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第三章 戸次川合戦 頁一

 仙石秀久は、居城のある聖通寺山の山頂から瀬戸の景色を眺め、満足げに笑った。

「よい眺めじゃのう」 

聖通時山は讃岐の中央よりやや西にあって瀬戸内海をのぞむ小山である。山頂には古来の豪族のものと伝わる山盛りの円形の古墳があるが、これは秀久が築いたものではないかという言い伝えもある。

 眼下に広がる瀬戸の景色は澄んだ青色をたたえ、見るものの心を癒してくれる。ことに夕陽が美しい。

 聖通寺より臨む大小様々な島々は塩飽(しわく)諸島といい、今は陸続きになっている沙弥島(しゃみじま)や瀬居島をはじめとする瀬戸内の塩飽の島々が海に浮かぶ。

 年少の頃より羽柴秀吉に仕え、いまや讃岐一国の主である。数々の死地を掻い潜りぬけた現場たたき上げの国主である。

 その国主となって、塩飽諸島の海の男たちに、ある命令を下していた。それは緊急の命令であった。

 それがなければ、のんびりと瀬戸の景色をさかなに酒を飲むところだが。

 不意に苦々しい思いが胸のうちに湧き出る。すると、家来がやってきた。

「申し上げます」

 と頭をたれれば、秀久はうなずき、言をうながす。

「御意にそむきし百姓どもを城下に引っ立てました」

 それを聞いた秀久は、口元をゆがめ憎たらしそうに、

「斬れ」

 と言った。

 秀久からの御意を受けた家来は、「ははっ!」と意気のいい返事をして駆け足で山を下ってゆく。

 秀久はさきほどの満足げから一転、

「戦、兵糧。島津……」

 とぶつぶつ念仏をとなえるようにつぶやいていた。

 

 敗北、国外退去、わずか二万石の回復、といった屈辱を経て、ようやく国造りに精を出しはじめた十河存保にも、羽柴秀吉より秀久と同じ命令が下っていた。

 秀吉公より呼ばれ大坂に出向けば、

「九州の島津を討つ。そこで、そこもとらに先鋒をつとめてもらいたい」

 と言うではないか。

 そこもとら、というのは、讃岐の仙石秀久に十河存保、そして土佐の長宗我部元親と信親ら。

 大坂城にて、この旧怨深きものたちは一堂に会し、秀吉公より九州攻めの下知をたまわったのだった。

(来たか)

 いつかは、と思っていた。

 中国の毛利に四国の長宗我部はすでに降っている。となれば、西日本で秀吉に反抗しているのは、あとは九州の島津であり。いつかその九州攻め日が来るだろうし、自分もその九州攻めに参加せねばならないだろう、というのはあらかた予想はついていた。

 しかし、と思う。

 いくら同じ四国の者とはいえ、最近まで殺し合いをしていた者同士を同じ隊列に加えるなど、正気の沙汰ではない。

 正直、存保自身長宗我部へのわだかまりは解けていないし、軍監をおおせつかった仙石秀久にいたっては、引田での怨みをいまだ深く抱き続けているというではないか。

 だが存保も存保で、秀久に好印象をもってはいない。

 名ばかりの援軍で、十河を見捨てたも同然に、引田では遊んでいたというではないか。

 兵数もあるのだろうが、それでもなにか十河を助けるために、密使でもよこして早々に退去などの進言をしくれていてもよさそうなものだが、それもまったくなかった。

 来ていることすら知らず、戦いの最中、信親の姿が見えないことでようやく察した。

 おかげで十河城の篭城戦では、無駄にぎりぎりの状況になるまで戦わされた。その分土地も荒れ、人も死んだ。

 そんな男を軍監(監督)に迎えて長宗我部と戦うなど、生理的にどこか嫌なものを感じざるを得なかった。

 こんな三すくみ的な隊でまともに戦えるだろうか。

(試しているのか)

 これは、ひょっとしたらどういう条件下であれ、秀吉公のご命令には断じて従う、という忠誠心を試そうともしているのかもしれない。

 素朴な四国者の存保には、それはいやらしい試し方のようにも感じられた。深まる悩みを押さえ、戦さに専念しようとするが、それでも浮き上がる悩み。

(四国の争乱からまだ一年あまり、荒廃した国土はまだ回復しきっておらん。これでは戦の準備などとても出来ぬ)

 しかし、命令である。従わねばならない。

 それぞれ故国に帰り、戦の仕度をはじめた。

 

 十河の郷に帰った存保は、争乱の傷痕いまだ残る郷の土地や人々を見て心を痛めながらも、出陣の触れを出せば。

「我も」

「いざゆかん」

 と志願するものが続々と城下にあつまってくる。

 あの寒川七郎でさえ、

「いくさでござるか!」

 と久しく見せていなかった元気さを見せ、弾正を驚かせた。

「弾正、おれはゆくぞ、止めても無駄だ」

 驚いた弾正を見て、最近の自分の様から止めようとしていると思ったのだろう。弾正は無論、止めはしなかったが、この七郎の変わりぶりにただただ驚いた。

「若は、この戦に賭けてござるな」

「おうよ、おれは武士だ、武士たるものやはり握るなら太刀、槍であろう」

 と、仕度に大わらわ。

 それは七郎だけではなかった。出陣の触れを機に、郷は一丸となって張り切って戦の仕度を始めた。

(皆、賭けておるのだな)

 そう思うと、なにか痛切なものを感じてならなかった。思えば、讃岐武士はつねに三好や長宗我部といった外部よりの侵略と戦い、果ては降り、追われ、討たれ。

 この乱世に、讃岐武士はとことんまでに屈辱を舐めされられてきた。

 それだけに、今度の出陣でその雪辱を晴らそうと意気込むのも無理もなかった。

(おれも、賭けている。この戦で、武士であることの全てを賭ける)

 七郎の張り切りようを見て、弾正も同じようにこの戦に賭けている。降伏し、城を出るときの屈辱はいまだ心の中でくすぶっている。とても忘れられるものではない。出陣はそれを晴らす絶好の機会だ。

