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第三章 戸次川合戦 頁二

 本気か。

 存保、元親・信親は秀久をまじまじと見やった。秀久はうっとうしそうに、

「もうあなたたちには用はない。それがしのみで鶴賀城に向かう」

 存保は我知らず眉をひそめた。

(おれとて、好きで長宗我部に賛同しているのではない)

 できれば昔のことをなじってやりたい。しかし、それは浅はかなことだ。昔のことをなじったところで、現状が改善されるわけでもない。ただ己の器の小ささを示すだけだ。

(しかし)

 友軍の救援に向かいたいのも、秀久と同じだ。援軍が近くにいながら助けてもらえずに敗北してしまう苦しさは存保も味わっている。鶴賀城の者たちの苦境がわからないわけではないが、行ったところで島津軍の餌食になるのが落ちだ。そろって敗北し、あまつさえ戦死の羽目になれば、それこそ犬死にしてしまうことになる。

 ここは歯を食いしばって自重し、他の手立てを考えるしかないではないか。なのに、無謀にも秀久はゆくという。

(馬鹿め)

 元親も奥歯をかみしめる。

(秀吉公のもとで戦功を立て一国を与えられたほどのものが、今どうすべきかもわからぬというのか。この男は己の立場の自覚もなく、一騎駆けの猪武者のまま振る舞っている)

 そんな男が軍監として、四国勢を仕切っている。しかもその無謀に付き合えといい、反対すればひとりでゆくと駄々をこねる。およそ一軍を率いるものの言動ではない。

(成り上がりとは、こういう男のことを言うのか)

 秀久はまさに成り上がり者であると、元親は見た。

「……」

 信親は口つぐみ黙っている。何も考えられない。

 すっ、と知らずに手が動き、胸の懐に触れる。秀久はそれを見逃さず。

「信親殿、怖ければ無理せずともよい」

 あからさまになじる。信親が胸に手を当てたことを、臆病からしたことと決め付けたのだ。引田での怨みもあるから、なおさらだった。

「怖いなど」

「いやいやよいのでござる。義統殿と一緒に府内城に控えていなされ。無理強いをして連れてゆけば、士気にもかかわる」

 これみよがしに自分を臆病扱いする秀久に信親はついかっとなり、立ち上がろうとするが。息子の様子に気付いた元親は咄嗟に信親の足を踏み、思いとどまらせた。ここで無礼があれば後で何を秀吉公に言われるかわかったものではない。

 信親は父の意を察し、かろうじて立ち上がるのをこらえたが、怒りはおさまらない。

(最初からそのつもりだったか)

 秀久はもうゆくと決めている。最初から意見を聞く耳は持たず、この軍議にしても、一緒に行くか否かを聞くだけのものでほとんど形だけのものだった。

(だからといって軍監のみでゆかせるなど、できるわけがないではなか)

 もしそうなれば、後世の聞こえも悪かろう。

「土讃の兵は島津を恐れるあまり、身動きも出来ぬ有様じゃったそうな」

 と言う後世の人々の嘲りがありありと聞こえてきそうだった。武士にとって、面子は命より重い。元親にしても初陣の折りに、「命よりも名を惜しめ」と家来たちに叫び奮戦したものだった。

 存保は拳を握りしめた。

(結局は、ゆかねばならぬ)

「わかりました。それがしも秀久殿と共に参りましょう」

 やむなく、そう言わざるを得なかった。それを聞いた秀久は一転して喜色満面。

「おお、さすが存保殿はものわかりがよい」

 あてつけるように元親と信親を見ながらいった。

 そんな褒められ方をされても存保は嬉しくない。むしろ解消するようつとめていた長宗我部との確執をぶり返されているようだった。

(こんなやつが、軍監か)

 なにか、けったくその悪い気持ちが胸から込み上げる。

確執は長宗我部だけではないのだが、秀久にはわからない。

「我らも秀久殿とともに参りましょう。土佐武士が薩摩隼人にひけをとるか否か、その目で見ていただきましょうぞ」

 元親は重い口を開いた。

存保がゆくとなれば自分たちもいかねばならない。昔のこととはいえ、自分たちが打ち負かしたものが進み、それでいて勝った自分たちが控えるなどできるわけがない。

 信親も黙って、父に従うしかなかった。

 こうして、四国勢六千は鶴賀城へ向かうこととなった。


 天正十四年の十二月十二日の朝。朝もや立ち込める中を、永楽通寶の旗をなびかせ仙石秀久の軍勢が一路鶴賀城を目指して進軍する。兵数は二千。

 その後ろに公饗に檜扇の旗をなびかせる十河存保の軍勢、兵数一千。そのまた後ろにかたばみの旗をなびかせる長宗我部元親・信親の軍勢、兵数三千。

 鶴賀城を攻める島津勢も、そのことには気付いている。

 四国勢の存在そのものは上陸当初から偵察でわかっていた。最初こそ、ついに来たか、と多少の警戒もしたが。その兵力がわずか六千であると知ると、

「たったそれだけか」

 と拍子抜けさえした。上方からの援軍であるというには、大軍をもって攻め込んでくると思っていたが、なんとも舐められたものだった。

 それが今自分たちが攻めている鶴賀城の救援に向かっているという。

「ほんとうか」

 攻城の指揮を執っている島津家久は、まさかと思い斥候の報告を聞き返した。四国勢は我らの兵数を知って来ているのかどうか。しかし、斥候の報告を伝えた家来は、

「まことでございます。仙石秀久の軍勢を先頭に十河、長宗我部と続き、この鶴賀城へと向かっており申す」

「どこかで耳川か沖田畷(おきたなわて)の合戦を聞き及び、それを真似ようとしておるのでござろうか」

 家来の本庄主税助(ほんじょうちからのすけ)が言った。

 耳川とは島津軍が小勢でもって大軍の大友軍を打ち破った合戦のことだ。沖田畷の合戦とは、同じく島津軍が小勢でもって肥後竜造寺氏の大軍を打ち破った合戦のことだ。

 沖田畷の合戦においてでは竜造寺当主の竜造寺隆信は討死に。島津はこの戦により勢力拡大を決定的なものにして、大友氏を豊後の隅にまで追いやり、九州制覇まであと一歩のところまで迫っている。

