山梨渓流計画 上
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
自宅のリビング。
文化祭の話し合いも一区切りつき、
愛生はちゃっかり次の「釣り計画」に頭を切り替えていた。
(ふふっ、文化祭コスプレ作戦は順調。
でも明くんの“ネイティブレインボー計画”も進めないとね♪)
にやりとほくそ笑む愛生。
「ねぇ~お兄ちゃ~ん♡」
ソファでくつろぐ圭介に甘え声で話しかける。
「次の鱒釣りなんだけどね、愛生ちゃん、山梨の渓流に行ってみたいな~って思うんだ♪」
圭介、腕を組んで少し考え……
「山梨かぁ~。忍野も山梨だったし、いいんじゃないか」
「山梨の渓流って、何が釣れるんだろう?」
期待に胸を膨らませる明宏。
「岩魚でしょ」
あっさり一言で切り捨てる愛生。
「渓流岩魚かぁ~!やった、釣ってみたかったんだよね!」
少年の目がキラキラに輝く。
「じゃあ、近日中に釣り具を少し買い足して……次の日曜日に山梨へ行くか」
即決する圭介。
「やったぁーー!!」
両手を突き上げて飛び跳ねる明宏。
「やったーーー♡」
同じく両手を上げてはしゃぐ愛生。
……が、その愛生を横目で見て、圭介は首をかしげる。
(明宏が喜ぶのはわかるけど……なんで愛生まで“狩猟民族の雄叫び”みたいに喜んでんだ?)
不思議そうに見つめる兄。
愛生はその視線に気づかぬまま、キラッキラの笑顔で叫んでいた。
「次はイワナ祭りだぁぁ~~っ!」
──なぜか誰よりテンション高い妹に、圭介はますます首をひねるのであった。
リビングにこだまする愛生のテンション。
「ふふーん♡ 9月の山梨県といえばぁ……」
わざとらしくタメを作ってから、両手を広げて叫ぶ。
「巨峰にぃ~、シャインマスカットぉ~!
キャー!ぶどう狩り♡ お腹いーーっぱい、ぶどうが食べれる~~っ!
やったぁ~~!バンザーイッ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら、両手を振り回す愛生。
その顔には――にたり、と妖しく光る笑み。
「……ニタニタしてる顔が完全に食いしん坊のそれだな」
冷静にツッコミを入れる圭介。
「どうせ釣りより食べ物だろうって、バレてたかぁ~!」
舌をペロッと出してごまかす愛生。
一方、明宏は「え、ぶどう狩り!? 岩魚よりそっちかよ!?」と驚愕。
圭介は深くため息をつき、
「やれやれ、うちの妹は釣り部員じゃなく“食べ歩き部員”だな……」と心の中でぼやくのであった。
計画会議、リビングにて――
「午前中は岩魚釣り、午後はぶどう狩りで決定だな!」
圭介がバシッと手を叩いて宣言。
「えぇぇ~~~!1日中渓流がいいよぉ〜!」
椅子に突っ伏して、全力でグズる明宏。
そこへ愛生が、腕組みしてドヤ顔で切り込む。
「明くん、3人で協力するって約束したでしょ? ネイティブ・レインボー釣りたいんでしょ?」
「いや、ぶどう狩りとネイティブ・レインボー、全然関係ないし!!」
両手を広げてツッコむ明宏、ぷく〜っと膨れ顔。
そんな弟を横目で見つつ、圭介が優しい声でフォロー。
「正直言うと、1日中渓流歩くと疲れちゃってさ。翌日の仕事がキツいんだよ。午後はぶどう狩りくらいが丁度いいかなぁ」
「……うっ」
圭介の“社会人の重み”ある言葉に、思わず言葉を詰まらせる明宏。
そこへ愛生がすかさず追い打ち。
「確かにお兄ちゃんは運転もするし。だからさ、仕方ないよ明くん。ぶどう狩りでいいよね♪」
「……うぅぅ、仕方ない……圭ちゃんに疲れられると困るし……」
と、しぶしぶ納得する明宏。
その横で、愛生はニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべ、
