の中ではもう芦ノ湖の朝もやが立ちこめていた。


「先生! そのブラウン・トラウトって、芦ノ湖に居ますか? あと、どうやって釣るんですか!?」


若林先生、苦笑いが止まらない。

「えー……市川くん、今は“釣り講座”ではなく“音楽”の授業ですよ」


「は、はいっ」

(でも気になる……芦ノ湖のブラウン……)


その様子を見ていたクラスメイト達が一斉にクスクス。

「出た、“釣りバカ明宏”」「音楽の授業でも釣りの話すんのかよ!」

教室中が笑いに包まれた。


「はぁ……まいったなぁ……」

と頭をかく明宏。


しかし――その心の奥では、

「ブラウントラウト、芦ノ湖に居るのかな?」

という疑問が明宏の頭の中をぐるぐるしてる。


そして、授業後。

音楽ノートの“感想欄”には、こう記されていた。


今日の感想:ブラウントラウトを釣りたい。


若林先生のコメント:


感想は立派ですが、次は“曲の感想”をお願いします。




放課後の鱒釣り部。

たい焼きの甘い香りも消え、いつものゆるい空気が流れていた。


そこへ、ドアを勢いよく開ける音。


「みんな聞いてくれぇぇぇ!!」


部室に響く明宏の声。

まるで戦場から帰ってきた兵士のように、顔は真剣そのもの。


「今日の音楽の授業で“シューベルトの鱒”を習ったんだ!!」


「……うん?」

とりあえず反応する里香。


「でな! その鱒って“ブラウン・トラウト”なんだって!!

 先生がそう言ってた!!」


「ふ〜ん……」

愛生がスマホをいじりながら、素っ気なく返す。


「芦ノ湖に、ブラウン・トラウト、いるのかなっ!?」

と目をキラッキラさせて聞いてくる明宏。


その熱に押されて、

「えっと……ブラウンって……あの……茶色いやつ?」

と、穂乃花が曖昧に微笑む。


「ネイティブは分かんないな〜」と肩をすくめる里香。


「明ちゃんはブラウン・トラウトが釣りたいんだね」

と、穂乃花は相変わらず優しい笑顔。


その隣では――

愛生も腕を組んで「お兄ちゃんに聞いてみよっかな……」と考え中。

里香は「ブラウンってルアーで釣れるのかな」なんてボソッと呟く。


三者三様に“う〜ん……”と考え込み、静寂が訪れる。


……その時。


部室の隅。

完全に話題に取り残された男がひとり。


そう、勇者武士である。


(お、おかしい……この流れなら、“知ってるぜブラウントラウト”って言えば、

 穂乃花姫のハートを射止められるはずだったのに……!)


だが誰も、彼の方を見ない。

まるで空気。いや、空気清浄機以下の存在感。


「……そ、その……ブラウン・トラウトとは……」

おずおずと口を開く武士。


しかし――


「明ちゃん、スマホで調べてみようか!」

「いいね〜! ネイティブブラウン探検だ!」

「おおっ!!」


すっかり盛り上がる3人+穂乃花。


完全に会話に割り込めなかった武士は、

そっと椅子に座り直し、心の中で拳を握りしめた。


(くっ……今に見ていろ……俺は“ブラウン・トラウト博士”となって、

 穂乃花姫の隣に立つのだ……!)


その横顔はまるで、恋と釣りとプライドの狭間で揺れる哀れな勇者だった。


「ブラウン・トラウトを釣りたい!」という明宏の熱に、部室はすっかり釣りモード。


だが――


「ブラウン・トラウトって、どこの湖にいるんだろ?」

と穂乃花がぽつり。


「えっと……“ぶらうん・とらうと つれるところ”って打てば出るかな?」

とスマホをポチポチする愛生。


「出てこないよ〜“とらうと おいしい?”になっちゃった……」

「うちのスマホ、勝手に予測変換するんだもん」


「おいしいじゃなくて釣りたいの!」

と明宏。


一方、武士も負けじと検索中。

「ぐーぐる神よ……我が問いに答えたまえ……」

(※音声入力モードでうっかり独り言が全部検索される)