 ちなみに、この両合戦において釣り野伏せがつかわれた。

「まさか」

 家久は首を横に振った。事前の偵察で各将のことは調べている、軍監をつとめる仙石秀久という男は確かに豊臣秀吉のもとで戦功を立てている。しかし失敗も多く、戦上手というより生き残り上手という印象の男であった。

 続き十河存保は勇敢なれど負けが多く凡庸。九州の島津よろしく四国を荒らしまわった長宗我部元親と信親が、かろうじて人物と呼べる。というところであろうか。

 だがその長宗我部父子も豊臣秀吉に膝を屈し、仙石配下として、一緒にこちらに向かってきている。

 それを思えば、さてそこまで思慮がおよぶであろうか、島津を模した罠があるのかどうか。とりあえず念のためと思いもう一度斥候をやった。六千の兵はおとりで、どこかに伏兵を潜ませているかもしれない。

 斥候が帰るまでの間に、鶴賀城を激しく攻め立て、その指揮を執った。

 城兵たちも必死に防戦するも、まるでひと塊となってぶつかってくる薩摩隼人らの激しい攻撃のため、ひとり、またひとりと戦死してゆき、城内に屍が折り重なってゆく。落城までそう長くは持つまい。

 そうするうちに斥候の報告が来た。

「どうだ」

「こちらに向かっているのは、まぎれもなく四国勢の六千のみでございまする」

「わかった」

 家久は力強く頷き、即断した。敵がなぜ無謀な進軍をしているのかで考え込むような無駄はしない。こちらは地の利もあり兵力の利はもっとある、余所者の小勢などなにほどのことがあろう。

「兵を割き、上方(四国勢)の軍勢を迎え撃つ」

 (くう)を揺るがすような家久の大喝。それから各将に、また空を揺るがすような大喝で指示を出す。

 従う諸将たちも家久の大喝を受け、弾かれるように勢いよく「はっ!」と返事をしそれぞれの受け持つ各処に散らばって、四国勢を迎え撃つ準備が整えられようとすれば。十二月の冬の寒気を吹き飛ばすような熱風がにわかに吹いたようで。

 それは薩摩隼人たちから発せられる風のようにも感じられた。


 府内から出立した四国勢六千は鶴賀城向かって南下してゆく。南下すれば大野川という川にさしかかりその東岸の道沿いにまた南下してゆく。

 この大野川は豊後に接する日向(宮崎県)と阿蘇(熊本県)との境の交わる山岳部を源とし、北東の方角に向けて豊後を流れて海に達する。

 南下してゆくことは上流に向かってゆくことになる。川をさかのぼるようにしばらく南下すれば、竹中山という山のふもとに差し掛かり、そこで軍をとめ陣を敷いた。

 大野川は四国勢のなすことなどおかまいなしというように、陽光を反射させながら悠々と流れてゆく。魚が一匹、ぴょんと跳ね、水を跳ね上げて川にもどる。

 川幅は広いが、さほど深くなさそうで人でも渡れそうだった。

 川を渡れば中戸次というところとなる、中戸次というからには、北に下戸次、南に上戸次というところもある。ともあれ、いまいる竹中から川を渡り西に進めば鶴賀城である。

 存保は対岸の向こうに目をやった。なにか、異様な雰囲気を感じ取った。なんというか、殺気というものか。

 その殺気が熱湯から発する湯気のように沸き上がり、陽が中天にまで昇った空にさえも届き、陽をいっそう熱しているような。それが熱風となって吹きつけ、朝に感じた冬の寒さを吹き飛ばしてゆくようだ。

 長年の戦場暮らしのカンが、それを察していた。

 軍中に一気に緊張が走った。

 川の向こうに、島津軍がいる。

(なるほど土佐武士に勝るとも劣らず)

 中富川で土佐軍と向かい合ったときのことが思い出される。そのときも土佐軍の発する殺気の凄まじかったこと。悲しいかな、兵のほとんどがその殺気に気圧されてしまっていた。さらに妻のお燕は耳をふさぎ縮み上がって震える有様であった。

 もしお燕が薩摩隼人の殺気を受ければ、縮み上がるどころではあるまい。

 存保は奥歯をかみしめた。

 まだ姿も見る前からこうまで殺気を感じるとは。

 隊こそ与えられなかったものの、島津の戦いを見聞きしたことが評価されどうにか一騎駆けの武者として十河家に復帰を許された孝康は、馬上、存保と同じように殺気を感じて息を呑んだ。

 寒川七郎、弾正主従も同じ、

(これは、土佐の衆の比ではない)

