仲間外れは嫌
新緑が鮮やかさを増す五月の午後。山の空気を乗せたまま、俺たちの車は自宅の前に戻ってきた。
車を停めると、待ちきれなかった明宏がクーラーボックスを抱えて外に飛び出す。
そして、玄関から顔を出した母に向かって、満面の笑みで叫んだ。
「見て、お母さん!」
明宏は勢いよく蓋を開け、慎重に中から一匹の魚を取り出した。
それは、今日一番の釣果である虹色に光る魚体のドナルドソン。
すでに血抜き処理を済ませたその体は、艶やかでずっしりと重く、
明宏の両手にしっかりと収まっていた。
「まあ、すごいじゃない!」
母が思わず声を上げる。 明宏の顔は、誇らしさでいっぱいだった。
俺はトランクを開けて釣り竿を取り出しながら、その様子を横目で見ていた。
今日は明宏が大物を釣ってくれてホッとした。
明宏はルアーフィッシングが大好きで、今日の釣行をとても楽しみにしていた。
もしも釣果が悪いとガッカリしてしまう。
だから、正直ありがたかった。
ふと視線を掃き出し窓に向けると、ソファーでジャンボシュークリームを食べていた愛生が立ち上がり、窓をスライドさせた。
顔を全部は出さない。半分だけ。
かじりかけのジャンボシュークリームが風に揺れていた。
愛生は、じーっとこちらを見ていた。明宏ではなく、俺のほうを何かを言いたいけれど、
うまく言葉にできない。そんな目だった。
俺は少し息を吐いて、まっすぐ愛生の方に目を向けた。
「フン……」
愛生は明らかに不満そうな表情で俺を見ている
「愛生ちゃんも釣りに行きたかったみたいなのよ、困ったわ」
母の美都子はため息をつく
どうやら愛生もエリアフィッシングに行きたかったようだ、
全く関心はないと思っていたのに
(……悪いことしちゃったな)
兄として、妹の気持ちに気づいてやれなかったことが、ただただ申し訳なかった。
愛生は何も言わず、ぷいっと顔をそむけた。
頬をふぐのようにふくらませて、不満をいっぱいに表したその仕草が、なんとも子どもっぽくて、だけどちょっとだけかわいらしかった。
俺は少し笑ってから、優しく声をかけた。
「愛生ちゃん、お兄ちゃんが悪かったよ。次は一緒に行こう。だから……ご機嫌、なおして、 ね?」
けれど、返事はなかった。
愛生はふくらませた頬をそのままに、顔を戻そうともしない。
最後のひと口、ジャンボシュークリームを完食した瞬間、ピシャリと窓を閉めて
2階の自室へと引っ込んでしまった。
怒ったというより、拗ねた感じだった。けれど、そこにはちゃんと寂しさがにじんでいて、
俺は少しだけ胸が痛くなった。
(本当に悪いことしたな……)
荷物を片づけながら、ふと思い出す。
昨日、スーパーマーケットで買ったジャンボシュークリームがまだ冷蔵庫に残っていたはずだ。
「そういや、あれ……」
何気なく買ったけど、好みのようで食べてたな。
愛生は自分からは甘いものを買わないけど、冷蔵庫にあると、いつのまにか誰かが食べた形跡がある。
きっと、そういうときの“誰か”は、たいてい愛生だった。
俺はそのシュークリームを皿に乗せ、階段を上がる。
愛生の部屋の前で、小さく声をかけた。
「……ねぇ、愛生ちゃん。シュークリーム、持ってきたよ。よかったら食べて」
自室に引っ込んだまま愛生は少し呆れ声で
「さっき、そのシュークリーム食べてたのに同じ物でご機嫌取るの? バカじゃない」
やってしまった。
すでに愛生が食べていたシュークリームでご機嫌を取ろうなんて、俺は甘かった。
いくら後悔してもいっこうに「バカじゃない」以降は返事はなかった。
気配もない。……まるで誰もいないかのような静けさ。
さすがに少し凹む。
リビングに戻り、ひとまずソファに腰を下ろす。
思い返してみれば、愛生が喜んで食べるスィーツが解らない。
(……そもそも、愛生って何が好きなんだ?)
