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第二章 本貫の地 頁二

「止まれ!」

 存保は止まれの号令を出し、城中の者たちは慌てて止まった。急なことで、勢いのつきすぎていた孝康は信親のまん前まで来てようやく止まった。

 目の前まで来た孝康を見て、信親は笑った。

「久しぶりだな、安宅孝康」

 孝康はばつが悪そうに「ああ、どうも」と笑った。あろうことか主とその相手の間に来てしまった。後ろから、かげろうのような熱気を感じるのは気のせいではあるまい。

「小雨から聞いた。小雨を助けてくれたのはそちだそうだな。礼を言うぞ」

「あ、小雨殿は元気でござるか。それはよかった」

 満面の笑みの孝康。勝瑞での小雨とのひと時を思い出した。あの時は大変だったが、いまは良い思い出となって胸の中にある。

「十河存保殿と話しがしたい。悪いが、そこをどいてもらえまいか」

「あ、これは大変失礼つかまつった」

 敵将ながら御曹子の貫禄十分の信親に、孝康は頭が上がらない。

(よくもまあこれで信親と張り合ったものだ)

 と城中の誰かがその様子を呆れながら見ていた。

 それよりも、孝康は信親より年上でしかも彼もまた名将安宅冬康の子息なのだが、本人にはその自覚は全然なかった。

 そんな孝康はさておいて、存保は馬を数歩進ませて、互いの馬の鼻がつきそうなところまできた。相手は槍を捨てている。存保もそれにならい、槍をぽいっと捨てた。

 両者がにらみ合う。それぞれの後ろで、両軍がにらみ合う。遠くで元親もその様子を見守っていた。

 信親と存保は憎みあうでもなく再会を喜び合うでもなく、じっとお互いを見据えていたが、信親は一礼をし、

「後ろに邪魔者が現れましたので、しばしの間追い払いに行っていました」

 と言った。邪魔者が仙石秀久であるということはわかった。そして、予感のとおり信親は追い払っていた。

 信親はそれを誇るでもない、むしろ三流武将の相手をしたことを恥じているくらいだった。言い終えてから少し寂しげに微笑みながら、引田でのことを思い出していた。その間沈黙が流れる。

(あんなやつが、十河の援軍か)

 その甲斐性のない逃げっぷりは、援軍の使命を自覚せず十河を見捨てていたと言ってもいい。

 そんな輩を当てられた十河存保こそ哀れである。信親は存保に同情を禁じえず、それと同時に仙石秀久を軽蔑し、そんな人物を援軍に当てた羽柴秀吉の人の遣い方に怒りも覚えていた。知らずに握りしめる拳が震えいえた。

「だからこそおれはこうしてお前たちに向かっている」

 沈黙を破るように存保は言うと、太刀に手をかけ、さっと抜き払った。太刀は太陽の光を反射して、きらっと光る。光が信親に一瞬飛んだ。

 ざわめく周囲。雑草が風に揺られて音を立てるように、四方八方から声が沸き起こり。一触即発の緊張感がそれぞれの身体を締め付ける。

 城内ではそのことを知らず。女たちが懸命に鞠をついていた。

(どうしたのだろう)

 攻城の轟きが突然やんだと思ったら、途端に静かになって、またざわめきだしている。ただ鞠つきはとまらなかった。

 ぽんぽんと跳ねる鞠に合わせて、澄んだ歌声が女たちを優しく包み込む。その様を思い浮かべて、存保は奥歯を、ぎっと噛み締めた。

「同情しているのか、ならばそれはおれへの侮辱だぞ。小雨を助けた恩を感じているなら、おれと戦え」

 信親の微笑みに飛ぶ存保の怒号。その存保の後ろで、孝康も同じように信親を見据え槍をかまえ、いつでも飛び出せる体勢をとっている。ぱっと見おどけているようでも、内心には讃岐人としての燃え上がるような意地と闘争心を秘めていた。

(もう一度、小雨殿に会いたかったなあ)

 勝瑞での出会いを思い出し、そんなことを考えているなどもちろん存保と信親が知るよしもない。どうも孝康は小雨にただならぬ思いを抱いているようだった。が、無論それは孝康だけの、そっと胸の中にしまいこんでいる秘密だ。

