奥日光湯ノ湖 ④
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
里香と一緒に船に乗れなかったのは少し残念――。
だが、可愛い妹と並んで湖に漕ぎ出すのも悪くない。
圭介はそう思い直して、愛生と2人で手漕ぎボートに乗り込んだ。
「お兄ちゃん、もっと早く漕いでよ!」
ちょっとツン気味の愛生は、容赦なく圭介に船を漕がせる。
「わ、わかったって……!」
不慣れな圭介が力いっぱいオールを動かすが、真っすぐ進もうとしてもボートは蛇行するばかり。
「ふふ、下手くそ〜。ぜんぜんカッコよくないよ」
愛生はわざとからかうように笑い、圭介は苦笑いを浮かべる。
(……里香と一緒じゃなくてよかったな)
不器用に蛇行するボートを操りながら、圭介は心の中で小さく安堵した。
明宏はなかなかオールさばきが上手いのか、里香と乗ったボートはすいすいと進み、どんどん先へ行ってしまう。
その背中を追いながら、圭介と愛生の乗るボートはのんびりと湖面を進んでいた。
船の後方に、水面に一列になって進む鴨の親子の姿があった。
立派な成鳥の母鴨のあとを、まだ毛並みの生え揃わない子鴨たちがちょこちょことついていく。
「ほら、愛生。あそこ」
圭介が指を差すと、愛生は目を輝かせて声を上げた。
「わぁー! 本当だぁ! かわいいー!」
一生懸命に船を漕ぐ圭介。
しかし、親子鴨はどんどん近づいてくる。
「や、やばい……」
子鴨に抜かされたら愛生に笑われる――そう思うと、オールを握る手に自然と力がこもる。
だが、興奮気味の愛生は親子鴨を見て 「かわいい! かわいい!」 と連発してばかり。
そして――あっさり抜かされた。
おそらく、いや間違いなく、鴨たちはただ普通に水面を移動していただけだったのだが。
「ギャハハハ! お兄ちゃん、子鴨に抜かされちゃった!」
愛生は腹を抱えて爆笑する。
「……うぅ、恥ずかしい……」
圭介は顔を赤くして視線を逸らした。
だいぶ遅れてはいたが、ようやく圭介と愛生のボートは里香と明宏の船に追いついた。
見れば、里香は熱心に明宏へキャストやリトリーブのコツを教えている。
その真剣な指導ぶりに、圭介は 「有り難いなぁ……」 と心から思うのだった。
自分たちも負けてはいられない。
圭介と愛生も並んで竿を取り出し、それぞれスプーンを結んで湖面へ投げ込む。
ふと視線を横にやると、少し離れたところで釣りをしている里香の姿が目に入った。
しなやかな動きでロッドを振り、シュッと美しい弧を描いてキャストする。
その直後―― 「ビシッ」 と迷いなくアワセを入れると、ジージージーッとドラグ音が心地よく響いた。
「……すごいな」
圭介が感嘆する間にも、里香は次々と魚を掛けていく。
まるで湖面と一体化しているかのような鮮やかな手際だった。
里香の華麗なロッドワークに見とれていたその時、隣でキャストしていた愛生の竿がググッと曲がった。
「わぁっ、きたきたきたっ!」
嬉しそうに声を上げる愛生。小さな体で必死にロッドを立て、ドラグを鳴らしながら魚とやり取りする。
「お兄ちゃん、見ててよっ! 私だって釣れるんだから!」
そう叫んで、愛生は見事に小ぶりながらも元気なニジマスを引き寄せた。
「やったぁ! 一匹目〜!」
ピチピチと跳ねる魚を見せびらかしながら、愛生はニヤリと兄を見上げる。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんまだボウズ? もしかして私の方が上手なんじゃないの〜?」
得意げに煽る愛生。
圭介は 「う、うるさいっ」 と返すが、内心かなり焦っていた。
そして圭介の竿が突然しなる。
「よっしゃっ、きた!」
念願のアタリに声が弾む圭介。愛生も 「お兄ちゃん頑張って!」 と身を乗り出して見守る。
小ぶりながらも元気いっぱいに暴れる虹鱒。必死にリールを巻き、ようやく魚影がボート際に浮かび上がった。
「これは…いける!」
圭介は慎重にランディング・ネットを差し出す。しかし、緊張のあまり動作がぎこちなく、魚が水面で身をひねった瞬間――
ポチャンッ。
虹鱒は水飛沫とともに湖へ帰っていった。
「……え?」
呆然とする圭介。
「ちょっとお兄ちゃん、今のは完全に下手っぴでしょ!」
愛生は腰に手を当てて、じとっと兄を睨む。
「私、釣り二回目だよ? 二回目なのにもう釣れてるし、ちゃんと取り込めたし……もしかして私の方が上手なんじゃないの?」
言いたい放題に煽られ、圭介は頭をかきながら苦笑いを浮かべるしかなかった。
運動神経ゼロの兄には、返す言葉が見つからなかった。
「ねぇお兄ちゃん」
愛生が竿を休めて、ふと思い出したように聞いてきた。
「ブルックトラウトは知ってるけど、本鱒と姫鱒って何?」
圭介は少し考えるように唸り、得意げな顔を作って答えた。
「う〜ん、本鱒はヤマメ系の魚みたいで、昔日光に放流した琵琶鱒の子孫って感じかな。で、姫鱒は紅鮭のちっちゃいやつだよ」
「ふーん……」
相槌を打ちながらも、愛生はじっと兄の顔を見つめる。
(なんか、めっちゃ適当な説明だなぁ……。いつも釣りのことになると得意気なのに、この感じ……今さっきスマホで調べたんじゃない?)