「やった♡ ぶどう食べ放題ゲット~!」と心の中でガッツポーズするのであった。
そして土曜の朝、圭介のベッド。
「……ん? 左側が……なんか生温かいぞ……」
寝ぼけ眼で確かめる圭介。
「……あ〜、やっぱりかぁ……またかよ……」
視線の先には、圭介の左腕をガッチリと抱き枕代わりにし、ぴったりくっついてスヤスヤ眠る愛生。
――愛生、高校生。
――圭介、社会人。
「……子供の頃は、絵本読んで寝かしつけたり、一緒に寝てやったりしたけどさぁ……」
ため息まじりに天井を見つめる圭介。
愛生の安らかな寝顔を見ながら、ぼそっと一言。
「もう高校生なんだから……そろそろ卒業してくれませんかね、抱き枕生活……」
その瞬間、ふと頭をよぎる危険なイメージ。
――母に部屋へ入られたら。
【愛生:すやすや】
【圭介:一緒のベッド】
「……いやいやいや! 絶対に誤解されるやつだろコレ!!」
布団の中でジタバタしながら、必死に抜け出そうとするも、愛生の抱き枕グリップは鉄壁。
「……って、なんで高校生になってもまだこんなに寝相が子供なんだよぉ〜!」
朝から一人で心の中でツッコミを入れる圭介なのであった。
圭介は横でスヤスヤ眠る愛生の頬を、指先でトントンと優しく叩いた。
「愛生ちゃん、朝だよ。起きて〜」
ぱちり、と目を開ける愛生。まだ夢の余韻が残る顔。
「どうしたんだい? ……また恐い夢でも見ちゃったの?」
圭介は妹の寝癖を直すみたいに、少し髪をなでながら尋ねた。
愛生は小さくうなずいて、でも次の言葉は思いのほかポップだった。
「うん……ピノノちゃんとバニラちゃんと一緒にね……お菓子のお家で遊ぶ夢を見たの」
圭介は眉をひそめる。
「いやいや……恐いっていうか、それ、むしろ糖質が恐いだろ……」
愛生は小さく笑って、でもすぐに真剣な顔に戻る。
「……お菓子食べてたら、突然ね……怪獣があらわれて襲ってきたの。バニラちゃん……怪獣に食べられちゃったんだよ」
一瞬、空気がしん……と静まる。
愛生の声がかすかに震えていた。
――メルヘンな世界と、不条理な恐怖の侵入。
それは、愛生が抱えてきた心の影そのものだと、圭介には直ぐにわかった。
お菓子の家は、愛生が夢見る少女らしい世界。
だが、そこに突然現れる怪獣は……かつて暴力により家庭を壊した父親の影。
甘くて優しい場所に、唐突に恐怖が入り込む――そんな夢の形になって現れているのだろう。
圭介は、眠そうに瞬きを繰り返す妹を見下ろしながら、胸の奥でそっと呟く。
「……やっぱり、不憫だな。こんな夢を見るなんて」
両親の離婚の原因となった父の暴力。
幼い頃の記憶は、もう遠いはずなのに……まだ愛生の心のどこかで怪獣として生き続けているのだ。
圭介はそっと愛生の髪を撫でた。
「大丈夫。怪獣なんて、もうどこにもいないから」
愛生は小さく「うん……」と頷き、少し安心したように瞳を閉じた。
圭介は、布団の中で愛生の寝顔を見つめながら、心の中で揺れていた。
――「何があってもお兄ちゃんが守るから」
そう言ってやりたい。言ってしまえば、きっと愛生は安心して笑うだろう。
けれど、それではいつまで経っても兄離れできない。
自分だって妹離れができないままになってしまう。
愛生はまだ高校生。守ってやるべき年頃だ。
けれど同時に、この子はしっかりしている。
弟の明宏を守ろうとする気持ちも人一倍強い。
そういう芯の強さがあるから……きっと大丈夫だろう。
――問題は、明宏。
末っ子特有の甘えん坊気質に、心の奥に隠した傷。
あの子が思春期を迎えてもなお、時々子供のように泣きそうになる姿を見ると、圭介の胸は締めつけられる。
「……あいつ、大丈夫かな」