 十河勢を見れば、人数もだいぶ少なくなっている。その人数で、この三万を超える大軍に向かうということは、城中の者たちことごとく玉砕をする決意だった。

 玉砕の中に、存保の妻、お燕ももちろんいる。

「太刀を抜け。いざ……」

 と言いかけた時、存保は言葉を止めた。なんと、微笑む信親の目から涙がひとつぶこぼれ落ちたのだった。

 それにはっと気付き、慌てて涙を拭う。

「失礼つかまつった。しかしこれは決して十河存保どのを侮辱しているのではござらぬ」

「ではなんだというのだ」

 戦場で武士が、特に信親ほどの者が涙を見せるのはよほどのことだ。その涙のわけを知りたくて、存保は続きを聞くと、絶句した。

「奥方様のことでござるよ」

「お燕のこと……」

「左様。小雨より奥方様がご懐妊であると聞き及んでおります。それがし、戦場にて将を討つを誉れとしても、腹にややを宿す女性を討つは忍びなく」

 それで、涙したという。軍を引きとどまらせて、信親自ら十河勢の前に出たのは、そのことを告げたかったからだった。

 引田から戻ってきて、十河城が健在であることにひどく安堵したものだった。そこで、元親に懇願して、存保と話をさせてもらっている。

 存保は考えた。これはつまり、遠回りに降伏を願い出ているのだ。しかし、信親はともかく、元親はそれを許すだろうか。今まで、散々抵抗してきたのに。

 脳裏にお燕の姿が浮かんだ。彼女はこの篭城戦の最中に懸命に鞠をついている。あの気弱な彼女が、である。その気持ちを思えば、その苦闘察してあまりある。

 家来たちが懸命に戦うのも、讃岐武士としての意地もあるが、お燕のためでもあった。この絶望的な状況の中にあっても、彼らは一粒の希望に賭けた。

 今どんな顔をしているのか、後ろを向くのははばかられた。

「攻撃は一晩待ちまするゆえ、その間お考え下され」

 丁重に一礼をすると、信親は馬首をかえして自陣に戻った。その後姿を見て、存保も城へ戻った。

 それから、正式に降伏をうながす使者がやってきて、存保はそれを受け入れた。 

 

 降伏を決めた十河城は静かだった。

 城中の者たちは、降伏が決まって、その途端に気が抜けて、みんな泥のように眠りこけた。

 孝康も大いびきをかきながら、城の庭で大の字になって眠っていた。そのこめかみには涙のあとがつたっていた。

(結局はこうなるのか)

 無念がつのる。

 ふるさと淡路を捨てて十河の郷に流れ着いて、そこも出てゆかねばならない。

 一体何人のものたちが死んでいったのだろうか。全ては十河家のために。命を投げ出して戦った阿波・讃岐の武士たちは、どんな思いを抱いて十河城を見下ろしているのだろうか。

 いや、もう長宗我部家のものとなった十河城など見たくはないのか。空には雲が覆いつくし、死者が下界をのぞくことは出来そうもなかった。

 ぐおーぐおー、と大いびきをかいていた孝康だったか。ふっと目が覚めて、目を見開いた。雲に覆われた真っ暗な夜空が視界に飛び込んでくる。今までの、阿波からの戦いが夜空を背景にして浮かび上がってくるようだった。

 特に、小雨のことが。

 小雨が信親をなによりも慕っていることに、嫉妬心が湧く。いかんいかんと、大きくため息をついて、気を紛らわせようと、起き上がって背伸びをした。が、目から涙があふれ出てくるのはどうしようもなかった。

 故郷も伴侶も得られない、根無し草のような人生。

(おれはなんのために生まれてきたのだろう)

 彷徨うためにこの世に生まれたのだろうか。

 存保とお燕は、大坂にゆき、そこで羽柴秀吉を頼るつもりらしい。

 孝康は存保についてゆかず、また放浪の旅に出ることを決めて。今まで世話になりながら申し訳ないが、とそのことをすでに存保とお燕に告げた。

「本気か」

「遠慮されることはないのですよ、同じ三好一族ではないですか」

 と、ふたりは驚きながらも引きとどめてくれたが、孝康は首を横に振り、出てゆくと言って聞かなかった。三好の一族だからといって、それでよかったことなどなかった。なまじ高貴な家柄であるがゆえに、私生児として疎んじられほとんど余所者扱いだった。