 九州の薩摩隼人は勇猛で知られている。だが恐れはなかった。今までの悔しさをそのまま闘志にかえて、皆張り切っていた。

 中には、

「勝てば褒美がもらえる。なにがもらえるのかのう」

 と今のうちから取らぬ狸の皮算用に熱心な者も。

 なにより存保自身、秀吉公にお仕えして手柄を立てよう、と呼びかけていた。皆、鋤や鍬をふるいながら、その機会を待った。 

 人員の整理をしてみれば、一千の人数が集まっていた。

「一千も!」

 思わず声を上げた存保。以前なら「一千しか……」であったが、今の二万石の身を思えば、一千の兵数は多すぎるほどであった。

 さてこれを九州に運ばねばならぬ。

 輸送手段は船で瀬戸内海を経て豊後(大分県)へと渡る。受け持つのは塩飽水軍だ。

 塩飽水軍と称されることが多いが、塩飽の海の男たちは戦闘よりも日本一といっていいほど航海技術に長けていた水夫の輸送船団であった。

 出陣ともなれば大所帯である。十河だけでも一千の兵を運ぶのだ。それにともなう武具や馬、兵糧もあり。行き先は遠くの九州は豊後。個人の旅とはわけが違う。輸送を受け持った塩飽の海の男たちの働きぶりのほどは、いかばかりか。

 塩飽の海の男たちと渡航の打ち合わせをし、人員物資を船に積み込む段取りを整えるなどして、存保は久しぶりに自分の仕事に夢中になっていた。

「勝つ。おれは勝ってみせる。我れは勝ちたり、と叫んでやる」

 思えば心の底から「勝った!」と思えたことがなかった。この出陣は、その絶好の機会であった。薩摩隼人なにするものぞ、と意気盛んに仕度を急いでいた。

 存保のみならず、郷は希望に燃えて、にわかに熱気を帯びていた。

 

 そんな中、存保はお燕と一子千松丸とともに、仕度の合間を縫ってつかの間の団らんのひと時をすごしていた。

 ふと、九州といえば、はてなんであったかと頭をもたげた。

「九州といえば……」

「あ、孝康殿!」

 お燕は急にその名を思い出し、はっと叫ぶ。膝元で虎のおもちゃであそんでいた千松丸は、母の突然の大声に驚き、身体をびくっとさせ、「何事であろう」と目を丸くしてお燕をまじまじと見上げる。

 それに気付き、

「ほほ……」

 と片手を頬に当てて、やや赤面しながら己のはしたない振る舞いを笑ってごまかし、自分を見上げる千松丸の頭をなでた。

 存保もすこし可笑しそうに笑いをこらえている。

 それはともかくとして、降伏をして郷を出るとき、孝康は十河家から離れ、西に向かいひとり流浪の旅に出た。

 思えば、早とちりであった。もっとも存保自身こんなに早く帰れると思っていなかったので、無理もないといえば無理もないかもしれないが。

「今ごろ、どこにいるのでしょう」

「さあ、九州にゆく、とはいっていたが。さてどこにいるやら」

「まさか島津家に仕えているとは」

「ありえん」

 きっぱり否定する存保。お燕も同意する。

「そうですね。彼の性格を思えば、奉公には向いていないのでは」

(その前に、島津があれを雇うとも思えぬ)

 そそっかしく子供っぽい、考えるより先に身体が動く、そんな男だ。聞けば島津の家来たちは皆有能ぞろいという、孝康がそんな中でやっていけるとは思えなかった。

 存保も、いとこのよしみで家中に加えていたわけで、これが他人であれば長く使うことはなかった。

「ああ、そうそう。大陸に渡り、武侠の士とやらになるのも面白いかも、なんてことを言っていたと思います」

「そういえば、そんなホラも吹いていたなあ」

 ふと、はっとして、しばらくの間互いに目を見合わせた。

 まさか、と思いつつも。あの性格を思えば、倭寇船に飛び乗って、大陸に渡ったとも考えられる。

 千松丸は両親の様子を不思議そうにしながら、存保とお燕を交互にみつめていた。

 途端に、ぷっとお燕が吹き出す。

 口に手を当てて、笑いをこらえる。存保もつられて笑い、歯を食いしばって笑いをこらえる。

「あれが、梁山泊にでもこもるか」

「こもって、野の鳥たちと戯れていそうですね」

「鳥だけでなく、猿とも戯れておるかもしれんぞ」

 と、変に滑稽な場面を思い浮かべた。言いたい放題だ。

「まあ、冗談はさておいて、存保様は、九州にいった孝康どのが案内役できてくれたら、と思ったのですね」

「まあな、九州は未知の地ゆえ」

 しかし、そこまで言って、考えを改めた。

「いや、あいつに案内を任せ、それこそ散々迷わされた挙句に、大陸に連れて行かれてはたまらん」

 悪いと思いつつ、孝康ならありうると、お燕は笑いっぱなしだ。存保も一緒になって笑う。そんな両親の笑うのを見て、千松丸も一緒になって、きゃっきゃと笑っていた。


 秋が深まり、出陣の日が近くなる。

 最初こそ笑顔を見せて、侍女たちとともに嬉々として仕度を手伝っていたお燕だが、その表情にかげりがちらほらと見えはじめた。

 そしてついに出陣であるというとき、お燕は感極まって存保に飛びつき、その胸に顔をうずめた。

「なにをしている。はしたないぞ」

 存保は妻の相変わらずの癖がまた出た、と思っていたが。肩の震えようを見て、そっとその肩に手をかけた。

 肩に触れられ顔を上げたお燕は、今にも泣き出しそうだった。

「そなたは相変わらずだな。このめでたいときになんという顔をしている」

「でも……」

 もうお互いに三十路を迎えたというのに、まだ新婚のころの幼さを心の中に宿しているようなお燕だった。

 さすがの存保もこのお燕をしかることは出来ず、やや困ったようにその目を見つめた。涙が溢れ、いまにもこぼれ落ちそうだった。その奥の瞳、さらに瞳の奥に、いままでの歳月が見えてきそうだった。