愛生が強くなろうとする分、明宏の弱さが際立って見えてしまう。
守るべきは、妹だけじゃない。弟も――そして、この家族そのものを守っていかなくてはならない。
圭介は大きく息をつき、天井を仰いだ。
兄としての責任の重さが、改めて肩にのしかかる。
圭介は、愛生の寝顔を見つめながら、ふっと小さく笑った。
「……まぁ、もうちょっとこのままでいいか」
そう思った矢先――
コンコン。
「圭ちゃん、起きてる? ちょっと手伝って欲しいことあるのよ〜」
――母の声。
「や、やばっ……!」
慌てて飛び起きようとする圭介。しかし愛生はまだ腕にしがみついたまま。
ガチャリ。
あろうことか、母がそのままドアを開けて入ってきた。
目に飛び込んできたのは――
ベッドでぴったりとくっついて眠る、我が娘と息子の姿。
「……えっ……な、なにこれ……?」
母の目が点になる。口がぱくぱくと開いたり閉じたり、魚のようだ。
「ち、ちちちちがうんだよ母さん! これは、その、事故! いや不可抗力! とにかく誤解だ!」
圭介、片手をブンブン振り回しながら必死に弁解。
「すー……すー……」
当の愛生は、兄の腕に抱きついたまま幸せそうに熟睡中。
「……圭介……あんた……まさか……」
母の視線は冷たく鋭く、圭介の背中を氷柱で突き刺すようだった。
「いやだから違うってぇぇええええ!」
圭介の悲鳴が朝の家に響き渡った。
母は額に手を当て、ふらりとよろめいた。
「圭介……あなた……余りにもモテないからって……よりによって……実の妹に手を出すなんて……!
お母さん、ショックだわぁぁぁぁぁ〜〜!!!」
大げさに天を仰ぎ、舞台女優ばりに両手を広げて嘆き叫ぶ母。
「ちょっ、ちょっと待て! なんでそうなる!? 違うから! 完全に誤解だから!」
圭介は必死に片手をブンブン。顔は真っ赤。
「どうしたらいいの……? こんなこと親戚に知れたら……ご近所に知れたら……!
あぁ……シンママ仲間に合わせる顔がないわぁぁぁ!」
母はぐるぐる回りながら頭を抱える。
「やめろ母さん! ご近所とか余計な想像すんなぁぁぁぁ!!!」
その横で――
「んん……お兄ちゃん、あと5分……」
愛生は無防備に兄のシャツをぎゅっと握りしめたまま、夢の中。
「ほら見なさい! 現行犯よ!」
「だから違うってぇぇぇええええええ!!!」
朝の家に、圭介の絶叫と母の嘆きが響き渡った。
「なんだよ〜、朝っぱらからうるさいなぁ〜」
寝ぼけ眼でリビングへ現れた明宏。
そこには――兄と姉がベッドでぴったりくっついている光景と、額に手を当てて嘆きポーズを決める母の姿が。
「……な、なんでこうなるんだよっ!」
必死に否定する圭介。
明宏は鼻をホジホジ、ついでに大あくび。
「お母さん、大丈夫だよ。単なるシスコンとブラコンだから、気にすることないって」
「シ、シスコン!? ブラコン!? な、なにそれぇぇぇ!?」
母、さらに混乱。
「だって圭ちゃん、里香姉が好きだからさ。愛生にはただのシスコンなんだよ。
妹離れできない、ちょっと可哀想な兄ってやつ?」
明宏、妙に納得した顔でうんうんと頷く。
「……そ、そうなの? 里香ちゃんが好みなら……お母さん、ちょっと安心したわ」
母、胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間、明宏はさらっと追い打ち。
「でも心配いらないよ、お母さん。圭ちゃんなんか、里香姉から全っ然相手にされてないから」
「おい! フォローになってねぇぇぇぇぇぇ!!!」
圭介、布団をかき分けて大絶叫。
母は「えぇぇ……そうなの……」と複雑な表情。
愛生はまだスヤスヤ夢の中。
――朝の家庭内、混乱だけがぐるぐると渦巻いていた。