半分呆れ、半分面白がるように兄を見上げる愛生。
圭介はその視線に気付くと、わざとらしく咳払いをして視線を逸らした。
「へぇー、詳しいんだね」
愛生がニヤニヤしながら煽るように言った。
圭介は待ってましたとばかりに胸を張り、得意げに 「もちろんだよ」 と答える。
「じゃあさぁ……どうやって本鱒とか姫鱒って釣るの?」
愛生がさらに踏み込んで聞くと――
「う〜ん……わかんないや」
圭介はバツが悪そうに笑って、舌をちょこんと出す。まるで 「テヘヘ」 と言わんばかりの顔だ。
「……やっぱりアホだ」
愛生は呆れながらも、つい笑ってしまう。
(相変わらずのお兄ちゃんのアホっぷり……でも、なんだか心が和むんだよなぁ)
そんな和やかで優しい時間が、湖の上でゆっくりと流れていった。
緑に染まった湖面、そして美しい山々に囲まれた自然の中。
楽しそうに竿を振る愛生の笑顔に、圭介は思わず見惚れてしまう。
(こんなに嬉しそうにしてくれるなら……遠いところまで来て、本当に良かったな)
心からそう思い、胸の奥が温かくなる圭介だった。
その後も愛生と圭介は交互に数匹ずつ釣り上げ、気がつけば時刻は正午――お昼の12時になっていた。
正午を迎え、釣りに一区切りがついた頃。
愛生がスマホを手に取り、画面をのぞき込んで声を上げた。
「――あっ、里香からLINEだ!」
嬉しそうに読み上げる愛生。
『愛生、お昼ご飯にしよ(◍•ᴗ•◍)』
絵文字付きの、やわらかくて可愛らしいメッセージだ。
愛生はにっこり笑いながら、その画面を圭介に見せてくる。
「……あ、俺にも来てるな」
圭介も自分のスマホを確認した。
そこに表示されていたのは――
『お昼ご飯!!』
ただそれだけの、シンプルすぎるメッセージ。
「……なんだこの差は……」
肩を落とし、ガッカリする圭介。
愛生はそんな兄の反応に、クスクスと笑いをこらえきれなかった。
愛生と圭介がレストハウスへ戻ると、ちょうど里香と明宏もタイミングよく帰ってきた。
「よし! 湖畔でうどん作りだ!」
張り切った様子で声を上げる圭介。
だが――ふと横を見ると、レストハウスのレストランはすでに営業を始めており、
店先からは美味しそうな香りが漂っていた。
「わぁー! レストランだ!」
「ねぇ、こっちで食べようよ!」
「美味しそうだなぁ!」
愛生も里香も明宏も、すっかり圭介のうどんのことなど忘れ去り、
目を輝かせてレストランへと足を向けてしまう。
――これが兄の辛いところだ。
せっかく準備は万全に整えたというのに、努力があっさりと無駄になることがしばしばある。
「フッ……」
鼻で笑い、ひとり寂しく心を落ち着ける圭介。
しかし、その小さな嘆きを誰ひとり気づいてはくれなかった。
レストランのメニューは軽食が中心だったが、その中にラーメンがあったので、4人はそろってラーメンを頼むことにした。
湯気の立つどんぶりを手に取り、麺をすすりながら、窓の外に目をやる。
湖畔では釣り人たちが思い思いに竿を振り、楽しそうに過ごしている姿が見え、自然と心が和やかになる。
そのとき、里香が真剣な眼差しで明宏を見つめた。
「高校でね、私が部長で“鱒釣り部”を立ち上げたの。
中等部の生徒も準部員として参加できるから……明くん、あんたも参加しなさい」
突然の誘いに、明宏は箸を止め、少し驚いたように目を見開く。
だがすぐに笑顔を見せて――
「里香姉が部長なら……俺、絶対に参加するよ!」
と、嬉しそうに答えた。
「よかった〜」
安堵の息をもらす愛生。
「みんな仲良しで、いいことだ」
ラーメンをすすりながら、そんな光景にホッコリする圭介であった。