「ややをたくさん生みたいと申したではないか。そなたには、まだまだややを生んでもらわねばならん」

 途端に、お燕の頬がぽっと火照るように赤く染まる。

「もう……」

 目を伏せ、頭を胸にすこし押し付けるようにもたれかかる。そうしながら、涙を必死にこらえている。

 脳裏に、幼い日のことが思い起こされる。

 ふたりで外に遊びに出て、足の早い存保に置いてけぼりにされて、いたたまれなくなって、

「存保さまの意地悪」

 と泣き出してしまった。

 戦にゆくたびに、何度思い起こしたことか。

 四国の争乱が治まったら、今度は秀吉公のお下知。戦は存保を離してくれないのであろうか。

「こたびの出陣には、信親も一緒だ。やつは敵となれば手ごわいが、味方となれば頼もしい。案ずることはない」

 まだ長宗我部へのわだかまりは解けていないが、お燕を安心させるために、存保は言った。

だがたしかに、信親は敵になれば手ごわいが、味方となればこれほど頼もしい男もいないであろう。一騎打ちをしたからこそわかる。

 思えば、今命があるのも信親がお燕とそのとき腹の中にいた千松丸を案じてくれていたのもある。

(ああ、信親どのといえば)

 ふと、小雨のことを思い出した。彼女は今どうしているのだろうか。

 洪水のとき勝瑞城にまで流され、ずぶ濡れのあられもない姿で震えていたことが思い出された。小雨は別れ際に、すこやかなややさまをお生みくださいと言ってくれた。

 その言葉通り、千松丸はすこやかに育っている。

「こたびの戦で勝てば、おそらく秀吉公よりご加増があろう。おれは死ににゆくのではない、希望ある未来に向かってゆくのだ」

 明るい存保の声。その明るい声が、かえって悲しく思えるのはどうしてだろう。

 ふたたび顔を上げたその唇と、存保の唇が、触れた。

「ご武運を、お祈り申し上げます」

 そう言って、お燕は存保の背中を見送った。


 その頃、土佐の浦戸沖を出発した長宗我部の水軍艦隊数艘が、かたばみの旗印も誇らしげに帆ををなびかせる大船を中心に、太平洋の荒波を蹴って、一路西へと進んでゆく。

 左手は果てのない大海原である。

 南国の太陽が長宗我部の水軍艦隊をじっと見下ろすように、強い日差しを浴びせている。秋も深まったとはいえ、いまだ土佐の太陽は夏を思わせる陽気に見舞われていた。人もまた同じように陽気な気質の土佐ではあったが、日差しとは裏腹に、それぞれの船に乗る土佐兵たちにはいつもの土佐人らしい陽気さはなく、じっと船の進む西方を見つめていた。視界の先には、太平洋へ大きく突き出した足摺岬がほのかに見える。

 二十数年かけて、血みどろの戦いを四国各地で繰り広げ、ようやくにして四国の覇権を握ったのもつかの間。あっという間に羽柴秀吉の征伐軍によって土佐一国に押し込められてしまった。

 あとには荒廃した土地と阿波、讃岐、伊予の三国からの怨みが残った。彼らはただいたずらに四国の土地を荒廃させ、怨みを買っただけのようなものだった。

 無念さは心に強く沁みついている。中にはいまだに元親より賜った所領に関する書状を大事に持っているものもあった。

 今になっては紙切れでしかない書状だが、彼らはその書状のために戦った。

(こたびの出陣で勝てば、九州の地をいただけるのか)

 だが島津は強いという、果たして勝てるだろうか。そんなささやかな希望と緊張とを入り混じらせて、彼らは波に揺られていた。

 元親は船室の中でひとり思案にふけっていた。自身も無念さと後ろめたさを強く感じていた。

(我々はどこにゆくのであろう)

 だが考えたところで答えも出るはずもなく。首を横に振り。

(ええい、どこにゆくかなど、野暮なことだ。行き先は、わからぬ方がよい)

 などと、半ばやけのようなことを考える。実際、せっかく手に入れた四国をわずかの間で失うことになるとは夢にも思わなかった。世の中は元親が考えていた以上に進んでいて、己は夜郎自大であったのだということをまざまざと痛感させられた。

 今まで自分で考えて判断してきたが、これからは秀吉公の家来として戦ってゆかねばならない。いちいちあれこれ余計なことを考えあぐねるより、秀吉公のお下知に従って行くしかなかった。

 信親はというと、左舷で潮風と太陽の日差しを浴びながら、果てしない大海原を眺めていた。

 大海原の中、岡豊城を出立する前夜までののことが、脳裏に浮かぶ。


 小雨は信親の妻になっていた。

 母方の伯父に石谷頼辰(いしがやよりとき)という者がいる。明智光秀に仕えていたが、天王山の戦いで敗れて以来、流浪をしながらほうほうの体で元親をたよって土佐に流れ着き。中央での経験を買われて長宗我部家に仕え、今は元親や信親とともに九州に向かう水軍船に揺られている。

 長宗我部氏が土佐一国に落ち着いてから、元親は信親の嫁探しをしていたのだが、なぜかどうにもよい娘が見つからなかった。はたちを過ぎた男子が、それも御曹子が未婚というのはあまりにも体裁が悪い。しかもそのうえ、信親自身他家より嫁を迎えることに乗り気でなかった。無理に婚姻をさせても、後でこじれればそれがそのまま外交問題に発展する。大名の結婚、政略結婚とはそういうものだった。

 そこにつけこむ、というか、信親はこれを絶好の機会とばかりに、元親に言った。

「いかがでござろう。侍女の小雨を叔父上の養女に迎えて、それがしの妻として嫁に迎えれば。身分の問題も解決されますし、父上とそれがしの体裁も保てるのでは」

 さすがにこの弱みを突いたような案には元親は、

「たわけたことを」

 と声を荒げ、意地になって嫁探しに狂奔したが、それでも成果はなかった。 

 思案の末、元親は頼辰にこのことを相談し。かくまってくれた恩を感じていた頼辰は、

「これはめでたい」

 と手を叩いて信親と小雨の婚姻に賛成した。

 明智光秀につかえる侍大将から一転流浪の身に落ちた頼辰にとって、家柄や身分など儚い幻のようなものであるということをしみじみと感じていたから、御曹子と侍女の婚姻に関しても頓着しなかった。