──検索結果:「ぐーぐる神よ 我が問いに答えたまえ」

※ヒットなし。


「うむ、どうやら凡俗の者には扱えぬ魔導具のようだ……」

自称勇者、完全迷子。


そんな中、スッと立ち上がる少女がひとり。


「仕方ないわね。ここは私が調べる。」

スマホを片手に冷静な声。


そう、鱒釣り部の頭脳・宝塚里香。


数秒のタップの後――


「出た。芦ノ湖漁協の公式サイト。」

「芦ノ湖の魚の紹介……えーっと……ニジマス、ワカサギ、ヒメマス……あった! ブラウン・トラウト!」


「えっ、いるの!?」

穂乃花が目を丸くする。


「マジかよぉぉぉ!!!」

明宏、勢いよく立ち上がると――


「ウォォォ〜ッ!!! 芦ノ湖のネイティブ・ブラウン釣りてぇぇぇ!!!」


部室の窓ガラスがビリビリ震えるほどの咆哮。


「また始まったよ……」

と愛生が呆れ顔。


「いつも“ネイティブ・レインボー釣りてぇ〜”って叫んでたのに、今度はブラウンかぁ」


「だって! ネイティブのブラウンだぞ!?」

「明くん、芦ノ湖でメダカしか釣ってないのに?」

「メダカじゃない! ワカサギだよ!」

「同じようなもんじゃん〜」


ワチャワチャと盛り上がる(というか騒がしい)鱒釣り部。


そこへ――


「ちょっとちょっと、君たち何の騒ぎ?」

部室のドアから顔を出したのは寺ノ沢先生。


「せ、先生っ! 芦ノ湖にブラウン・トラウトがいるんです!!」

「だから釣りに――」


「放課後に釣りの話で大声出さないの!」

と優しくもピシャリ。


「……はーい」

と全員しゅん。


ただ1人、武士だけがこっそり呟いた。


「ふっ……これも姫を守るための試練……」


「今、何か言った?」

と里香の冷たい視線。


「い、いえ! 風が……!」

「風は吹いてないけど?」

「……心の中に、です!」


またも空気扱いの武士であった。


里香が読み上げた芦ノ湖漁協の魚種。

「ニジマス、ワカサギ、ヒメマス、ブラウン・トラウト」


その中に


「……ヒメマス?」


ひとり、ピクンと反応する男がいた。


そう、我らがモブ改め勇者武士。


“ヒメマス”という単語が、脳内で華麗に変換される。


ヒメマス → 姫+鱒 → 姫の鱒 → 穂乃花姫のための鱒!!


「そ、そうか……! 姫鱒とは穂乃花姫のための魚だったのだ!」

(※違います)


武士の中で、電撃のような閃きが走る。


姫鱒を釣り上げ、穂乃花姫に献上するのだ……

そうすれば姫は俺に微笑み、そしてこう言うだろう。

『まぁ武士くん、素敵……この鱒、あなたの愛と共に受け取るわ♡』


「えへへ……へへへへ……ふふふふふ……」


にやけ顔フルスロットル。

気持ち悪いほどの笑みを浮かべ、両手を胸に当て、乙女のように体をくねらせる武士。


「……武士くん、キモすぎだよ……」

穂乃花の笑顔が一瞬で凍りついた。


「ひ、姫……!?」

(※武士の中ではまだ“姫”呼び)


「こわっ……」

と里香。


「ちょっと、ホラー映画始まった?」

と愛生。


「変な人〜」

と明宏。


武士はそのどよめきを、称賛のざわめきと勝手に変換していた。


ふっ……俺の情熱に、皆が震えている……


そして勇者武士は机に両手を置き、

どや顔で立ち上がった。


「みんな! ブラウン・トラウトもいいが、もっと高貴な魚がいる!」


「は?」と里香。


「え?」と穂乃花。


「まさか……」と愛生。


「そう、それが――ヒメマスだ!!」

ドヤァッ


(部室の空気:シーン……)