 と、緊張に顔の表情も硬く。今までの雪辱という気持ちが萎えそうだったのをかろうじてこらえていた。

 まるで十河勢全体が、殺気にのみこまれているようだ。だれも声を発しない。ただ対岸を強張った顔で見据えているのみだった。

 旗印が風にゆれる。

 十河家のさらなる復活がなるかどうかが、対岸の向こうにあった。

「殿」

 孝康だった。馬上、身を固くする存保を見て、どうするのかと聞いた。

「ゆくしかあるまい」

 もう島津軍は目と鼻の先。おそらく向こうも気付いて、臨戦態勢をとっているだろう。それを思えば、今から引き返しても後ろを突かれてしまいかねない。

 孝康でもその程度のことはわかる。眉をしかめる。

(行くしかないか)

 と心でつぶやき。

「左様でござるか」

 と応える。

 存保は、孝康が島津を恐れているのを察して、やや顔の表情をやわらげていった。

「いつものお前はどこにいった」

「え、いつものそれがし、とは。それがしは、いつもそれがしでござるよ」

 きょとんと応える孝康。やっぱりと言いたそうに存保は大笑する。

「おうおう、おるわおるわ、いつものぼけた孝康が。あっはははは」

 ほんとうは、いつもの勝ち気なお前はどこに行った、と聞きたかったのだが、それはやっぱり通じなかった。中富川の合戦の時、あれだけ主戦論を叫んでいたではないか。

 しばらく会わないうちに、良くも悪くも、角が取れているようだ。

「殿、ぼけとはそりゃひどい。これから命がけで戦う者に言う言葉ではござらぬ」

 ぷっと頬を膨らませる孝康。こんなところで、勝ち気が顔をのぞかせた。

「ああ、わかったわかった、存分に励めよ」

 と、その肩をぽんぽんたたく。もう、といいたそうな孝康の顔。

「相変わらずでござるなあ、孝康どのは」

 寒川七郎がおかしそうにいう。弾正は笑いをこらえている。それにつられて、他のものもおかしそうにして、緊張がすこしほぐれたようだ。

 過度の緊張はかえって身体を無駄にかたくしてしまう。それを避けるため、存保は孝康をダシに使ったのだ。そうとは知らず、孝康は中富川の合戦のときのように、

「薩摩隼人なにするものぞ」

 と鼻息も荒い。皆の前でぼけよばわりされて、闘志がかき立てられたようだ。

 その時、軍議を知らせる秀久からの使者が来たので、存保は軍議に向かった。

 

 島津軍を目前にして、秀久は興奮しているようであった。興奮のあまり、

「韓信は背水の陣を敷き……」

 などと言い出す。古代中国の武将、韓信が川を背にして敵を打ち破った例を持ち出し、戦意を高めようというつもりだろう。

 なるほど川を渡れば背水の陣となる。

 が、大野川は浅く、ただ川を背にするのみのことである。韓信が背水の陣で勝ちえたのは、ひとえに川の深さにあった。深い川を背にすることで退路を断ち、死に物狂いで戦うからこそ背水の陣の意味がなるのだが。はたして秀久はそこまで思慮が及んでいるのかどうか。

 このあたりを見渡せば、土地は開け、あわやというとき逃げようと思えば逃げられそうである。それで背水の陣の話をしても、説得力に欠けるように思われた。

「お言葉でござるが」

 元親であった。元親はこの軍議でどうにか秀久を説得しようとするも、しかし秀久は聞き入れない。

 ついには顔を真っ赤にし、

「我が命は秀吉公の命でござるぞ」

 とまで叫んだ。

 ここまで来たのだ、ぐずぐず言わずに一緒に来い。そんな言葉が聞こえてきそうだった。

 存保は無表情をよそおい、元親と秀久のやりとりを黙って聞いている。が、少しでも気を緩めれば眉をひそめそうだった。ふと、ちらっと信親を見た。

 信親も存保の視線に気付き、目を合わせる。やけに、お互いの目が光っている。

(もう、ゆくしかない)

 と目で語り合った。

 あとのことは、天命に任せよう。もうここまで来たら、そうするしかない。

「ゆきましょう」

 存保はいった。

「川を渡り、薩摩隼人どもと渡り合いましょう」

「父上、ゆこうではありませぬか。かくなるうえは、我ら土佐人の心意気を、とくと薩摩人に見せてやりましょうぞ」

「なんの、讃岐人も負けはせぬ」

 存保と信親が川を渡って島津軍と渡り合おうと言い出す。突然のことに秀久は一瞬驚いたが、これで三対一となった。

 元親は口を固く閉ざし、深く思案し、

「ゆくか」

 とつぶやいた。


 大野川の川原が途端にものものしくなった。

 永楽通寶の旗がなびき、先頭に立って川を渡る。右翼にかたばみの旗。左翼に公饗に檜扇の旗。

 川を渡れば、丸に十字の紋の旗。島津軍だ。鉄砲を撃ちつけ威嚇射撃をする。

「来たぞ」

 存保は叫んだ。それにともない、讃岐武士たちも「応」と叫んだ。

 四国勢は鉄砲にひるまず、島津軍に突っ込み、ぶつかった。

 秀久も歴戦の勇士らしく、馬を奔らせ槍を振るい、島津軍の武士たちを蹴散らせてゆく。遅れるなと、長宗我部、十河両勢の武士たちも奮い立ち、島津軍と渡り合う。

 寒川七郎はついにやって来た雪辱の機会を果たそうと懸命に働いた。弾正も援護しながら懸命に働いた。寒川主従のみならず、孝康も、十河の讃岐武士たちも懸命に働いた。

 屈強で知られる薩摩隼人だからと怖じるわけいはいかない。

「ゆけ、ひるむな、ゆけ。我らの未来はこの一戦にかかっているぞ」

 大喝する存保。

 ぶつかりあった四国勢を押し返そうと、島津軍も懸命に押し寄せてくる。なるほど薩摩を含める南九州人は古来より朝廷にいくたびと反乱を起こし、隼人と呼ばれ恐れられた者たちの血を受け継ぐだけあって、一筋縄ではない。

