日川実釣
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
腕にバンソーコーを貼った明宏は、きゅっと拳を握った。
「次こそ……絶対に釣る!」
目に炎を宿すその姿に、圭介と愛生は(また始まった)と心の中でつぶやく。
だが――先ほどの転倒の痛みがまだ生々しいのか、
その足取りはまるで老人のように慎重。
一歩進んでは足元を確認、
もう一歩進んでは岩をトントンと叩いて安全チェック。
「……明くん、慎重になったねぇ」
愛生が小声で言うと、圭介は「うん、成長だな」と苦笑しながら胸をなでおろす。
ペースが落ちたおかげで、2人はようやく息を合わせて釣り上がれるようになった。
そんな中、圭介はふと2人のロッドさばきに目を向けた。
「……ん?」
前に見たときは、まるで電気ショックを受けたようにギクシャクしていたミノーアクション。
それが今では、水面をすいっと走る滑らかな誘いへと変わっている。
「おっ、いい動きしてるじゃん」
気づけば、自分のキャスティングも以前よりずっとスムーズだ。
枝に引っ掛ける回数も減り、ラインの扱いも自然になっている。
「へぇ〜、私も前よりうまく動かせるようになったかも」
と愛生がニコニコ言えば、
「ふっ……俺に追いついてきたな」と明宏はドヤ顔を決める。
「いやいや、お前こないだ転んだばっかじゃん」
とツッコミを入れる圭介。
そんな他愛のないやりとりの中で――
3人とも、気づかぬうちに少しずつ、確実に“渓流アングラー”へと成長していった。
擦りむいた腕がジンジンと痛む。
ぶつけたスネもズキズキする。
(うぅ……ちょっと今日は控えめにいこうかな)
そう心に決めた明宏は、前方の岩陰を見つめながら言った。
「……あの岩の下、岩魚がいそうだな。愛生、先に投げてみなよ」
「えっ!? 私に先行を譲ってくれるの!?」
振り向いた愛生の目は、まるで天から光が差したかのようにキラッキラ。
(いや、ただ足痛いだけなんだけど……)
「う、うん……」
押され気味に頷く明宏。
すると愛生は、ピョンと飛び跳ねるように喜んだ。
「わぁ〜っ!甘えん坊で超わがままな明くんが私に先行を譲ってくれた〜っ!」
「……え、そんな大事件?」
明宏は完全にポカーン。
姉のテンションが理解不能だ。
(そんなに“先行”って嬉しいもんなのか……?)
頭の中でクエスチョンマークが大量発生している明宏。
愛生はというと、ピンクのロッドを構えてドヤ顔だ。
「よ〜し、私が釣っちゃうぞ〜!」
その後方で、圭介が川底を歩きながら目を丸くした。
「あれ……? 先頭が……愛生?」
圭介は思わず目をこすった。
(いや、俺寝不足だから幻覚見てるのか?)
昨日の家系ラーメンのにんにくが悪さしてるのかとすら疑う。
だが、確かに現実だった。
普段“俺が先頭!”と叫んで譲らない明宏が、
今日はしれっと姉を前に立たせている――。
「おいおい……これはもはや奇跡か?」
圭介は思わず、渓流の神様に手を合わせたくなった。
愛生が先頭を歩いている――。
その姿を見た圭介は、思わず足を止めた。
「……う、嘘だろ……」
何度も目をこすり、何度も見直す。
だが、やっぱり愛生が前を歩いている。
そしてその後ろを、少し控えめに歩く明宏。
(まさか……明宏が……愛生に……先頭を……譲った!?)
圭介の脳内に雷が走った。
今まで我が道を突き進んでいた明宏が、
人に道を譲るなんて……!
「……お、俺……泣きそう……」
圭介の胸がジーンと熱くなる。
何度も、何度も一緒に釣りに行って、
時にはケンカして、転んで、泣いて……。
(やっと……やっと優しい子に……!)
渓流のせせらぎが、まるで祝福の音楽に聞こえる。
岩魚の代わりに、天使が舞ってるような錯覚すらする。
「うぅ……頑張ってきてよかった……!」
圭介は鼻をすすりながら、ひとりで感動のクライマックス。
しかしその数メートル先では――
「明くん、ありがと〜♡」
「うん(足痛ぇ……)」
姉のキラキラ笑顔と、足を引きずる弟の図。
そんな現実など知る由もなく、
圭介の脳内ではエンディングテーマが流れていた。
「明宏……お前、優しくなったなぁ……」
圭介、ひとりで感涙。
渓流の朝に、ひとりだけ大河ドラマの最終回を迎えていた。
「明くん、ありがと〜♡」
「うぅ……成長したなぁ明宏……!」
姉は満面の笑み、兄は感動でウルウル。
その2人を前に――
(……いや、俺、ただ足が痛いだけなんだけど)
明宏、言葉を飲み込む。
この空気で「スネがズキズキするから交代した」なんて言えるわけがない。
まるで“感動ドラマの悪役になってしまう罠”にハマっていた。
(……やべぇ、下手に何か言うと泣かれる)
痛みをこらえながら、複雑な笑顔でごまかす明宏。
兄の涙と姉の歓喜に挟まれ、ただただ困惑。
――そして、釣り再開。
愛生、先頭モード突入!