改めて考えると、自信がなかった。
好きなスイーツ。好きなキャラクター。好きな味。
小さい頃は何でも一緒にいたはずなのに、全く解らない
俺は頭を抱えて天井を見上げる。
「……いやいや、兄貴としてそれはどうなんだよ」
でも悩んでいても仕方ない。
今の愛生は、機嫌が悪いのではない。拗ねている。素直だからこそ、ちゃんと気持ちを返してくれる。
なら、俺の方もちゃんと応えたい。
(シュークリームは違った。けど、何か可愛いやつ……そういうの、きっと好きだろ)
ネットで「妹 スイーツ 可愛い」なんてキーワードを打ち込んで探し当てたのが、住宅街の奥にひっそりとある小さな洋菓子店だった。
レビューでは「映える」「可愛すぎる」「推しマカロン」なんて言葉が並び、どうやら女性からの人気が高いらしい。
早速、圭介は車を走らせて目的の洋菓子店に向かった。
(マカロンで愛生のご機嫌が治ってくれたら良いのだが)
その洋菓子店は住宅街の小さな公園に隣接され、公園に立ち並ぶ新緑の木々の若葉は
みずみずしく透き通るようで美しく、洋菓子店のピンクを基調にした外観は、どこかメルヘンで、ドアの横には鉢植えの小花が並んでいる。
店内に入ると、ガラスケースの前には若い女性客が数人、楽しげにおしゃべりしながら並んでいた。
(……完全に場違いだ)
心の中で小さくつぶやきながら、俺は意を決してその可愛い空間に足を踏み入れた。
ショーケースには、目を疑うほどカラフルで可愛いキャラクターマカロンがずらりと並んでいた。
ウサギ、パンダ、ネコ、クマ──どれも丸くて、にっこりとした顔をしている。
正直、どれが「当たり」なのか俺にはまったく分からない。
「ええと、このウサギと……ネコと……あと、このピンクの……」
俺が指差しながら注文を伝えると、制服を着た若い女性店員がにこやかに応じた。
「かしこまりました。あの、プレゼントですか?」
その一言に、思わず言葉が詰まった。
周囲にはスイーツ片手に写真を撮る女子たち。かわいいラッピングされたお菓子。
どう考えても“俺のため”ではないのは見れば分かるだろうが、面と向かって言われると照れくさい。
「……あ、いや、妹に。機嫌取りっていうか……はい」
少しだけ視線を逸らしながら答えると、店員はくすっと笑って、優しい声で言った。
「そうなんですね。じゃあ、可愛くラッピングしておきますね」
「……お願いします」
ピンクのリボンがあしらわれた袋が、なんだか俺の手の中でやけに目立つ気がした。
帰宅すると、ちょうどダイニングから美味しそうな匂いが漂ってきた。
台所では母が盛り付けをしていて、テーブルには明宏が腕を振るったドナルドソンの刺身とムニエルが並べられている。
「お兄ちゃん、遅かったね」
何食わぬ顔でソファから立ち上がった愛生が、ちらりとこちらを見る。
その目線が、俺の手にある洋菓子店の袋に止まると、彼女は小さくクスリと笑った。
さっきまでの不機嫌がまるで嘘みたいに、ほっぺたがほんのりゆるんでいる。
(……え?)