「チェスト!」

 という独特の掛け声で太刀を振るい存保に斬りかかってくる。

 その太刀さばきもまた豪快で、まさに叩っ斬るという言葉通りの力強さがあった。

「それがどうした!」

 太刀をかわし、槍を繰り出し、敵を蹴散らすも。島津軍の太刀や槍が一振り一振りされるたび、強い風を受けているようである。

 それらを蹴散らせながらも、その勇猛な戦いぶりは歯ごたえがあるものだった。思わず血がたぎるのを覚えた。

(これほどまでのものなら、戦い甲斐があるというものだ)

 敵が強ければなお燃える、なにより勝てば喜びもひとしおであるし、存保の言うとおり未来がかかっている。彼らは未来のために奮い立って戦っていた。

 信親も奮戦し、島津軍を蹴散らせてゆき、その雄姿を敵に見せつける。

「小雨、おれは戦っているぞ」

 我知らず叫んだ。土佐を発つ前夜、小雨は信親を勇気付けようとしてくれた。髪を切り、それをもっていつも一緒だといってくれた。

 それに応えようと、信親は必死だった。

 島津軍は信親の雄姿を見とめ、凄まじい勢いでぶつかってくる。やはり薩摩隼人も敵は強い方がよいのだろう。好敵手と渡り合える喜びを全身であらわし、打ちかかってくる。

「あはは、やりおるわい」

 島津軍を指揮する島津家久は四国勢の勇戦に感心しきりだ。

「それ、遅れをとるな、返り討ちにせよ」

 空を揺るがす大喝。人々の胸にずんと杭が打ち込まれるように響く。

 家久は猛者ぞろいの島津一門の将らしく武勇に長け気骨もあるだけでなく、兵法の心得も十分あり、島津氏中興の祖と呼ばれた名将の祖父島津忠良より「軍法戦術に妙を得たり」と高く評価されている。その評価どおり、つねに前線に身を置き島津家を支えてきた。

 島津家自体、鎌倉時代に源頼朝から抜擢を受けてより代々南九州を治めてきている名族であり、豊臣秀吉が九州島津家に対し服従を迫ってきた際も、「関白だとて卑賤の身から出た者ではないか。そんな者に我が島津家が従えるものか」と突っぱねた。

 四国勢が戦うのは、そんな島津家であり、今戦っている将も、そんな家久である。

 丸に十字の紋の旗が、四国勢に怒涛のごとく押し寄せる。

 だが四国勢も負けていられない。双方激しくぶつかりあい、一進一退の戦いが繰り広げられた。ぶつかった当初は島津軍優勢であった。四国勢は押され気味であった。

 だが、陽が傾き始めた頃戦況が一変した。四国勢の懸命な戦いが功を奏したか、島津軍がしりぞいてゆく。先頭の仙石秀久はもちろん、十河存保、長宗我部元親・信親らはここで負ければ後がないと、まさに背水の陣を敷いた思いで島津軍に真っ向からぶつかってゆく。

 家久は苦虫を噛みつぶしたような顔になり、

「退け」

 と命じた。

 家久の下知のもと、島津軍が退いてゆく。軍を退かせながら家久は舌打ちをしていた。

「思った以上にやるではないか」

 これは本心からだった。

 さすがの家久もこの奮闘振りに本心から四国勢の強さを認めた。

 認めながら、

(それでよい。さあ来い、ついて来い)

 とまるで呪詛のようにこころでつぶやいていた。

 

「ああ、これは」

 孝康が槍を振るいながら島津軍の退くを見て、つぶやいた。急いで存保のもとまで駆け寄り、

「殿、深追いをされるな」

 と呼びかける。存保はそれを聞き、後退しゆく丸に十字の紋の旗を睨みならが、

「止まれ」

 と全軍に呼びかけた。

 十河勢は存保の呼びかけで一旦止まった。勝っているのにどうしたのだ、といぶかりながら。

「殿、なぜ止まるのですか。敵は浮き足立っておりまする。この機を逃せば……」

 勇戦の甲斐あって、小勢ながら大軍を撃破できるかもしれない機会を逃すかもしれないではないか。珍しく寒川七郎が気色ばんだ。おそらく初めての勝利の快感に酔いしれているのだろう。

「若、焦ってはいけません」

 弾正だ。弾正も島津の引くを見て一瞬喜んだが、咄嗟に孝康の話を思い出したのだ。だが七郎はまさかという感じで。

「釣り野伏せか。まさか。あれは演技ではなかろう」

 確かに退く島津軍はほんとうに苦々しく悔しそうにしている。これは演技ではないだろう。しかし、

「七郎、気持ちはわかる。だが無闇に進まぬも将の道である。たとえ今退くのがほんとうだとしても、またその後の手があるかもしれん。島津が戦上手なら、その程度の兵法も心得ていよう」