 むしろ、

「これにより御曹子がお家のためにさらに励めば、元親殿のためにもなりますし。外交問題など面倒なものもなく。反対されては、後で禍根を残すのみでござる」

 とまで進言した。そこまで言われて元親は、信親と小雨の婚姻を認めざるを得なかった。

 かくして、頼辰の娘となった小雨は信親に嫁ぐことになった。

 小雨はこのことにただただ感激するのみであった。

「わたくしごときものが……」

 絶句し、うれし涙を溢れさせた。自分はせいぜい太陽のような信親から、ささやかに陽の光を降りそそいでもらうように可愛がってもらえればそれでよいと思っていたのに。よもやその妻になろうとは。

 信親は、小雨が感激しながらいったことが忘れられなかった。

「わたくしは、お燕さまのような人になりとうございます」

 勝瑞でお燕と出会った。一期一会の出会いであったが、知らないうちにお燕は理想の女性として小雨の心の中に宿っていた。お達者で、と言ってくれたあの優しい笑顔。あのころ腹の中に宿っていたややは、すこやかに生まれたろうか、今どうしているだろうか。

「討たずにすんでよかった」

 信親は、ぽそっとつぶやいた。

 それから、懐から包み紙を取り出した。その包み紙のなかには、小雨の髪がおさめられている。


 小雨の腹にややが宿った。

 信親はもちろん、長宗我部一門この懐妊を慶び、祝ってくれた。それと同時に、信親の心境に変化が生じた。

 小雨の腹とともに、小雨と我が子への愛情はふくらんでゆく。とともに、戦を避けている自分に気付いた。月日とともにその気持ちも、ふくらんでゆく。

「行きたくない」

 出陣前夜、小雨を強く抱きしめ。ついには知らずに目から涙が溢れた。

 小雨は信親の胸に顔をうずめ、黙って同じように涙を流していた。

(ああ、信親さまもまた人の子なのだ)

 文武にすぐれ将来を嘱望されている御曹子だとつねに思っていたが、畏れ多いと思いつつも、行きたくないと涙を流す信親がさらにいとおしく感じられた。それはあたかも母が子に対するように。

 このとき、お燕さまならどうなさるだろう、と思ったとき。小雨は顔を上げて、

「どうか泣くのをおやめになって。小雨は、信親さまを信じておりまする」

 涙を流しつつも、笑顔でそういった。

 信親は武将である。武将である以上、戦を避けることは出来ない。ことに秀吉公よりのお下知なら、どのみち行かねばならないのだ。ならば、長宗我部信親ここにありと堂々と行ってほしいではないか。

 その言葉を受け、信親は己の不覚を恥じた。それを見て小雨は、自分の髪を数本たばね、信親から脇差を借り受け、髪を切り包み紙に収めた。

「これをわたくしと思って……。小雨はつねに信親さまと一緒です」

 信親は包み紙を受け取ると、涙をとめ、力強くうなずいた。

「小雨」

 ぽそっとつぶやき、果てしなく広がる大海原を眺めていた。小雨の心は、いつしかこの大海原のように広くなっていた。

 その心に応えようと己を鼓舞すれば、不思議と小雨の愛情に抱かれているような安らぎを覚えるのだった。


 豊後の別府湾は沖の浜。そこに、土讃(土佐・讃岐)の兵たちが次々と上陸してゆき。九州の地に、仙石の永楽通寶の旗に、十河の公饗に檜扇の旗と、長宗我部のかたばみの旗が立ちならぶ。

九州に行く四国勢は総勢六千。大船は少なく、軍の大部分を占める雑兵らは小分けに小舟に揺られ、風の様子を見ながら瀬戸内の豊予(豊後・伊予)海峡に点在する小島を飛び石式に往復して運ばれる。

 この渡海作業は一ヶ月近くにも及び、季節は秋から冬へとうつり。羽柴秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜り豊臣秀吉となった。

 仙石秀久は上陸だけでもこれだけの手間ひまのかかる九州攻めに、焦りを感じているようだ。

(兵糧はいつまでもつのか)

 秀吉公から讃岐十七万石を賜り、ついに己の所領は二桁万石の大台に乗った。と、そのよろこびもつかの間、讃岐の地は長い争乱で荒れ、民百姓の納める年貢も滞りがちだった。

 秀久は讃岐に入り、長い争乱があったことをふまえ、混乱を避けるために、民百姓の心のよりどころである讃岐各地の寺社を手厚く保護し、供養もした。また讃岐の豪族や地侍を家臣団に加えるなどし、民心の安定も図った。

 しかしそれでも年貢が滞り、挙句には年貢納入を拒むものまで出てきた。しかも長宗我部方の残党をかくまっている者もあると知り。秀久は怒り、それらをとらえて見せしめに処刑した。

 もともと讃岐は様々な国人が分けて治めていたこともあり、讃岐を丸ごと治める単一領主というものに慣れていなかった。

 だから突然本土から仙石秀久という、どこの誰だかわからぬものがやってきて、領主である、年貢を納めよ、といってきたところで、

「この仙石秀久様というお方は何者なのであろう」

 といぶかり、すんなりと納められるわけもないし。土地も荒れて作物などとても採れようもない。

 悪いことに、秀吉公よりの九州攻めの下知も賜った。とても戦どころではないが、かといって断ることも出来ない。

 戦をするにはまず兵糧がいる。その兵糧の確保のため、搾取はより苛烈にならざるを得ず。この時期に、讃岐の歴史において希な一揆まで起こった。

 秀久にすれば何よりもまず豊臣秀吉の命令を最優先させねばならず、民百姓の心情にまで思いを馳せるゆとりを持とうにも持ちようがなかった。

 結局、讃岐統治も兵糧の確保も満足にできぬまま、九州渡海に至ってしまった。

(これは、下手に長引かせれば兵糧は尽き、我らは飢える。なんとか短期で終わらせられぬものか)

