日川へ入渓
日曜日、まだ夜も明けきらぬ頃――
甲府市・日川を目指し、深夜に車を走らせる圭介、愛生、明宏の3きょうだい。
運転席の圭介は、眠気を振り払いながらハンドルを握る。
助手席の愛生はカーナビをいじりながら、ウキウキと呟く。
「ねぇねぇ、午後のぶどう狩りでシャインマスカット。巨峰きっとあるよね、絶対あるよね♪」
後部座席の明宏は、目を爛々と輝かせて拳を握る。
「今日こそは!渓流の王者・岩魚を釣り上げてやるんだ!俺の華麗なロッドさばきを見よ!」
と、謎の武将モード。
――対照的に、運転席の圭介はため息まじり。
(おいおい……こっちは2回目の渓流釣りなんだぞ?滑って転んで骨折したらどうすんだ。怪我なく帰れりゃ御の字だってのに……)
そんな兄の心配など知らず、妹はぶどうに恋をし、弟は岩魚に燃える。
こうして――
ぶどうを夢見る妹と、岩魚に燃える弟と、無事帰宅を願う兄。
三者三様の期待と不安を乗せて、日川釣行が幕を開けたのであった。
まだ空は薄紫色、夜が明け始めたばかり。
日川へ向かう途中、3人は道の駅に立ち寄った。
「――おっ、看板に“そば切り発祥の地”って書いてあるよ!」
愛生の目がキラリ
「え〜!帰りはそば切り食べようよ!」
と、にっこり笑顔。
「いいよ、食べようね」
圭介は眠気の残る声で即答。
(どうせ午後はぶどう狩りだし、きっとお腹いっぱいで食べれないな……)
トイレ休憩を終え、再び車は国道から山道へ。
窓の外には日川がちらちらと見え隠れする。
と――道沿いには他県ナンバーの車が随所に駐車してあり、
釣り人たちの気配が濃厚に漂っていた。
「うわっ、結構来てるね〜」
愛生は窓の外を眺めてびっくり。
「魚、スレてるかもしれないな……」
圭介は眉間にシワを寄せ、深刻そう。
だが――後部座席の明宏は、腕を組み、どこかドヤ顔。
「フッ……どんなにスレていようと、俺のテクなら問題ないさ」
「……根拠は?」
とすかさず圭介。
「選ばれし釣り人には理屈など不要ッ!」
キリッと決める明宏。
愛生はくすっと笑って、
「はいはい、また始まった〜。釣り界の勇者さまね」
車内には、岩魚をめぐる三者三様のテンションが渦巻いていた――。
山道を抜けると、日川沿いの駐車スペースには既に何台もの車が並んでいた。
ナンバープレートは品川、八王子、横浜……遠征してきた釣り人も多いらしい。
「けっこう停まってるね……」
愛生がぽつりとつぶやく。
圭介はハンドルを握りながら、静かに表情を引き締めた。
――入渓ポイントは限られている。
もし先行者がいるのに頭から入ってしまえば、ルール違反どころか大きなトラブルのもとだ。
そして駐車場所を間違えれば、地元の人の迷惑にもなる。
「焦るなよ……」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやき、川を見下ろせる空きスペースを探す。
やがて、他の車がほとんど停まっていない一角を見つけ、ゆっくりと車を寄せていく。
エンジンを切ると同時に、後部座席からドタバタと飛び出そうとする明宏。
「ちょっと待て!」
圭介が素早く腕を伸ばし、明宏をつかんで制止する。
「渓流は転んで怪我したり、最悪流されることもあるんだ。3人で一緒に行動だからな。特にお前な、明宏」
「うん、わかってるって……」
とりあえず返事だけはする明宏。だが、その目はすでに川へ一直線。
――ぜんっぜんわかってないな、と心の中でため息をつく圭介と愛生。
「わかったよ、お兄ちゃん。ちゃんとついていく」
愛生は素直にうなずく。その様子に、圭介の肩から少し力が抜ける。
さて、それぞれ準備開始――。
まず現れたのは、まるで渓流プロアングラーかと見間違うほどのフル装備明宏。
チェストハイウェーダーに偏光サングラス、さらに新品同様のルアーベスト。
「オレの姿を見よ! ネイティブの覇者とは俺のことだ!」
と得意げにポーズを決める。
「……中学生にして、この装備の本気度よ……」
圭介と愛生、同時にジト目。
次に愛生。
お気に入りのピンクキャップを被り、ピンクのルアーロッドを抱えてご満悦。
「ふふーん、可愛いでしょ。ピンク最強!」
「可愛いっていうか、渓流にピンクって浮きすぎ……」
と圭介が心の中でツッコミかけて、ふとロッドに目をやる。
「あれ……これ、エリア用かと思って買ったけど、ネイティブ用じゃん。しかも硬めで悪くないな」
思わぬ誤算に、圭介はちょっと嬉しくなる。
最後に圭介。
手にしているのは――100円タイゾーで買った短いルアーロッド。
「ま、俺はこれで十分だ」
と強がってみせるが、見た目は完全に“駄菓子屋おもちゃロッド”。
「兄ちゃんだけ、なんか釣り体験コーナーみたいになってるんだけど……」
と冷静に指摘する明宏。
