運命の休日・出港
読んで下さる皆様、心より感謝致します。
ゆっくりと物語を進めますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
冬の朝の港は、思った以上に賑やかだった。
氷の入ったクーラーボックス、釣り竿の束、そしてなぜか妙にテンションの高いおじさん達。
「よし……これが船釣りか……」
圭介は桟橋の先に停泊するアジ仕立船を見上げ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
人生初の船釣り。
しかも相手は海。
昨日から三回は酔い止めの注意書きを読み返し、今朝もきっちり服用済みである。
「圭介くん、顔ちょっと青くない?」
背後から声をかけてきたのは、事務の石持沙代里だった。
ダウンジャケットの前を閉じているにもかかわらず、主張の強いシルエットが隠しきれていない。
「だ、大丈夫です! 酔い止め、飲みましたし!」
そう答えつつ、圭介の視線はどうしても上下に彷徨ってしまう。
本人にその自覚はないが、船の揺れを想定してなのか、沙代里は圭介のすぐ横――
近い。普通に近い。
(近い……! 距離が……!)
「船は初めてなんだよね?
じゃあさ、出港したらここ、つかまってたほうがいいよ」
そう言って沙代里は、圭介の背中をぽん、と軽く叩いた。
それだけなのに、ダウン越しでも伝わる柔らかさに、圭介の心臓は不規則なビートを刻む。
「う、うす……」
――この人、距離感が相変わらずおかしい。
一方その頃。
「ふん、今日は凪だな。腕が鳴るわい」
「アジは冬が一番脂が乗るんじゃ。今日は三桁じゃな」
源蔵と三郎は、すでに勝利宣言を交わしながら仕掛け談義に花を咲かせていた。
完全に“いつもの海”である。
「圭介、船長の話ちゃんと聞けよ!」
「初心者は最初が肝心じゃからな!」
二人に左右から声をかけられ、圭介は慌てて船長の説明に耳を傾ける。
・竿は軽く構えること
・仕掛けは船が合図してから落とすこと
・コマセは一気に撒かないこと
頭では理解しているが、足元がじわりと揺れるたびに、別の意味で集中力が削られていく。
その理由は――
「圭介くん、寒くない?
ほら、こうしてたほうが安定するよ」
沙代里が、隣で少しだけ身を寄せてきたのだ。
腕を組むほど露骨ではない。
だが、肩と肩が触れ、動くたびに柔らかさが……。
(愛生や花音がいたら、絶対に許されないやつだ……!)
本人は「今日は詰まらないなあ」と思っているらしく、
控えめなソフトタッチで済ませているつもりなのが、なおさらタチが悪い。
「出港しまーす!」
エンジン音が高まり、船がゆっくりと岸を離れる。
冷たい海風が頬を打ち、圭介は深呼吸した。
(よし……釣りに集中だ……!
巨乳とか、距離感とか、今は考えない……!)
そう心に誓った、その直後。
「ねえ圭介くん、アジ釣れたら写真撮ろうね。
SNS用に、ほら、チームワークってやつ?」
満面の笑みでそう言う沙代里。
圭介の決意は、出港からわずか三十秒で崩壊した。
こうして――
船は沖へ、
圭介の理性は揺れへ、
そして源蔵と三郎のテンションは最高潮へ。
アジ仕立船の一日は、まだ釣り開始前だというのに、すでに波乱の予感しかしなかった。
沖へ向かう船は、すでに軽く揺れ始めていた。
酔い止めを飲んでいても、圭介の胃袋はじんわり不安を訴えてくる。
そんな圭介の横で、沙代里は海風に髪を揺らしながら、
陽気に竿のガイドを指で弾いていた。
「ねぇ圭介くん、ドキドキしてる? 船釣りって楽しいよ〜?」
そう言った拍子に、彼女の身体がぐっと近づき、
ふわり、と圭介の腕に柔らかな圧がかかった。
(…やばい、巨乳…)
圭介の理性が再びぐらつく。
愛生も花音もいない。
彼女は気を遣って自制しているはずなのに、それでも近い。
「だ、大丈夫です…楽しみで…」
「ふふっ、良かった〜。ほら、緊張ほぐしてあげる」
ぽん、とまた背中を叩かれた。
ほんの軽いタッチなのに、鼓動が跳ねる。
一方、船首側では源蔵と三郎が完全に“戦闘モード”へ突入していた。
「三郎さんよォ、今日は数で勝負だ!」
「ふん、年寄りだからって甘く見るなよ源蔵! アジの寄せ方なら任せなさい!」
ドヤ顔を連発しながら、二人は既に釣れた気分で準備を進めている。
そしてついに、船長の声が響く。
「はい、どうぞー! 第一投、スタートしていいよー!」
「圭介くんも、ゆっくりでいいからね?」
「は、はい…!」
ベイトリールを構え、仕掛けを海面へ落とそうとする。
……が。
「あれ? 落ちて…こない?」
圭介はラインを握り直し、もう一度ボタンを押してみる。
カチッ。
だが、オモリはウンともスンとも沈まない。
「え? え??」
慌てる圭介の後ろで、源蔵と三郎がニヤァ……と同時に振り返る。
「おいおい圭介、仕掛けが落ちねぇってのは新しいな?」
「はっはーっ! ボタン押しただけじゃ落ちるわけないだろ、何か引っかけたんじゃねぇのか!?」
完全に盛り上がってしまった二人がドヤ顔を連発して来る。
「えっ、でも…ボタン押しましたよ?」
「押しただけじゃダメなんだよ圭介!」
「ほれ見せてみろ、若いの!」
圭介は真っ赤になりながらリールを見る。
しかし――。
「圭介くん、それ…」
沙代里がそっと覗き込み、くすっと笑った。
「ライン、ガイドのとこに巻き付いてるよ? ほら」
そう言い、圭介の手に自分の手を添えて、優しくラインを外してあげる。
距離、近い。
頬、触れそう。
香り、近い。
そして胸の柔らかさ、また近い。
(ちょ、ちょっと…これ…!)