 秀久は渡海した当初より頭を悩ませ、焦りを募らせていた。


 同じ讃岐勢ながら、それとは対照的なのが十河勢であった。それまで屈辱を受けに受けてきただけに、この九州攻めへの意気込みはとても高く。上陸とともに、

「敵はどこだ」

 と臨戦態勢をとる。真面目な弾正でさえ、七郎とともに目をいからせ抜刀の構えをとる。

「慌てるな。ここは島津領ではない、大友領だぞ」

 存保は鼻息の荒い家来たちをなだめたが、己も彼らと同じように「すわっ」と叫びそうなほど鼻息が荒かった。

 ここにはまだ薩摩の島津の手が伸びていない、大友氏の領内である。大友氏はキリシタン大名で知られた大友宗麟(おおともそうりん)の大友氏なのはいうまでもない。

 かつては肥前の竜造寺氏と薩摩の島津氏とで九州を三分する九州三国志の様相を呈していたが、島津は竜造寺を滅ぼし、その勢いは大友氏の所領も大きく削り取ってしまった。

 宗麟はやむなく豊臣秀吉に使者を送り助けを求めた。これにより、まず四国勢が先鋒として派遣されることになった。

 元親は上陸しながら物思いにふける。

「大友か……」

 まだ三十代であったころ、土佐のなみいる強豪を倒し、最後に一条兼定という土佐西部の公家大名を破って土佐を統一したが。一条兼定の妻は大友宗麟の娘だった。しかも兼定は宗麟に触発されてキリシタンにもなっていた。

 さらに伊予の河野通宣(こうのみちのぶ)の妻も宗麟の娘であったという。宗麟は四国西部ともなんらかのつながりを持ち。元親はこれと戦った。

それが、今こうして豊臣秀吉に膝を屈し、大友救援のために豊後に渡るとは、何たる運命の皮肉というか巡り合わせであろう。

「これが戦国の世か」

 ふう、とため息をつく。

「まあ、いい。過去のことなど知らぬ。まずは薩摩隼人に、土佐武士ここにありということを見せてくれる」

 元親は戦意を奮い立たせ、己の命を刻み込むように、一歩一歩豊後の地を踏みしめた。

 後に信親もつづく。胸に手を当てて。そのあたりにの懐に小雨の髪がおさまっている。ふと、十河勢の旗印に目を向ける。あの旗のもと、存保がいる。

 ふっ、と笑った。それは冬の寒さなど感じさせないような暖かみがある笑みだった。

「存保どの、存分に手柄を競おうぞ」

 十河の旗印に向かって、その笑みのまま気を吐いた。


 九州上陸後、四国勢は府内(大分県大分市)の郊外、上野原(うえのばる)という地に駐屯した。

 府内には大友氏の居城であった府内城があり、そこには宗麟の子、義統(よしむね)が控えている。宗麟自身は府内より南の丹生島城(にゅうじまじょう)(大分県臼杵市)というところにいる。そのため娘婿の仇であった元親と直に会うことはない。

 存保ら四国勢は四国と違う九州の地を踏みしめながら府内城の義統と連絡を取り合い、まず偵察を送り、軍議をかさねながら島津軍の様子をうかがっていた。

 周囲をうかがうように見渡しながら、やはり四国と九州の地は違うと、存保は思った。

四国は突き出るように伸び上がった山が多く、平地に立ちはだかるようにして山々がそびえ立っているところが多いが、豊後は山というよりも台地が盛り上がって、家屋も一緒に盛り上がっているような印象を受けた。

 空は、冬という季節もあってかやけに青く澄んでいるようにも思え、日差しは強い。雲は広い空の海にその巨躯を浮かばせて悠々と大船団を組むようにして、空を泳いでいる。

 空で印象的なのは、その青さだった。

 澄んだ青空に大船団のような雲の群れを眺めることもあるが、讃岐の空はほの白くかすんでいるように見える日が多く、日差しも穏やか。

 讃岐に住み慣れた存保は、今いる豊後の空と讃岐の空を、どう違うのか知らずに見比べていた。

 このとき、

「おれはもう、身も心も讃岐人になっているな」

 と、ぽそっとつぶやいた。生まれ出た阿波よりも、讃岐の方にふるさととしての愛着があった。

 その豊後の台地の上から、四国勢を見下ろす人の目。顔や身体はすすけて汚れ、着物はぼろ、申し訳程度に護身の太刀を一本腰にさしている浪人体の男だった。

 それがことに、十河の公饗に檜扇を見た途端に、

「おお、おおー!」

 と叫んだかと思うと、一目散に台地を駆け下ってゆく。その勢いとどまらず、ついに十河の陣地にまで突っ走り、しきりとなにかを叫んでいた。端から見れば変な男であった。

「何者だ!」

 見張りの者が槍を突き出し、その変な男を威嚇するも。効き目なし。むしろ見張りを見てたいそう機嫌がよくなった。

「止まれ、止まらんと……」

 と言いかけた時、見張りのものは変な男の顔を見て仰天した。

「あ、あた……」

 とまで言いかけた時、変な男は見張りの男の前まで来るやいなや、地を叩き割りそうなほど勢い良くがばっと両手を地面に着けて跪き。

「安宅孝康でござる。どうか御陣中に加えていただきたいと馳せ参じるものなり!」

 と大喝した。

 そのあまりの大声に、見張りの耳はきんきんと鳴った。


「なに、孝康だと!」

 突然の見張りの知らせに存保は驚き、驚きのあまり言葉も出なかった。大陸に渡ったのではなかったか。

 陣中の存保のそばにいる者たちは、突然の孝康出現の報に接し、にわかに信じられないとそれぞれ顔を見合わせる。

「弾正。孝康って、まさかあの」

「左様、あの孝康殿でござろう」

 寒川主従も顔を見合わせ、かつて讃岐の港で別れた孝康の背中とこけっぷりを思い起こしていた。

(まだ九州にいたのか)