 ようやく故郷となりえそうだった十河の郷は、長宗我部に侵略されてしまった。そのやるせなさは孝康自身もどうにもできず、とうとう再びの放浪を決意させるにいたった。

(九州にでもゆくか)

 九州は今島津が四国の長宗我部のように猛威をふるっているという。危険そうだが、かといって本州に行く気にはなれなかった。どうせさすらうなら、生まれ故郷よりなるだけ遠いところがよい。そこで、九州にゆくことにした。

(なんなら九州を経て、琉球、大陸にまで足をのばすのもよいかなあ)

 古今さまざまな英雄豪傑、そして王朝が栄えては滅び、また栄え、という混沌とした大陸で己の命運を賭けるか。

 宋代の宋江のような、古書に見かける武侠の士となって、大陸を駆け巡るのも面白そうだった。そんな妄想を繰り返すうち、やるせなさはいつしか新天地への望みとなって、知らず知らず顔がにやけてくる。

「さっきまで泣いていた鬼がもう笑った」

 そう言って、声を立てて笑う者があった。孝康ははっとして、声の方を向いた。

「ああ、寒川弾正(さんがわだんじょう)殿か」

 見れば、十河家に居候としていついている寒川弾正がいつの間にか孝康のそばまで来て、腕を組んでこっちを見て笑っていた。年は孝康より三つ下ながら大柄で引き締まった体格に、そのしっかりしていそうな目つきから、むしろ孝康の方が、良くない意味で、若く見えた。

 寒川氏も十河氏と同じ讃岐の名族であり。かつては十河氏と戦い、存保の養父一存を負傷させたこともあった。この時一存は寒川氏との戦いで負傷した腕に潮をすりこみながら奮戦し、これにより鬼十河の異名をもつこととなった。

 戦国の争乱は寒川氏を容赦なく責めたて、戦う力も奪って。十河氏と建前は仲直りして、実際は家来というような立場になっていた。弾正はその寒川氏の末流にあたる。

「孝康殿は十河家を出られると聞いたが、本当か」

「ああ、もう知れわたっておるか。左様、出る。あんたも一緒に行くか」

 たわむれで孝康はおかしそうに言ったが、弾正は苦笑いをしながら首を横に振り、

「いや遠慮しておきましょう。それがし十河家に恩ある身なれば」

 と、半ばあてつけっぽく言ってみるところ、何か試しているようであったが。

「そうでござるか。では殿と奥方をよろしく頼むぞ」

 と、孝康はさらっと言った。これには弾正はぽかんとしてしまった。

(どうも本気らしい)

 それでは仕方ないと、「心得た」と笑って応えるしかなかった。弾正は別に孝康に対しこれといった感情はないのだが、何かにつけて前に出て、妙に印象に残るというか、記憶に残るというか、それがまた滑稽というか。

 そんなこともあって、出てゆく前に少し話しだけする気になったのだが。その素っ気なさに、ただ呆気にとられるばかりだった。よくまあ存保もこんな男を召抱える気になったものだ。

(存保どのも、存外お人好しな。残念ながら、やはり凡庸なお方であるか)

 多少の武勇はあるが、存外凡庸。弾正は存保をそう見ていた。でなければ、今日の衰退を招くことはなかったはずだ。

「ああ、そこもとには七郎殿という若い主がおられたな。七郎どのにもよろしゅう」

 と言うと、またでんと大の字にねっころがって、ぐーぐーといびきをかいて寝てしまった。弾正はその様に苦笑しつつも、

(なんとまあ自由奔放な御仁か)

 と、少しだけその奔放さを羨みながら離れていった。


 翌朝、存保とお燕は安宅孝康や寒川七郎、弾正ら近しい者十数名を伴って、長宗我部軍の行列に見送られながら城を出た。他の者たちは先にちりぢりばらばらに逃がされた。残る人数をひと塊にさせて、突然心変わりして反乱をさせないためだった。