 存保のその言葉に、未練ながらも、七郎は黙って頷くしかなかった。 

「ここは一旦はとどまり、相手の様子を見よう。再び進むはそれからだ」

 あきらめているわけではない。なによりここはふるさとより遠く離れた九州は豊後、道案内がいるとはいえ余所者がうかうかと動くのはよくない。

 しかし、

「殿、殿、せ、仙石が……」

 孝康がどこかを指差して叫んだ。指差す先は、永楽通寶の旗。島津に釣られる様に、力任せに突き進んでいる。

 

 その様子は右翼の長宗我部勢にも見て取れた。

「仙石秀久がゆくか。我らも負けてはおれんぞ」

 土佐武士たちは仙石軍が島津軍を猛追するを見て勇み立ち、負けじと島津軍を追撃しようとする。信親もここぞとばかりに槍を握りなおし、突き進もうとする。それを石谷頼辰が止める。

「お待ちを信親殿。これは策やもしれませぬ」

「策? なぜそう言うのです」

「引きようがおかしいのです。我らに負けて退くにしても、あまりに整った引きよう。これは策があるとお見受けいたす」

「まさか」

「いえそのまさかです。普通負けて退く場合、我先にと一斉に散り散りばらばらになってしまうものですが、島津軍は退くにしてもその陣立てを整えたまま後ろへさがってゆきます。そうですな、旗を御覧なされ」

 あせる信親ははっとして、退いてゆく丸に十字の紋の旗を見やった。いわれて見ればたしかに我先にと一目散に逃げだすものは少数で、ほとんどの者たちは一糸乱れぬ隊列を組み、じりじりと引いてゆく。丸に十字の紋の旗もまるで根が張っているようにすっくと立ちあがって、誘うようにはためいて後退している。

 その見事な隊列の動きに思わずうなる。四国はおろか本土でもここまできれいな後退ができる隊は少ないのではないか。

 頼辰は長年の経験とカンで島津軍の動きの整いようをすばやく見抜いたのだ。

「島津軍は戦上手、負けて退いてもおそらくその後の手というものもあるかもしれません。ことに我らが戦う将の家久の兵法は達者であるとか。この後で、必ずや罠があるに違いありません」

「かたじけない。信親若気の至りで策に乗るところでござった」

 元親も同じように気付き、自軍を止めようとする。

 しかし、血の気の多い土佐人のほとんどはしりぞく島津軍をあきらめきれず、秀久と一緒になって追撃をしようとする。

「馬鹿め」

 元親は歯噛みした。四国統一戦に出征しているころは長宗我部軍にも統率はあった、しかし我が世の春もほとんどなく豊臣秀吉に土佐一国に押し込められ、その鬱屈がたまりにたまり、この戦いにいたってついに爆発したようだった。

 夢よもう一度。土佐人の心を言葉にすれば、そんなところであったろう。

 

 永楽通寶の旗とかたばみの旗が丸に十字の紋を押してゆく。そのかたわらで公饗に檜扇の旗が立ち止まっている。

 秀久は得意になって、島津軍を激しく攻め立てる。攻め立てれば面白いように押してゆける。

「薩摩隼人も口ほどにもない」

 もう完全に得意になって自軍を叱咤し、目前の勝利をもぎ取ろうとしていた。土佐武士たちも元親の「止まれ」という下知も耳に入らず、秀久軍と一緒になって島津軍を攻め立てた。もう暴走といってもいい。

「これはいかん」

 長宗我部家家老、桑名太郎左衛門(くわなたろうざえもん)が自分の指揮する兵たちをもって暴走を食い止めようとする。三千の長宗我部軍は、元親、信親、そしてこの桑名太郎左衛門がそれぞれ一千ずつ分けて指揮していたが、そのほとんどが本能のままの戦に血まなこになっていた。そのため彼が動かせる兵はごくわずかの有様で。

 止めるどころか味方から邪魔をするなと攻められかねなかった。

 元親に信親と頼辰も、この暴走を歯噛みして食い止めようとするが、なかなかとめられなかった。

「これでは島津軍の思う壷でござる」

 頼辰はそういうも、どうしようもなかった。

 そんな仙石秀久軍と長宗我部軍を傍目に、存保らは成り行きを見守るしかない状態だった。

(例えおれたちがここで踏みとどまっても、他が猪のように突っ走ってしまえば意味がない)

 もし罠があれば、巻き添えは必至だった。

(かといって、逃げるわけにもいかん)

 武士の面子は命よりも重い。味方を置いて我らだけ引くなど出来ようか。存保は、武士であるどころか、一軍の将という自分の立場を、このときほど重いと思ったことはなかった。

 味方の軍勢は、まるで引きずり込まれるようにして、突き進んでゆく。このままいけば、間違いなく島津軍に飲み込まれるであろう。

「つ、釣り野伏せ……」

 孝康が、ぽそっとつぶやいた。脳裏に山賊仲間と一緒になって震えながら島津軍の戦を見ていたことが思い描かれた。

「あれが釣り野伏せじゃ。はたから見ていても、恐ろしいわい」

 かつて山賊仲間から教えたれたその兵法。そのときに見た戦は大きなものではなく、局地戦的な小さなものだったが、そこでの島津軍の釣り野伏せのなんと鮮やかにして恐ろしかったものか。背筋に悪寒が走る。

 七郎、弾正ら家来たちは、暴走する味方を睨む存保をじっと見守っていた。今の存保に何を言えばよいのか、誰も適当な言葉は見つけられなかった。

 それに気付いた存保は、口を真一文字に結び、鼻で大きく息をしたかと思えば。

「七郎!」

 と寒川七郎を大声で呼んだ。七郎はその声に驚き、咄嗟に返事が出来なかった。存保の声は、まるで大太鼓を力の限りに叩いて大きく鳴らせたかのような轟きがあり。呼ばれた七郎の心臓は大太鼓のバチで強く叩かれたかのように激しい鼓動を繰り返す。