「よし、私が釣るんだ!」と、やる気スイッチが入る。
変化に富んだ岩と流れ、渦巻く水の反射。
投げたミノーが右へ左へ翻弄されて、愛生の表情もくるくる変わる。
「う〜ん、流れが速いと沈まないし、遅いと根掛かるし……」
眉をひそめながらも、
「……でも、これ、頭使うの楽しいかも!」と気付いてしまった。
兄の感動シーンから一転、まさかの“思考型フィッシング”開眼である。
そんな愛生の目の前に――
チラリと魚影が!
「っ……!」
ミノーに一瞬だけ触れた岩魚。
愛生、反射的にアワセ!
ビュッッッ!
……が、空振り。
「の、乗らないっ!?」
焦る愛生。
後ろの圭介は苦笑い。
「スレてるんだよ、日川の岩魚は。ショートバイトばっかりだな」
愛生は“スレてる”の意味を聞き間違えて、
「す、すれてる? 何が!? 魚が!? えっ、恋愛的な意味で!?」と混乱。
明宏は小声で「……違う意味で痛いのは俺のスネなんだけど」と呟くが、
誰にも届かない。
その瞬間、渓流には三者三様の“沈黙の間”が流れた――
兄は感動の余韻、妹は釣りの探究、弟はスネの痛み。
それぞれ別のドラマを背負いながら、日川の物語はまだまだ続く。
「まだチャンスあるよね!」
愛生の声が渓流に響く。
その瞳はキラキラ、希望の光。
「うんうん!」
圭介と明宏も勢いよく頷く。
――3人の心は完全に“次こそ釣れる!”モード。
だが、数分後。
「……あれ?」
愛生の声のトーンが下がる。
岩の向こう、チラリと見えたのは――
鮮やかなウェーダー姿の“先行者”。
「……やっぱりだな」
圭介の声が妙に遠い。
希望のメロディが、一瞬で“残念BGM”に切り替わった。
「ひ、ひとり……じゃないね……」
愛生、笑顔がスローモーションで固まる。
「俺たちの前に、すでに勇者がいたとは……」
中二病モードの明宏、天を仰いでがっくり。
「いや、勇者っていうか、ただの釣り人だから」
圭介の冷静なツッコミも、今はむなしい。
結局、3人はそろって肩を落とす。
「……しょうがないね、川から上がろっか」
圭介が提案すると、
「うん……」
「……はい……」
2人の返事はまるで“テストで平均点を逃した時”のような沈みっぷり。
岩をよじ登る愛生の背中からは、
「チャンスが……逃げていく〜」という悲しいオーラがにじみ、
その後ろで明宏はブツブツ、
「先行者……人類最大の障壁……」と意味不明な呟きを漏らす。
車へ戻る3人の足取りは、行きの3倍遅い。
まるで“釣れなかった音楽”が後ろから流れているかのようだった――
車に戻ると、すぐに「作戦会議」が始まった。
スマホのマップを囲む3人の顔は、まるで軍議中の戦国武将そのもの。
「現在、午前8時50分ッ!」
と、なぜか明宏が軍師っぽく宣言。
「午後はぶどう狩りがあるから、あと3時間程度がリミット!」
――圭介、頭の中で“タイムアタックBGM”が流れ始めた。
「ネイティブの綺麗な岩魚が釣りたいんだ!」
と、上流を指さす明宏。
その瞳は燃えている。まるで“渓流の覇者”にでもなるつもりだ。
「いやいや、上流は釣り人だらけだよ。下流の方が人少ないって!」
愛生も負けじと反論。
こちらは“冷静な分析型リーダー”の表情――と思いきや、
内心は「ぶどう狩りに間に合わないと困る!」という理由。
「……上か、下か。」
圭介は腕を組み、しばし沈黙。
車内に緊張が走る。
まるで『三国志』の決戦直前のようだ。
頭の中でシミュレーションする圭介。
(上流=魚多いけど人も多い。下流=魚少ないけど人も少ない。釣り人少ない=ワンチャンある!)
「……よし、下流へ行こう。」
静寂。
次の瞬間――
「やっぱりねっ♡」
と愛生が満面の笑みでガッツポーズ。
「……ほら来た、シスコン発動。」
スネスネモード突入の明宏。
「どうせ俺より愛生がかわいいんでしょ……」と頬を膨らませる。
「お、おいおい、そういう問題じゃないから!」
焦る圭介。
「釣り人が少ない方がチャンスなんだってば!」
と必死に説明する兄。
「……じゃあ、まあ、しょうがないか」
渋々頷く明宏。
「はいはい、よくできました~」と愛生が頭をポンポン。
「子供扱いすんなよっ!」と赤面する明宏。
そんな微笑ましい(?)やり取りを横目に、
圭介は車のエンジンをかける。
「目指すは――下流! ぶどう狩りに間に合う奇跡の一匹を求めて!」
3人を乗せた車は、再び日川沿いの道を走り出した。
運転席の圭介の心の声はただひとつ。
(……兄って、本当に中間管理職だよな)