「……お兄ちゃん、自分のこと最後に回しすぎだよ」
と呆れながらも微笑む愛生。
こうして三者三様の準備が整い、渓流日川への挑戦が始まろうとしていた。
川へ降りられそうな場所を探して林道を歩いていた三人。
ふいに、先頭を歩く明宏が声を上げた。
「ここ、降りれそうだよ!」
崖とまではいかないが、岩肌に苔がついた斜面が川へと続いている。
慎重に足を置けば何とか降りられるだろう。
「よし、じゃあここから入ろう」
圭介の声に、明宏は待ちきれない様子で先に下り始めた。
足を川へつけると――ツルリ、と小さく滑る。
苔がしっかり張りついている。
圭介はすぐに気付いた。
「滑るぞ! 気をつけて降りろ!」
愛生に声をかける。
「うん、わかった」
素直に頷く愛生。
一方の明宏は……。
「うおっ、冷たっ! でも最高じゃん!」
川に夢中で、兄の忠告なんか耳に入らない。
こうして順番は、先頭・明宏、2番手・愛生、最後尾に圭介――。
兄としては気が気でない並びだが、仕方なくそのまま釣り上がっていく。
渓相は思ったよりなだらかで歩きやすく、ネットで仕入れた“初心者向き”の情報にも納得する。
しかし――魚は別だ。
明宏は夢中でミノーをキャストする。
枝に引っ掛けるたびに「兄ちゃん、取って〜!」と叫ぶ。
圭介は「ったく……」と呟きながらも岩をよじ登り、枝に手を伸ばし、ルアーを救出する。
兄の役割はすっかり“回収係”だ。
それでも明宏は諦めない。
キャストを続けるたびに、岩の陰から魚影がふっと顔を出す。
白く縁取りされた胸ビレの魚体は岩魚に違いない。
だが――すぐに引っ込み、チェイスまでには至らない。
一瞬の期待と失望が、何度も繰り返される。
「……やっぱりスレてるな、この川」
圭介は唇を噛む。超メジャー渓流、釣り人の多さが魚の警戒心を物語っていた。
だが、そんな事情などお構いなしに、明宏の胸には「釣りたい!」の気持ちだけが膨らんでいく。
「釣れる! きっと釣れる!」
その思いが焦りへと変わり、ポイントからポイントへ、次へ次へと気持ちばかりが先走る。
「待ってよ、明くん!」
愛生は急ぎ足で兄を追う。
「おい、危ないって! 足元見ろ!」
圭介も必死に後ろから声をかける。
――川を先に急ぐ明宏を、必死に追う二人。
焦る心と、それを抑え込もうとする兄姉の思い。
渓流の朝に、きょうだいそれぞれの姿がくっきりと浮かび上がっていた。
「明くん、危ないからもっとゆっくり釣り上がりなさいよ!」
ついに痺れを切らした愛生が声を張る。
だが――
「フッ、俺に危険など存在しない!」
とでも言いたげに、明宏は聞こえないフリでずんずん進む。
「もうっ! また勝手なんだから!」
愛生は眉間にシワを寄せ、ぷんすかモード全開。
そんな妹の腕を、圭介は苦笑しつつそっと取った。
「ほら、気をつけて。足元滑るからな」
「……うん」
プンプンしながらも、手を引かれて一歩一歩ついていく。
その時だった――
ズルッ!
ドシャーンッ!
前を行く明宏が、苔で足を取られ派手に転倒。
「いったーーっ!」
右腕を擦りむき、小さな出血がじわりとにじむ。
一瞬で中二病モードは吹き飛び、顔を歪めて「泣き顔少年」に逆戻り。
「……うぅ……痛ぇ……」
今にも泣きそうに下唇を噛む明宏。
あまりにも不様なその姿に、愛生は――
「ぷぷぷっ……だって、あんなにカッコつけてたのに……」
笑いが止まらない。
結局、兄と姉の前で見せつけたのは「勇ましき釣り人」ではなく、
ただの「擦りむき少年」だった。
転んで泣きそうになっている明宏の腕を、
圭介はすぐに支え、ベストのポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、動くなよ」
――カチャリ。
取り出したのは……ルアーではなく、小さな消毒液のボトルだった。
「しみるぞ〜、でも我慢な」
シュッ、シュッ!
「いっ……たーーー!」
明宏は悶絶。さっきまでの中二病ムードはどこへやら。
続いて圭介は、別のポケットからバンソーコーを取り出し、
手際よくぺたりと貼り付ける。
「よし、完了!」
それを見た愛生は、目を丸くして感心する。
「お兄ちゃん……ルアーより先に救急セット入れてるなんて……すごい。さすがお兄ちゃん!」
褒められた圭介は鼻を高くして、ぐっと胸を張る。
「フッフッフ……そう、このベストは――」
人差し指をピンと立てて言い放った。
「フィッシングベストじゃない! 対・明くん用の救急ベストなのだっ!」
ドヤァァァ。
勝ち誇ったかのような顔で立つ兄。
対して、腕をバンソーコーとテーピングで固められた弟は涙目でむくれている。
「俺のためのベストとか……なんかカッコ悪い……」
愛生はもう堪えきれず、クスクスクスクスと笑い続けるのだった。