「七郎、聞こえているのか」

「は、はい」

 この突然の存保の声に指名に、周囲は何事であろうと思いながら、存保の言葉を待てば。

「おぬしはここより引き返し府内にゆけ。そしてもし万一のことがあれば、千松丸を秀吉公のもとに伺候させよ。わかったか」

 張りのある存保の声。言葉。七郎は言葉が出なかった。

 十河勢はその存保の言葉に騒然となった。

「殿、それは……」

「孝康、黙っていろ。おれは七郎と話をしているのだ」

 存保は七郎を見据え、答えを待っている。弾正は存保の気持ちを察して、胸を痛めていた。

 七郎はしばらく呆然としていた。弾正と同じように、存保の気持ちを察したのだ。もう、そう決意していれば何を言っても無駄であろうし、存保を侮辱することにしかならないだろう。

 意を決し、「仰せのままに」といおうとしたその時、空が炸裂するような激しい銃声が轟いた。それに続いて、獣が獲物を狩るかのようなすさまじいまでの咆哮が響いた。


 このまま島津軍を蹴散らせてやると、意気揚々と追撃に追撃を重ねていた仙石軍だったが。どこから来たのか突然四方八方から激しい銃声が轟いたかと思うと、それに続いて島津軍の伏兵が怒涛のように押し寄せてくる。

「しまった、罠か!」

 味方がつぎつぎと薩摩隼人の餌食になってゆく。罠にはまったとわかったときにはもう遅かった。

「逃げろ、逃げろ!」

 脱兎のごとく、秀久は逃げだした。ひとりで。進軍を強く押し進めた事など、もう忘れている。

 その逃げ方凄まじく、島津軍を追って追撃しているときよりの数倍も勢いと速さがあり、誰も止めることはできなかった。それから秀久を見た者はなかった。そのため指揮系統は乱れに乱れ、四国勢は一気に混乱に陥った。

「ゆけ、一人も生きてかえすな」

 家久の怒号。見事釣り野伏せが決まった。

 敵の予想以上の強さに驚きはしたものの、まんまと(えば)にかかってくれた。そうなればこちらのものだった。伏兵の潜む地点にまで誘いだし、一挙に包囲し殲滅させる。それが島津軍の釣り野伏せだった。

 耳川や沖田畷では小勢で大軍相手にこの兵法を使ったが、この合戦では逆に大軍をもって小勢を殲滅させようとする。鶴賀城攻めの軍勢から分けた兵数は一万八千ほど。四国勢の三倍だ。

 家久の叫んだとおり、島津軍は四国勢を一人も生きてかえすつもりはなかった。

 仙石軍と長宗我部軍が暴走したうえに島津軍の罠にはまり、挙句にそれに驚いて軍監が逃げ出してしまい、まとまりがなくなった四国勢はもろく、いたるところで屍山血河の様をつくりだされてゆく。

 それはもう戦と呼べるものではなかった。一方的な殺戮と言ってもよかった。せめて仙石秀久が踏みとどまっていればそのような惨状は避けられたろうが、今さらそんなことを言っても、もはや詮無いことであった。

 戦は殺戮と狂騒の宴と化し。仙石秀久の軍はとっくに壊滅し、永楽通寶の旗は倒れ踏みしだかれてゆき、土や泥、四国勢の血にまみれてゆく。

 その怒涛とどまることを知らず、土佐武士たちを、かたばみの旗も飲み込もうとする。

「おのれ仙石秀久めが!」

 元親は秀久を斬るつもりで、みずから太刀を振るって迫り来る薩摩隼人を返り討ちにする。土佐の出来人と呼ばれ、四国を制したその雄は老いを見せ始めたとていまだ健在であった。

 仙石秀久に続いて暴走してしまった土佐武士だが、ただでは終わらず、激しく奮戦した。怒涛に飲み込まれまいと懸命に抗った。

 あたりは獣と化した武士たちの怒号と剣戟の音や銃声が混ざり合って、鳴り響いて、空を揺るがしていた。

 奮戦の甲斐あって、長宗我部軍はどうにかまとまり、仙石軍のようにもろく崩れることはなく、まず桑名太郎左衛門が迫り来る島津軍を打ち破り、信親と合流。信親もよく戦い、島津軍を少し退却させた。

 その隙に乗じ、大野川の川原まで退いたものの、そこにも島津軍の手は伸びていた。 

「果てがない」

 信親は叫んだ。槍を振るい、薩摩隼人たちを討ち取ってゆく。しかし、討っても討っても果てがない。まるで迷宮に彷徨いこんだようだった。

 その迷宮は自分たちを飲み込もうとする。これこそが、釣り野伏せの真髄であった。餌で誘って獲物を釣り、釣った獲物は決して逃さない。

「小雨。おれを守ってくれ!」

 天に向かって吼えた。天は夕陽が落ちようとして、紅に染まっていた。夕陽の反対側の、その天の向こうに土佐があり、小雨がいる。

「この長宗我部信親、やすやすと討ち取られはせぬぞ!」

 この戦の前の軍議で、秀久が韓信の名を出したことを思い出した。そこから連想するものがあり、信親は知らずにそれと自分を重ね合わせていた。

(おれは楚王項羽になってやる、項羽となって、薩人どもを蹴散らせてくれる)