「なぁ、姫鱒を釣りに行こう!」

キラキラした目で叫ぶ武士。


愛生が首をかしげる。

「え〜、姫鱒って明くんの言ってたブラウンと違う魚じゃない?」


「ブラウンじゃなくて姫?」と里香。

「魚、すり替わってるんだけど?」


明宏は小声でぼそり。

「ブラウン……どこ行ったの……」


その時――


「ダメだよ、田中くん」

と穂乃花が優しく、しかしはっきりと言った。


「今は明ちゃんの“ブラウン・トラウトを釣りたい”って話をしてるの。急に違う魚を出したら、みんな混乱しちゃうでしょ?」


その言葉が、

まるで聖剣で一刀両断されたかのように

勇者武士の心をズバァッと貫いた。


(BGM:♪ シューベルト「鱒」スローテンポVer.)


「……そ、そうだね……姫の言う通りだ……」

武士の目に光はなく、口元は引きつり笑いのまま固まっていた。


心の中でHPバーがガリガリ減っていく。

――勇者武士、ダメ出し攻撃を受けて瀕死状態(残HP3)。


「田中くん大丈夫?」と穂乃花が心配するが、

その声も彼の耳には“回復魔法”ではなく“追い討ち”にしか聞こえない。


あぁ……姫に叱られた……でも……それもまた、たまらん……(混乱中)


勇者武士――

穂乃花姫のために立ち上がった男である。


「穂乃花姫! いや、みんな! 俺に名案がある!」

部室に響く、やたら声のデカい武士の宣言。


「芦ノ湖に行こう! そしてブラウン・トラウトを釣るんだ!」

拳を高く掲げ、目はギラギラ。


(部室の空気:再びシーン……)


「芦ノ湖って……あの芦ノ湖?」

と愛生。


「そ、そうだ! 我々の聖地にして伝説の湖だ!」

と自称・勇者。


「自称とか言ってないで現実見なさい」

と、冷静なツッコミを入れる里香。


その瞬間――

寺ノ沢先生がひと言


「芦ノ湖……ブラウン……ですって?」


先生の声が静かに響く。

笑顔だけど、目はまったく笑ってない。


「初心者が秋芦ノ湖でブラウン・トラウトを釣るのは――」


一拍おいて、

「春の放流直後のブラウンなら狙えなくはない、しかし、秋には放流ブラウンも年越しブラウンと同じように野性化している、釣るのは、ほぼ不可能です。」


(ズガーン!!)

勇者武士、まるで雷撃を受けたかのように固まる。


「そ、そんな……先生、それは魔王の呪いですか……?」


「違います。現実です。」


続いて、里香が腕を組みながらトドメを刺す。

「私でも難しいのに、初心者のあんたが釣れるわけないでしょ。」


ズバァァァッ

勇者武士、HP残り1。


そんな中、穂乃花が柔らかくフォローする。

「でも、せっかくブラウン・トラウトに興味を持ったなら、

 釣れそうな管理釣り場を探してみましょう。

 11月のキャンプは“ブラウンキャンプ”ってことで!」


「ブラウンキャンプ……いい響きね!」と愛生。

「現実的だし、これなら安全ね」と里香。


全員納得ムード。


……ただひとり、別次元で納得している男がいた。


武士(心の声)


ブラウンキャンプ……つまり、

穂乃花姫と二人で夜の焚き火を囲み、

そっとマシュマロを分け合い、

湖面に映る月を見ながら、心通わせる夜……


「うふふ……」


ニヤァァァァ……


またしても妄想モード全開。

その顔を見た里香はつぶやいた。


「うわ、また変なスイッチ入った。キショい」


穂乃花(内心)


田中くん、ほんとに大丈夫かな……。


――こうして、

現実と妄想の境界を彷徨う勇者武士の「ブラウンキャンプ計画」は、

静かに始動するのだった。

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