08 女スパイは ずぶ沼る
侍女室での二週間を終えると、侍女を申し付けられた。本採用だ。お給金が二倍になるという。家族も喜んでくれるかな。ハニトラへ一歩前進だ。
ああ、これで永久就職になってしまった。人生の節目。肩に力が入る。メイドの皆さんからはお祝いを言われた。
ただ、侍女といっても侍女室の所属ではなく、奥様直属だ。どうも、奥様が新人の私を手ずから躾けるということのようだ。平民だったから貴族の知識がない。この社会は細々とした決まり事が多くて、シキタリが大事だものね。貴族としての一挙手一投足を学べるということ。ありがたい……のよね。
メイドの服装はお仕着せだったけれど、侍女はワンピース。ちょっと見は令嬢ね。えへへへっ。侍女室の皆さんのスラックス姿もすてきなんだけど、まずはこっちだ。
一日中、奥様に張り付いている。といっても、朝食後から夕食前までの間だ。御家族は朝と夕の食事を食堂で一緒に摂られる。私は奥様が朝食を終えられる頃に居室にお伺いする。仕事は、手紙の代筆などの雑用やお話し相手だ。お客様が見えられれば控えていて、用事を言いつかる。その他はメイドさんの担当だけど、衣装の整理や着付けとか、お茶の用意を手伝う。特殊技能の髪結いや、部屋の掃除tは専らメイドさんね。
奥様からは姿勢とか所作の注意を受けた。けれど、直ぐにマスター。私には母から教わった下地があるからね。
組織には、侍女へ昇格とだけ報告しておいた。
ときどきリカルド坊ちゃんが奥様を訪れる。
「母上、王都で話題の菓子が手に入りました」
「母上、人気作家の新刊を入手しました」
こいつ、マザコンか!?
メイドさんはニヤニヤしながら私の方に視線をくれる。違う違う、未だ未だ。どうして皆さん、私を坊ちゃんに結びつけて考えるのだろうか。
坊ちゃんには一顧だにされない。ドレスの襟元を少し開けた方がいいかな。素足を見せるわけにもいかないし……。ハニトラへの道は遠い。
お菓子はレモンが載ったタルトだ。さっそく切り分けて、私たちも御相伴にあずかる。ほどよいレモンの酸味は女性好みだ。うん、お洒落だ。
小説は貸していただける。悲恋物語は、さすが流行作家だけあってストーリーの盛り上げ方が上手い。没頭して夜更かししないように注意する。お仕事に差し障るものね。
しばらくして、坊ちゃんが小説を話題とされた。奥様は私の方を向いて「どうだった?」と問う。突然のことで慌ててしまい、つい本音を口にする。
「最初のキスの場面が巧みですね。女主人公の、ぎこちなさが新鮮でした」
このとき、坊ちゃんの目が点になったような感じがした。呼吸が止まったと思ったほどだ。数秒の沈黙後、
「えっ! 胸キュンじゃないのか。
登場人物に感情移入しなかったのかい。冷静なんだなあ」
しまった。答えを間違えた。可愛げが無かった。ハニトラが遠のいたか。
これが坊ちゃんとの最初の会話だった。その後、すれ違うときに挨拶ぐらいはするようになった。
奥様が御茶会で外出される際は必ず同道する。このときは令嬢並みに着飾る。もちろん、侍従さんとメイドさんも一緒だから、助けてもらえる。緊張のし通しということはない。
四人で乗り込んだ馬車は上等な造りで振動や揺れが全くない。荷馬車や乗合馬車とは大違いである。それに王都の道は敷石で舗装されているから快適だし、速い。
他の奥様方にも、私と同じ侍女さんや令嬢が付いてくる。その方々との懇談の席も別に設けられていて、顔見知りになる。
「貴女、ホントに平民なの? 所作が見事過ぎるわ」
「頻繁に言われるのよね。うちのお屋敷は厳しいの」
「貴女のドレス、シンプルだけど、上等よね」
「奥様のお古を仕立て直したものなの。ほら、ウチ、坊ちゃん一人でしょ。侍女は実の娘の様に可愛がってもらえるの」
それから、どこそこの令嬢とあの令息は怪しいとか、某伯爵家は離婚一歩手前だとか、ゴシップ情報も面白い。お友達との潤滑剤ね。そして奥様からは、気になる話があったら教えるように言われている。奥様は奥様で地獄耳だ。
侍女と令嬢の境界は曖昧ね。ウチではイレーネさんが子爵令嬢で、ジェシーさんが男爵令嬢だ。高位貴族だって侯爵令嬢が公爵家の侍女だったり、公爵令嬢が王家の侍女という例もある。そこに私が混ざっても、あまり違和感は持たれない。女には玉の輿という奥義があるからね。いつなんどき、見初められ高位貴族になるなんてことも無いことはない。みなさん、先が読めるから差別なんてしない。男にだって婿養子という出世コースが用意されている。見込まれれば次男が家督を継いだ長男よりも上の爵位になることもザラ。
中には私を見下す方もいるけれど、無視よ、無視。
帰りの馬車では、メイドさんや侍従さんと話す。聞き込んできたウワサ話に花が咲く。そして裏方の待遇に話が及ぶ。それはそうよね。お茶会の参加者は主客だけではないのだから。
馬車が静かに走るので車内では会話が可能だ。奥様はニコニコと聴いておられる。下賤な話を聞かすななどと叱責されることはない。