 もう信親には、戦う以外は意識の外となってしまっていた。それ以外に何をすることがあるというのだろうか。

「信親殿には指一本触れさせぬ」

 頼辰は信親のそばで、己を鞭打ち、援護のために懸命に戦っていた。

(小雨、小雨よ。可愛い娘よ)

 脳裏に、お父上さまとほほえむ小雨の笑顔が浮かぶ。小雨は信親の妻とはいえ、もとは侍女である。もし信親に万一のことがあれば、どうなってしまうのか。

 頼辰も我を忘れ、我武者羅になって戦った。が、しかし。長槍が一本、脇を突いた。激しい痛みに襲われ、血が口から吹き出す。 

 よろけたところへ数人の薩摩隼人が飛び掛り、頼辰はなすすべもなく、討ち取られてしまった。

 最後に頼辰は、小雨の名を何度も叫んだ。叫んだが、声にはならなかった。

  

 餌に釣られる味方。そこに襲い掛かる伏兵。一気に十河勢にも雪崩れ込む。

 存保の言葉を受けた寒川七郎が、「仰せのままに」と返事をしようとしたその刹那。天空を揺るがすような数千丁の鉄砲の、凄まじい銃声が響き。それを皮切りに島津家家臣本庄主悦助の軍勢が公饗に檜扇の旗めがけて、一気に押し寄せてくる。

「あっ!」

 孝康の叫び。銃声が響いたと思ったら、そのまま落馬し、ぴくりとも動かなかった。

(孝康!)

 声にならぬ叫び。しかしその死を悼む間などなく、存保は押し寄せる島津軍を受け踏ん張るのが精一杯だった。

「逃げろ七郎殿!」

 弾正の必死の叫び。七郎をかばいながら槍を振るい島津勢を食い止める。七郎は弾正の名を叫びながらも、存保の言葉を胸にして、この突然現出した修羅場から逃れようと足掻いている。

 足掻きながら馬を駆けさせ、ふと振り向けば、弾正は数名の薩摩隼人に囲まれていた。それが最後に見た弾正の姿だった。

 存保は我を忘れてこの修羅場の中を駆け巡り、槍を振るった。小勢で大軍を相手に戦うといった経験はあるにはあるが、十河城篭城戦とはわけが違い。

 これはそれまで経験したことなどはるかに凌駕し、惨烈を極めた。自分たちを守ってくれる堀や城壁もなければ、天嶮の要害などもない、隠れる場所のないなだらかな丘陵地帯で大軍に囲まれてしまったのだ。

 自分たちは今島津軍の手に握られて、握りつぶされようとしていた。

 先の一斉射撃で多数の者が死に、混乱に陥った兵たちは我先にと算を乱して逃げ出し統率のとの字もなくなった。この急襲にわずか一千ばかりの十河勢はひとたまりもなかった。まるで嵐や洪水に遭った堤そのままに、崩れてゆく。

 押し寄せる島津軍はとどまるところを知らず、壊滅した十河勢を全滅させる勢いで踏み倒してゆく。

 奮戦する存保だがたまらず押され、押されながらも槍を振るい、気がつけば大野川の川原まで押し流されていた。

 夕陽の光りをうけ光り輝く川面を目にしても、今自分がどこにいるかなどわからなかった。ただ、島津軍の包囲の中を駆け回っていた。もう自分とともに戦う讃岐武士たちは、どのくらいにまで減っていることであろう。

 累々と転がる屍。そのほとんどが、四国勢のものだった。それを目にしながら薩摩隼人をたおして、返り血を浴び、槍の長柄も真っ赤に染まってゆく。顔も返り血を浴びて、真っ赤になった顔をさらに真っ赤に染めてゆく。

 ふと見れば、かたばみの旗が無残に倒れてゆく。それに続くように、公饗に檜扇の旗も倒れてゆく。そして踏みしだかれてゆく。

 夕陽はゆるりと地平線に落ちてゆきながら、空を紅に染め、静かに下界の様を見守っていた。

 その夕陽に照らされ、ひときわ輝く若武者。

「あれは」

 信親だった。槍は折れて、烏帽子親の織田信長より賜った左文字の太刀を柄まで血に濡らしながら薩摩隼人たちを斬り伏せ。その美丈夫そのものの顔にまで返り血を浴びて。その鬼神さながらの戦いは家来たちにも伝播し、この修羅場をさらに凄惨なものにしていた。

 そこに十河勢が加わろうとする。

「おお、存保殿」

 十河勢に気付き、返り血で真っ赤になった顔を向け、信親は叫んだ。目は、光り輝いていた。そこには命の火が燃えさかっていた。

 存保はそんな信親の顔を見て、

「信親殿、やっとるか!」

 と叫び返し。ふたりで笑った。不思議と、互いの顔を見て笑いが出た。

(あの、真っ赤な顔)

 互いにそう思っていた。

 ふたりの叫びと笑いに呼応するように土讃の兵はやや力を盛り返したか、すこしばかり島津軍の包囲を緩めた。

 この隙に存保はあたりを見回した。

 少しばかり包囲網はゆるんだとはいえ、丸に十字の紋の旗はぐるりとこちらを囲み、蟻一匹も逃げられそうもなく。後続を次々と加えながら、再び包囲網は引き締められてゆき、土讃の兵を締め上げようとする。兵数も少ない。来たときの半分もあるかどうか。

(これまでか)