 別れる少し前、大陸に渡って武侠の士になるとかなんとか大ボラを吹いていたことも思い出したが。九州に渡ったきり、九州各地を放浪していたようだ。

「つれて来い」

 と命じれば、見張りは一旦さがってややしばらくして、孝康を連れてきた。

 が、そのなりに、

「汚いのう」

 と、みんな顔をしかめた。

 しかしそれは九州での放浪のさまの現れであり、まかり間違っても島津に仕えていないことは明らかだった。

 なにより、十河の陣地に入った孝康の目は子供のように輝いていた。

 存保も孝康のなりに顔をしかめながら、声をかけた。

「生きていたか」

「生きておりましたとも。四国勢が九州に来るというのを聞き及び、急いで駆けつけた次第でござる。ただ、この一年余り、それはそれは辛い放浪の日々でござったよ」

 語るも涙聞くも涙と言わんがばかりに、孝康はこれまでのいきさつを語った。

 敗北、降伏。そして離別。

 孝康は十河家を離れ九州に渡った。当てもない一人旅である。

 最初こそ開放感もあって楽しかったものの、九州の地もまた四国の長宗我部よろしく島津が荒らしまわり、危険も多かった。

 時には本土の密偵ではないかと疑われ、捕らえられそうになったこともあったという。

大陸に渡ろうとしたこともあったが、どうにも船がつかまらず、かといってどこにも仕官できず、十河の郷のようなところもみつけられず、かと言ってすごすご帰るにも帰れず。ひたすら九州各地を彷徨ったという。

「木の実を採り魚を捕らえて食って、畑泥棒などまだよい方、時には木の根もかじって食す有様」

 そこまでになって、ようやく己の愚かさに気付いたものの、もはや後の祭り。ついにはなにも食うことができず、空腹のあまり倒れ、これまでかと観念したところ。

「幸いというか、山賊に拾われましてな」

「山賊!」

「左様。一時山賊らと一緒でござった、先に述べたとおり四国勢が九州に来るというのを聞いて抜け出しましたがな」

「いやしかし……、山賊でござるか」

 声を立てて驚く寒川七郎。存保は冷静をたもち、七郎に目を向け、黙って聞くよううながす。

「あはは、驚くのも無理はない。まあやつらは戦が終わった隙を見計らい、捨てられた甲冑や太刀、槍を拾って売り払うことをもっぱらとする連中でして。罪なき民には手を出しませなんだ。でなければ、それがしも一緒についてゆくこともしませぬ」

 その瞬間、存保の目が光った。何かを感づいたらしい。 

「ふん、しかしそれでも落ちたものだな」

 と誰かがいう声が聞こえた。だが孝康かまわず。

「生きてゆくためでござるよ」

 とそっけなく応える。

「流浪の身なれば、体面などかまっておられませぬ」

 それ以外に、何の理由あってそんな山賊家業などするものか。存保は孝康の性格が流浪の辛さにあっても屈折ぜずに、そのむやみな勝ち気がまだ失せていないことが少しおかしかった。これは天賦のものであろう。

「なるほど、で、島津はどうだ。強かったか。戦が終わるまで陰で身を潜めていたこともあろう」

 その言葉を聞き、孝康ははっとしてうなずいた。存保が感づいたのはそこだった。

「それでござるよ。いやあ、島津は強うござる。ほんまに、強い」

 脳裏に、島津軍の戦ぶりが蘇る。仲間たちと一緒に、見つかりはしまいかという恐怖と次々とこさえられる餌への欲との葛藤と戦いながら戦を眺めていた。

「恐れ知らずで勇猛果敢なところは土佐武士に勝るとも劣らず、その作戦指揮のうまさは上方の将卒に勝るとも劣らず。おそらく、当世一のつわものといっても過言ではないかと」

 という言葉で孝康は薩摩隼人を表現した。

「土佐武士が狼とすれば、薩摩隼人は虎でしょうな。おそれながら、讃岐武士など足元にも及ばぬ」

 とも付け加えた。

 実際に目にしただけに、その言いようは自信に満ち、やけに説得力があった。そのせいか、目をいからせはしても、誰も言い返さない。

「孝康殿、我ら讃岐武士など足元にも及ばぬというが」

 これは寒川弾正であった。ああ、これはまた久しぶりでござるなあ、と言いたげな親しみのある眼差しを孝康は向けた。この無邪気さも変わっていない。 

「やってみなければわからぬ。など大人気ないことは言わぬが、かといって帰ることも出来ぬのでござるよ」

 われらは秀吉公のお下知でこの地に来ている、相手がどんなに強かろうが、退くことはできぬのだ。

 何か良い知恵はないか、弾正は目でそう言っている。九州各地を旅し、島津の戦もその目で見ている。そこから何か良い知恵でも浮かべば授けてほしいと。幸いそれが通じたようだった、が。

「さてどうしたものか、それがしもよい知恵が浮かばぬ。ただ懐かしさから馳せ参じ、足軽でもよいゆえ陣中に加えてほしいと……」

 孝康は申し訳なさそうにうなだれた。

 が、はたと顔を上げ。

「そうそう、島津には『釣り野伏せ』という兵法があります」

「見たのか。釣り野伏せとは、いかなるものか。見たなら教えてくれ」

「それは……」

 孝康が釣り野伏せの話をする。食い入るように聞き入る存保らは、ううむと唸る。孝康が語り終えても、沈黙が重くのしかかった。

 このときばかりは、孝康も一緒に黙っていた。


「動かず後続の到着を待て。それまでは守備に徹せよ」

 それが秀吉よりの命令であった。

 上陸当初はその命令通り動かず、守備に徹した。しかし府内城の大友義統は島津を恐れるあまり、何度も四国勢の軍監仙石秀久に出撃を要請している。

 そのたびに、「秀吉公のお下知では」と言い、待つようさとした。四国勢は六千の兵力であるが、島津勢の兵力はゆうに三万から四万の大軍だというではないか。いくらなんでも差がありすぎ、勝ち目は薄い。