あっけにとられて立ち尽くす俺をよそに、愛生はすっとダイニングへ向かい、母の隣で皿を並べるのを手伝い始めた。
「はーい、ごはんにするよー」
母の声に、明宏が「俺のドナルドソン、今日の主役だぜ」と誇らしげに言う。
そんな中で、俺はまだ手に袋をぶら下げたまま、ぽかんと立っていた。
まるで愛生の機嫌が戻ったことに気づいたのが、自分だけ取り残されたかのように。
圭介は、そっと洋菓子の紙袋を差し出した。
「愛生ちゃん、マカロンだよ。好きでしょ?」
愛生は一瞬だけ袋を見たが、手は伸ばさず、そっぽを向いたまま口を開いた。
「冷蔵庫に入れといて」
けれど、その声はどこか柔らかく、頬が少しだけ緩んでいた。
ご機嫌が直ったようすに、圭介は胸をなで下ろしながら台所に向かう。
冷蔵庫の扉を開け、紙袋をそっと中に置くと、肩の力が抜けた。
リビングに戻って席に着くと、すかさず明宏の声が響いた。
「あのドナルドソンさ、めっちゃ引いたんだよ! 60アップでさ、インターネットで調べてもあんなサイズ滅多に釣れないって!」
テーブルの上には、明宏が腕をふるったドナルドソンの刺身とムニエルが並んでいた。
刺身は大小のサイズがバラバラで、切り口もどこか波打っている。脂がしっかり乗ったトロサーモンのような身質で、舌にねっとりとまとわりつく。正直、ムニエルには少々くどすぎる。けれどそれでも。
「明宏が、家族のために一生懸命作ったんだ」
と思うと、圭介はなんだか胸があたたかくなった。
「明くん、とっても美味しいわ」
母が嬉しそうに言うと、明宏は少し照れくさそうに笑って、鼻をこすり魚の説明を始めた。
ドナルドソンはね、アメリカのワシントン大学のドナルドソン博士が大型化したニジマスのみを選抜して、大型個体だけを何代も掛け合せて選抜養殖したことにより
大型で脂が乗った美味しいニジマスなったんだよ。
「……ちょっと濃厚な味だけど、美味しいよ」
そう言って、愛生もふっと微笑む。
そのひと言に、明宏は顔を輝かせた。照れ隠しに水を飲んだり、やたらと箸をいじったりしているが、口元が緩みっぱなしだ。
「愛生、ありがと……!」
弟にそんな風に喜ばれて、愛生もまんざらでもなさそうだ。圭介はその様子を見て、思わず笑みがこぼれた。
(愛生、いいお姉ちゃんしてるじゃん)
そんなふうに、妹がちゃんと弟に優しくしている姿を見て、兄として嬉しかった。
賑やかな夕食が終わると、食卓には余韻のような静けさが残った。
そのとき、愛生がちらりと圭介を見て、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ、マカロン、冷蔵庫から出して」
圭介は「はいはい」と立ち上がり、冷蔵庫から小さな箱を取り出してテーブルに運んだ。
愛生は、箱を開けると中のカラフルなキャラクターマカロンをひとつひとつ見比べて、家族の前に並べ始めた。
「えっと……パンダさんは、お母さん」
「まぁ、かわいい~」と母が笑顔を見せる。
「にゃんこは、明宏。ほら、猫っぽいでしょ?」
「猫っていうか……まあ、かわいいから許す」と明宏が照れたように笑う。
「私は、くまさん。かわいいし、ちょっと大人っぽいでしょ?」
最後に、愛生は残ったピンク色のマカロンをひょいとつまみ、圭介に手渡した。
「お兄ちゃんは……ブタさん。だって、ちょっと太ってるし?」
「ひどくない!?」と圭介が思わず笑うと、愛生は口元を手で隠して「ふふっ」といたずらっぽく笑った。
でも、そんなやり取りすらも、どこかあたたかくて。
圭介は、マカロンのほんのり甘い香りを感じながら、なんだか胸がいっぱいになった。
マカロンを配り終えた愛生が自分の分を口に運びながら、ふと視線をに向けた。
その表情が少し柔らかくなっているのを見て、圭介は思い切って声をかけた。
「なあ、愛生ちゃん。釣りって、興味ある?」
愛生は少し驚いたように目を丸くしてから、素直に頷いた。
「うん、興味あるよ、明くんが釣ったやつ、ちょっとカッコよかったし」
圭介は微笑みながら答える。
「じゃあ、次の日曜に行こうか。エリアフィッシングだけど、道具はこっちで用意するからさ」
すると横から明宏がマカロンモグモグを止めて話題に食いついてきた。
「えっ、俺も行く! ドナルドソン、また釣ってみたい!」
「お前は味で釣られたな」と圭介が笑うと、愛生もつられて小さく笑った。
こうして、次の日曜日。
圭介・愛生・明宏の3人で、小さな冒険のような釣りの一日が始まることになる――。