「はい、これで落ちるよ〜。圭介くん、もう一回ボタン押して?」
ドキドキしながらボタンを押すと――
スルルルルッ!! とオモリが勢いよく沈んでいく。
「お、おおおお!! 落ちた!!」
「はっはっは! 初心者あるあるだな!」
「若いのはいいねぇ、可愛い失敗をしてくれる!」
源蔵と三郎がさらにテンションを上げて騒ぎ立てる。
そして沙代里はというと、
「はいっ、よくできました〜。えらいえらい」
ぽん、とまた優しく背中を叩いた。
その仕草も声色も、妙に近くて甘い。
圭介の理性は、この海よりよほど波立っていた。
ぱしゃん、と軽い波が船べりを叩き、沖の白いきらめきが広がる。
圭介のベイトリールが「カチ」と静かに戻り、今度こそ仕掛けは素直に落ちていった。
「……お、落ちた……」
ようやく自分の第一歩を踏み出せた圭介は胸を撫でおろす。
沙代里がすぐ隣で、そっと背中をぽん。
「圭介くん、ほら、もう大丈夫。あとちょっとでアジちゃん来るからね」
(近い……しかも今日は普通に美人みたいな雰囲気だし……なんか、匂いもいいし……)
圭介の理性がふらつくたび、船も揺れる。
いよいよ釣り開始――そして。
「……あれ? なんか……」
竿先が、コツンと震えた。
「圭介くん、それアタリ! 巻いて、巻いて!」
沙代里が急にテンションMAXになり、圭介の腕を軽くつかむ。
慌ててリールのボタンを押し、巻き取りを開始すると――
ぐん、ぐん、と生命感が手元まで届く。
「つ、釣れてる!」
「やったぁ! 圭介くん、初アジだよ!」
網を構えていた源蔵がドヤ顔で突っ込む。
「おう、若造、こっからが本番じゃぞ」
三郎も「わしの教えじゃな」と勝手に胸を張る。
だが今の圭介に入るのは沙代里の声だけだった。
「圭介くん、すごーい! はい、ほら、にっこり!」
揚がったアジはぴかぴかに光っていた。
圭介が魚を持つと、沙代里がスマホを取り出して即座に寄ってくる。
「じゃあ、いくよ? はい、アジ〜♡」
ぴたっ。
肩が触れた。
胸元の柔らかな感触が、ほんの一瞬、圭介の腕に当たった。
(うわ、近っ……! ていうか、沙代里さん……今日、めっちゃ化粧してる……)
いつもの事務服、すっぴん気味の姿とは違う。
SNS映えを意識してか、アイラインもリップもちゃんと仕上げられている。
丸い目元がくっきりして、素直に「綺麗」と思える。
気づけば圭介の心臓だけ、海よりうるさかった。
ぱちっ。
「はい、撮れたっ。圭介くんとの初アジ記念〜」
彼女は満足げに笑って、写真をすぐ確認。
その横顔は驚くほど女性らしくて、
(……こんな人だったのか……)
と圭介は素直に驚いた。
「ほれ来た! わしは二点掛けじゃ!」
三郎が叫ぶ。
「ふん、三郎。わしゃ三点掛けじゃ」
源蔵がさらに叫ぶ。
「嘘つけ! ほら見せてみい!」
「お前こそ、口だけじゃろうが!」
二人が針数を見せ合いながらケンカのように盛り上がり、
沙代里はそれをパシャパシャ撮影。
「源蔵さん、その顔サイコーです!」
「三郎さん、若手採用のSNSに絶対映えます!」
本人たちは褒められているのかよく分かっていないが、
とにかく嬉しそうに笑い続けた。
◆止まらないアジ、上がるテンション
潮が合ったのか、アジが次々に食ってくる。
圭介も、沙代里の丁寧なフォローのおかげで連発モードに入る。
掛かるたびに沙代里は背中を「ぽん」、
写真を「カシャ」、
そして笑顔を「にこっ」。
「圭介くん、上手! 本当に上手だよ!」
「いや、あの……そんなに褒められると逆に緊張するんですが……」
「うふふ。じゃあ、もっと褒めるね!」
(ああ、これは……愛生と花音が居たら確実に揉めるやつだ……)
しかし今は二人がいない。
つまり、沙代里は誰にも妨害されない。
その結果――
圭介の理性が今日の潮より早く流されていく。
船上はアジのラッシュと、
大人4人のテンションが渦巻く宴会状態に変わりつつあった。