 仙石秀久も十河存保も、長宗我部元親・信親も、もどかしく歯を食いしばりながら、後続の到着を待った。

 先鋒と言っても、大友への挨拶程度の役割で、まるで張子の虎然として役に立てるとも思えなかった。島津の動因兵力は前もって偵察でわかっているはずだ。それを思えば、もともと後進地帯で人口の少ない四国で動員できる兵力で何が出来るというのだろう。それを思えば、なるほど挨拶なら六千の兵力でもできる。

「情けないものだ」

 あるとき、自陣にて信親は伯父であり舅である頼辰にこぼした。

 せっかく勇を鼓して出陣したというのに、まるで震える子ねずみのように守りに徹せねばならぬとは。頼辰は甥であり娘婿でもある彼をなだめるようにさとす。

「いたしかたございますまい。なにせ島津軍は三万を超える兵力、我ら四国勢六千なぞひとひねりでござろう」

「戦は兵力ではござらぬ。信長公は桶狭間で……」

「仰りたいことはよくわかります。ですが……」

 ですが、それからを言おうとして頼辰は口を閉ざす。うかつに触れてよい話題かどうか迷ったからだ。

「そうですね。わが四国勢六千は土讃に加え仙石秀久殿の古くからの家来の近江、淡路衆の寄せ集めで、まだ団結力も士気も低く、何かあればすぐに崩れ、戦にならぬ、と」

「あまり大きな声でいえませぬが、その通りでございます。ここは秀吉公の仰られるとおり、守りに徹した方がようござる」

 後続が来れば兵力差もなくなり、皆安心して戦えるし、そうなればおのずと士気も団結力も増す。その機会を今は待つしかない。

「ですが、じれったいですね」

 若い、そう思いながら、頼辰は信親を見た。

(若気の至りで万一のことにならねばよいが)

 ふと、小雨のことを思った。信親との婚姻のため、養女にしてあげた。

 会ってみれば愛嬌のある可愛らしい少女だった。そんな彼女を養女に迎えられて、頼辰もまんざらでもなかった。

「小雨でございます。お父上さま、どうかよろしくおねがいいたします」

 初めて会ったとき、うやうやしく一礼してそう挨拶をしてくれた。

(良い子じゃ、良い子じゃ)

 その可愛らしさに感激し、何度も頷き。その頭を「よしよし」と撫でてあげたくなったものだった。それだけ小雨を養女に迎えられたことが嬉しかった。天王山で敗れ、流浪の身に落ち辛酸を舐めた身なれば、このたびのことはまこと果報であった。

 いまや、頼辰にとって小雨から「お父上さま」と呼ばれることはなによりの楽しみであり、生き甲斐であった。

 それだけに、小雨を思う気持ちも強く。

(なんとしても信親どのをお守りしよう。可愛らしい娘をあの若さで後家にしてなるものか)

 頼辰は胸のうちに、武士としてよりも、小雨の父としての思いやりを燃え立たせていた。

 

 四国勢は動かない。いや動けないというか。

 その間にも島津軍は迫っている。ともすれば後続が来るより先に島津軍が来てしまうのではないか。

 そうなっては負けは必定である。そんな気配が、四国勢を包み込んでいた。いかんせん兵数も少ないうえに、寄せ集めの兵力である。士気も低ければ、団結力も低い。

 さすがの十河勢も、大軍を前にしながら前に進むもならず後ろに退くもならず、蛇に睨まれた蛙よろしく固まっているしかなかった。こんな状況では最初どんなに気張っていようとも、士気の低下は免れなかった。

 そんな時、府内城の手前、鶴賀城が攻められているという一報が飛び込んできた。島津勢の攻撃激しく、城兵も必死に抵抗しているものの、近日中の落城は免れないという。そうなれば、島津軍は一挙に府内に攻め込んでくる。

「どうか助けてほしい」

 ついにたまりかねた義統が秀久に泣きついた。

 ここまで来れば秀久も動かずを通すわけにもいかず、

「義統殿のお気持ちはわかり申した。まずは諸将と軍議をひらき、そのうえで決めたいと思いますので、しばし待たれよ」

 ついに言ってしまった。これで半分引き受けたことになってしまい、残りのもう半分は、無理にでも四国の将たちを押し切るしかない。

 また秀久にはもう一つ気がかりがあった。

 兵糧である。

 讃岐統治を半端のまま、民百姓の怨みを買いながら兵糧を徴収するだけ徴収し、慌てて九州に渡った。その多いといえぬ兵糧も残り少なくなってきていた。補給は四国から塩飽水軍が受け持っているが、いかんせんそれでも間に合わなかった。それ以前に、ないものはないのである。補給路を確保しても、肝心の兵糧そのものが少なければ意味がない。

 目前まで迫った大軍、少ない兵糧。

(ゆくしかないか)

 短期決戦。もう腹のうちは決まっていた。秀吉公のお下知のことは、出たとこ勝負だ。

 秀久は追いつめられていた。 

「ゆこう」

 と軍議の席で激しく唱えた。だが、軍議に列席する存保に元親と信親らは。

「それは……」

 無謀すぎる。勝ち目もないに等しい。なにより秀吉公より守備に徹せよとのお下知があるではないかと反対した。

(無茶だ)

 存保はなぜ秀久が突然そんなことを言い出したのか、納得できないながらも事情はある程度察していた。十河勢にしても兵糧は十分あるとはいえず、残りも少なくなってきていた。だが、だからといって短期決戦にもちこもうなど、無謀というものだ。なにより。

(皆希望を抱いて九州に渡っているのだ。やすやすと犬死にさせられてたまるか)

 それが一番の理由であった。目先の空腹のために犬死にしにゆくなど、これほど馬鹿馬鹿しいこともない。空腹はある程度こらえられるし、各々も兵糧を節約しながらひそかに狩りをしたりして飢えをしのいでいる。後続が来るまでの辛抱だ、と。

(秀久め、飢えと大軍の恐怖のせいでいかれたか)

 元親は軍監の判断を苦々しく思った。一軍を監督するのなら、もっと肝っ玉をすえて、でんと構えてもらいたいが、秀久はその肝っ玉がやや小さいようだと、感じられてならない。

