奥日光湯ノ湖 ⑤
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
昼食を終えると、明宏は待ちきれないといった様子で里香の手を引き、足早に桟橋へ向かった。
「午後も釣り教えてくれよ!」
声を弾ませる明宏の後ろ姿に、里香も苦笑しながらついていく。
一方で、圭介と愛生はのんびり組だ。
「食後のコーヒーでも飲むか」
そう声をかけると、愛生は嬉しそうにうなずいた。
レストランに戻り、窓際の席に腰を下ろしてコーヒーをすすりながら、湖に目をやる。
水面の上、懸命にオールを漕ぐ明宏の姿が小さく見えた。
「明くん、楽しそうだね」
愛生が目を細めてつぶやく。
「愛生ちゃんは偉いね」
不意に圭介が言うと、愛生は小首を傾げて 「えっ、何が?」 と聞き返す。
「弟のために、一生懸命なんだもの。いいお姉ちゃんしてるよ」
その言葉に、愛生は頬を赤らめ、
「えへへ〜……」 と照れ笑いを浮かべた。
コーヒーを飲み終えると、圭介と愛生もゆっくり桟橋へ向かい、手漕ぎボートに乗り込んだ。
のんびりオールを漕ぎ出すと、湖面を渡る涼やかな風が頬を撫でていく。
「ねぇお兄ちゃん、私のピンク羊さん帽子、遠くからでもわかるでしょ?」
帽子をちょこんと押さえて愛生が笑う。
「あぁ、めちゃくちゃ目立つな。里香ちゃんからも見えてるんじゃないか?」
圭介が冗談めかして言うと、愛生は 「やったぁ〜♪」 と満足げに頬を緩めた。
2人は鳥のさえずりや水面を走る風の音に耳を澄ませ、たわいない日常会話を交わしながら糸を垂らす。
そんな穏やかな時間の中、愛生の竿先が突然ググッとしなった。
「わっ! かかった!」
愛生が必死にリールを巻き、やがて銀色の魚体が湖面を割った。
「……ん? これ、虹鱒じゃないぞ」
圭介が目を凝らす。
愛生がランディングネットで慎重に取り込むと、そこにいたのは美しい流線型の魚だった。
「なんと……本鱒だ!」
思わず声を上げる圭介。
「えっ、これが本鱒? 初めて見たぁ!」
愛生は驚きと喜びで目を丸くする。
「俺も初めて見るよ、愛生ちゃん凄いよ」
圭介は目を丸くして驚いている
湖畔に吹く風と共に、2人の胸も一気に高鳴っていった。
釣り上げた本鱒を大事そうにスカリへ入れる愛生。
「よし、じゃあ次は姫鱒も釣っちゃおうかな!」
興奮冷めやらぬまま、竿を握り直して少し調子に乗っている。
「うんうん、釣っちゃえ」
圭介は笑顔で相づちを打ちながら、その無邪気さが可愛くて仕方なかった。
午後の湖上には、2人の笑い声が何度も響いた。
失敗しても、絡まっても、釣れなくても楽しい。そんな時間が穏やかに流れていく。
ふと圭介が時計を覗くと、もうレンタルボートの終了時刻が迫っていた。
「愛生ちゃん、そろそろ戻ろうか」
「うん! 戻ったら明くんや里香に自慢しよっ」
得意げに胸を張る愛生。その横顔を見て、圭介は今日が特別な一日になったことを改めて実感していた。
ボートを返却し、桟橋で里香と明宏と合流する圭介と愛生。
「見て見て、凄いの釣ったよ」 と愛生が笑顔でスカリを掲げると、そこには本鱒の姿が。
「なっ……本鱒だと!?」
明宏は目を丸くし、次の瞬間、ギリッと奥歯を噛みしめる。
里香姉と一緒に頑張ったのに、自分は釣れなかった本鱒を、よりによって愛生が仕留めるなんて。胸の奥に妙なジェラシーが芽生えていた。
一方の里香はというと、数釣りしたし、明宏へもたっぷり指導できてご満悦の様子。
「ふふっ、今日は教え甲斐があったわ」
そして圭介の釣果は虹鱒3匹。4人の中で最も少なかった。
「えー、愛生の方が釣ったじゃん!」
「俺だって!」
弟と妹に容赦なくいじられ、圭介は苦笑いで肩をすくめるしかない。
その様子を見つめていた里香は、小さな声でぽつりと呟いた。
「……やっぱり羨ましい」
誰にも届かないその言葉は、夕暮れの湖畔の風にそっと紛れていった。
レンタルボートは17時返却。だが、岸釣りは日暮れまで楽しめる。
「よーし、まだ釣るぞ!」
明宏は一目散に水辺へ駆け出す。
「明くん、待ってよ〜!」
愛生も負けじと後を追って走っていった。
一方で圭介は、持ち帰る魚の血抜きに取りかかっていた。
「1匹、1匹、丁寧にやらないとな……」
慣れない手つきで処理していると、横からそっと手が伸びる。
「貸して、私もやるから」
里香だった。
いつもツンと澄ました態度の里香が、黙って作業を手伝ってくれる。その些細な優しさに、圭介は思わず心を揺さぶられる。
(普段ツンツンなだけに、こうやって優しくされると……何倍も優しく感じちゃうんだよなぁ〜)
そう思っていると、里香がふっと柔らかく微笑んだ。
――か、可愛いっ!
圭介の胸が跳ねる。
(これが……“可愛いしか勝たん”ってやつなのか!?)
不用意に自然な笑顔を見せてしまった自分に気づき、少しだけ照れくさそうに目を逸らす里香。
けれど、その笑顔は確かに圭介の心に残り続ける。
――これこそが、釣りの魔法なのかもしれない。
愛生と明宏が岸で竿を振っていると、里香が合流してきた。
「里香姉!」 と明宏が手を振り
「里香ちゃんもやろ〜!」 と愛生。
「そうだね、最後にもう少し楽しもうか」
竿を手にした里香は2人の隣に並んだ。
ふと愛生が辺りを見回して言う。
「あれ?お兄ちゃんは?」
「帰りの運転に備えて、車で寝てるよ」
そう答える里香の声はどこか柔らかい。
夕暮れ時の湯ノ湖。
山々の稜線がオレンジに染まり、水面はゆるやかに黄金色を揺らす。
その幻想的な佇まいに、3人は竿を持ちながら夢見心地になる。
「……ちょっと遠かったけど、来て良かったね」
里香が静かに呟く。
「どうせお圭ちゃんが運転だから、大丈夫だし!」
明宏が無邪気に笑う。
「じゃあ帰りは宇都宮餃子だね♪」
食いしん坊な愛生だけが、もう次の楽しみを考えていた。