 脳裏に浮かぶ、妻と子。ふるさとの、讃岐の景色。

 様々な思い出が浮かび上がってくる。

「存保さまの意地悪」

 ふと、幼い日の、お燕の言葉も浮かび上がった。

(そうよ。十河存保は意地悪な男よ)

 存保の周囲を、讃岐の武士たちが取り囲んでいた。彼らは多くの苦難と屈辱を味わったのち、希望を持ってこの九州にやってきた。

 だが、そこにあったのは希望ではなかった。

(さらば)

 心でつぶやいた。

「者ども」

 もはやこれまでと覚悟を決め、一同を見渡し、存保は叫んだ。その叫びは、雷のように激しく轟きわたって、讃岐武士たちの肝っ玉を突いた。

「死ぬぞ」

「応」

 刹那の鬨の声。

「敵は音に聞こえし薩摩隼人。相手に不足なし」

 希望は得られなかった。そのかわりに、名誉の戦死を選んだ。

「薩摩隼人どもに、讃岐武士の心意気をとくと見せてやれ」

 いままで負け通しであった。ゆえに、もう、敵に背中を見せることに飽き飽きしていた。これでやっと、武士として、戦って死ねる。

 彼らは雄叫びを上げて、島津勢に向かっていって。

 真っ向からぶつかった。

 そして、音に聞こえし薩摩隼人と渡り合い戦死することが、戦国讃岐武士の最初で最後の名誉だった。

 これまでか、と覚悟を決めたのは信親も同じだった。ただ小雨のことが心残りだった。しかし、御曹子ともあろう者が無様に逃げられようか。それこそ、信じていると言ってくれた小雨の言葉を裏切ることになりはすまいか。

「かくなるうえは、長宗我部信親ここにありと、死んでみせよう」

 信親は意を決し、島津軍に向かった。土佐武士もまた「お供」と叫びながら信親に続き。覚悟を決めた土讃の武士は死兵となって、島津軍の包囲網の中で爆発した。

 それこそ包囲網を縮め一挙に全滅させようとしていた島津軍の武将、本庄主悦助や新納忠元(にいろただもと)や薩摩隼人たちすらもその苛烈さから、

「あやつら、鬼になったか!」

 とひるみを見せほどだった。覚悟を決めた者ほど恐ろしいものはない。もう己の命など見向きもせず、どれほどの者を道連れにできるかをひたすら競い合っている有様であった。

 しかしそこは猛者ぞろいの島津軍である。

「よかろう。死して奴らを閻魔大王の前に突き出してくれるわ」

 主悦助や忠元をはじめとする諸将は天空割れ裂かんがばかりに吼えて、突撃の指揮を執り。また彼らも死を決し激突した。

 敵の意気に応えるのもまた戦国武士であったが、島津家はその気風がさらに高かった。

 今まさに、この大野川の戸次周辺は、戦国時代でも希なほど壮絶な玉砕戦として後世に知られる戸次川の合戦が繰り広げられていた。 

 双方まさに阿修羅のごとく戦った。それはもう人の次元を超えた壮絶な戦いであった。

 刀槍が入り交じり血が飛び交う中、土讃の兵は薩人の言うとおり鬼となってひたすら道連れをつくりながら、ひとり、またひとりと斃れてゆき。包囲網はさらに彼らを締め上げようと容赦なく攻め立て、その数は一気に減ってゆく。

 川原には屍が積まれ、血は川にまで流れ込み、夕陽の光りを受ける川面までも真っ赤にそまってゆく。その川面のきらめきに、また屍が重なり血を川の流れに乗せてゆく。

 信親は傷だらけになりながらも、修羅場に一陣の突風が吹き荒れるかのように暴れまわって散々に薩摩隼人たちを打ち倒してゆくも、ついには力尽き、最後は鈴木内膳という者に討ち取られた。享年二十二歳であった。そして付き従った土佐衆七百も、「お供」と叫んだ通り、皆ことごとく壮絶な討ち死にを遂げた。

 存保も馬を駆けさせ、讃岐武士たちとともに激しく戦い、槍を振るい、槍が折れれば太刀を抜き、また振るい。道連れとなる者たちを討ち取っていったが――

 その胸板を、一発の銃弾が貫いた。

 銃撃の衝撃で疾走する騎馬から落馬した存保は、ぴくりとも動かなかった。

 十河存保、ここに斃れる。享年三十三歳。

 死してもなお拳は太刀を握り締め。見開かれた目は、まだまだやれるぞ、と言っているようだった。その周囲を、同じく讃岐武士たちの屍が取り囲んでいった。

 この合戦において、戦死者は両軍合わせて二千を数え。

そこにいた土讃の兵は、玉砕。

さらに、戦死した讃岐武士には古くからの名族も多く。この合戦において、讃岐の中世は終わりを告げたと言われている。

 それだけに、この戸次川の合戦の凄まじさに、戦が終わった後でも薩摩隼人の戦慄は覚めやらず。戦国の世とはいえ、それでもこの地上に突如として修羅場が涌現したように思われた。

 夕陽はそんな下界を避けるように沈み。かわって東よりのぼった月が、夜の澄んだ空気の中煌々と輝き、この無残な下界の様を物悲しそうに見下ろしたあと、これもまた下界から目をそらすように、雲に隠れた。

 月が雲に隠れ闇夜に覆われた大野川に、まるで闇夜に紛れ人目をしのぶように公饗に檜扇の旗がひとひら、流れてゆく。

 それはまるで、ふるさとの讃岐を求めて、瀬戸内海へと向かうかのように、流れていた。

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