(のうがわるい軍監どのじゃ)

 役に立たぬ監督だ。

我知らずそう土佐言葉が脳裏に突き出る。

 同じように、

(じょんならん)

 しゃれにならない。

存保も知らずに讃岐言葉が脳裏に浮かんだ。ふと視線を感じた、それは信親からだった。

 存保と信親が顔を合わせるのはこういった軍議の席のみで、他で会うことはめったになく、もちろん軍議では私語は出来ないので、九州では意見を交わす以外にこうして目を合わせる程度でしか関わることができなかった。

 信親は若輩であることを自覚し、余計な口は挟まないものの、やはり父と存保と同意見のようだ。秀久がこのまま押し通そうとするのではないかという憂いが目に現れてきている。

「そこもとらはそう言われるが、鶴賀城が落ちれば島津軍は勢いに乗ってここまでやってくる。残念だが後続は間に合いそうもなく、いずれは矢合わせ(合戦)することになろう。ならばいっそこちらから出向いて薩摩隼人どもにひと太刀あびせてやろうではないか」

 秀久は進軍を強く説く。

(がいなことを)

 乱暴なことを。

土佐も讃岐もこれは同じように言うようで、存保と元親・信親同じように胸のうちでつぶやく。

「よろしいですか」

 たまりかねたように、信親が拳を上げる。秀久は、どうせ反対意見だろう、と思いながら苦い顔をして発言をゆるす。

「いずれ矢合わせするとはいえ、我らは六千、島津方は三万を超えると聞き及びます。これでは父上や存保どのの言われるとおり、勝ち目はなきに等しく、それならば豊後の方々とともに府内城に篭るのが上策ではないかと存じます」

 土佐の若者らしいはっきりとした物言い。土佐人のしゃべり方は声は大きく発音がはっきりし、あいまいな表現を用いることも少ない。元親は秀久との無駄な衝突を避けるため、考えてゆっくりしゃべるものの、信親は若いせいかはきはきと言ってしまう。それが、秀久を刺激したようだ。

「信親殿、若さに合わず臆したか。戦は数ではござらぬ。信長公は……」

 桶狭間の例を出そうとする秀久。だがここは桶狭間でもなければ、大将は織田信長でもなく、敵は今川義元ではない。

 秀久は周囲が黙っているのをいいことに、とつとつと桶狭間の話をする。

 存保は聞いていて腹が立つやら呆れるやら。

 元親など顔の血色がやけによい。怒りを覚えているのは明らかだ。

(こいつは、阿呆か)

 父の怒りを察した信親は、とっさに存保に視線を送る。存保は、目を合わせながらも、黙ったままだ。

(余計なことを言うな)

 と、信親は言われているようだった。しかし、いつの間にか信親は存保を兄のように感じることがたまにあった。

 これは、勝瑞でのことや、十河城攻防戦でのことがあるせいなのだろうか。信親自身もよくわからない。ただ、互いに奇妙なというか、友情らきしものがいつの間にか芽生えているのは確かだった。

 ひょっとしたら、それは、お互いの妻からの影響のによるものであろうか。

「秀久殿。よろしいですか」

 存保だった。桶狭間の話が終わり、秀久がひといきついた隙を見計らい拳をあげた。

「どうぞ」

 秀久は存保の発言をゆるし、それからの言葉が賛成意見であることを期待した。

「仰りたいことはよくわかります。それがしも、一時は同じ気持ちで、そこの元親どのと戦ったものでござる」

 昔戦ったことに触れられ、元親と信親ははっとして存保を見たが。落ち着いた様子から、敵意はなさそうで、昔話で父子をなじるようなことはなさそうだ。

「こと阿波中富川において、まさに今と同じ状況で、負け申した」

 存保は中富川合戦でのことを持ち出した。短気にまかせ勝瑞で決戦しようとせず、早めに讃岐に引き返し十河城に総勢力を集めればよかった。そうすればもっと早いうちから、もっと長く持ちこたえられ、上方と連携をとっての挟撃も可能ではなかったか。と言った。

(ふ、存保め、味なことを)

 元親は存保が己の敗戦の実例と反省を持ち出し、府内城での篭城を説こうとしているのがわかって、感心しているようであった。

 四国では百戦百勝だった元親にはとうていまねできぬ。これは、負けの続いた存保だからこそ言えることだった。なにより、孝康から釣り野伏せという兵法を聞いた。これは是非とも四国勢のみで島津と正面衝突するのは避けねばならないと思っていた。

「思えば秀久どののせっかくのご加勢もそのせいでふいにしたも同然。存保今もって痛恨の極みにござる」

 讃岐暮らしの長い存保は讃岐のしゃべり方が身についていた。讃岐人のしゃべり方は比較的おだやかで発音もゆるやか。土佐言葉のように相手を突き倒そうとするような力みもない。

 そのおかげか、秀久も信親のときと違い、じっくりと聞いている。信親も感心しながら聞いていた。

 へりくだった言い方はやや気に食わぬが、無駄に衝突し、無闇な進軍をさせないためにも、そう言うしかないだろうし。それによって無駄な犬死にがなくなればこれほどの幸いもないだろう。

 だが、発言が進むにつれ、秀久は顔が険しくなってゆく。

(なんじゃい。要は反対ということではないか)

 何がせっかくのご加勢なものか。ふと、讃岐引田での怨みが蘇る。あの時は、信親にこてんぱんに打ち負かされ、四国の山中を逃げ惑いながら命からがら淡路に逃げ帰ったものだった。

(しかしそれにしても)

 どうして十河と長宗我部が。元親・信親はともかくとして、自分と同じように長宗我部を怨んでもおかしくない十河存保までもが、そろって自分に反対する。

 わけもなく、存保に裏切られた気持ちになった。

「あいわかりもうした。元親殿と信親殿、存保殿は府内城に隠れたいのでござるな。ならばお好きなように。それがしはひとりでも打って出て、薩摩隼人どもを血祭りにあげにゆき申そう」

 秀久は憮然と言い放った。

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