 皆徒歩であった。武具はは没収され、馬も同じように没収された。

 城を出て、騎乗にて遠くからこちらを眺める元親と信親の父子の姿をみとめたとき、じっと視線を送ったのみで会釈もせずそのまま歩いた。

 お燕は深く会釈をする。家来たちもそれに続く。

 それを見た長宗我部の近衆たちは存保に対し「命を助けてもらいながら無礼な」と怒りをあらわにしたが、元親、信親ともに取り合わなかった。

 存保はすべてを失った。そのすべてを失った男に何をどう思われようが、元親には関係ないことだった。

 ただ信親は違い、平静を装いながら背中を向けて遠ざかる存保やその妻をじっと見守っていた。

 とくにややを宿すお燕の背中が小さく感じられて仕方がなかった。

 存保は今まで散々抵抗してきた、そのため長宗我部氏の家来として召抱えることもせず、もちろん存保も仕える気もなく、国外退去となった。

 これから彼ら彼女らは、どこでどうなるのであろう。羽柴秀吉の後ろ盾があったので、そこを頼るのだろうが、引田での仙石秀久の逃げっぷりを見て以来、信親は羽柴秀吉の人事にいささか不信感を持った。

 自分たちのせいとはいえ、そんな人間を頼らなければならない存保らのことが気がかりであった。

(小雨も同じことを考えているであろう)

 ふと、ふるさとの土佐にいる小雨のことを考えた。勝瑞以来小雨はお燕に好意を抱いたようで、しきりにお燕の人柄や優しさやを信親に語っていた。

 さすがにお燕を討たないでくださいと直には言わなかったが、人品を語ることで遠まわしに討たないでほしいと語っていたのはわかっていた。

 その通り、小雨は今岡豊城の自分の居室で、土佐の北方に立ちはだかる山々の向こう側に思いを馳せていた。

 目を閉じれば浮かぶ勝瑞でのこと。

「お達者で」

 と優しく声をかけてくれたお燕の優しさ。今ごろお燕のお腹はいくらか大きくなっていることであろう。

 今は乱世である。ややを宿した女性が何の情けもかけられずに殺されるなど日常的であったし、小雨もある程度は戦国の残酷さを耳にしたことがある。 

 もし信親がお燕を討ったら、自分はどうすればよいのだろう。あのお優しい信親様にかぎって、とは思うものの、元親が厳命を下せばさからえまい。

(もしそのときは、信親様にかわってわたくしがお詫びに黄泉でのお世話をさせていただきまする)

 優しくしてくれた人が死んで、自分だけおめおめと生きながらえるであろうか。

 士は己を知る者のために死す。その風潮の強い戦国期にあって、それは男だけのものではく、ときとして女性も同じように信ずる者のために命を懸けた。十河城でお燕とともに鞠をついた侍女たちもまた、そんな傑女であった。

 もちろんその憂いは杞憂に終わるものの、小雨はお燕のために死まで決意していたのだった。 

  

 孝康は存保の列の真ん中へんにいて、朝もやたちこめる郷をきょろきょろながめながら歩いていた。

(これで郷も見納めじゃのう)

 郷は戦のために荒れ果て、廃墟同然だった。その中で、木々や草花、遠くに見える山に青い空、雲はいつもと変わらず。人間のすることなどおかまいなく、自然は自然で生きていた。存保も同じように郷を見回し、言った。

「国破れて山河在りとはよくいったものだ」

「ええ、ほんとうに」

 十河夫妻は有名な杜甫の詩を思い浮かべ歩を進め、いつしか郷を後にして、舟で大坂に渡る。孝康とは港で別れた。

「では、お達者で」

 と、存保やお燕らに背中を向ける孝康。

 歩きながら何度か振り返って、存保やお燕をながめたりする。多少は未練があるらしい。存保はそんな孝康の背中に向かって、

「ゆけ!」

 と叫んだ。

 男子たるもの、未練にとらわれ一度進みはじめた道を引き返すな、と言いたかったのだった。

 それを聞いた孝康は、

「心得たり」

 と言いたそうに笑顔を見せて、たたた、と少し足早に歩いたが。途端に前につんのめって、どたっ、とこけて存保とお燕を呆気にとらさせた。

「いてて」 

 孝康は肩や足を揉みながら、またすぐに起き上がって走り出して。その背中はやがて見えなくなっていった。

「孝康殿は、最後まで孝康殿でしたね」

 お燕は少しおかしそうに言った。城を出てから口数も少なく、ずっと黙りっぱなしだったが、どういうわけか孝康の見せた間抜けさがお燕に明るさを少し取り戻させたようだった。

(これが瓢箪から駒というやつか)

 と思いつつも、存保も、寒川弾正や七郎ら家中のものたちも少しおかしそうで。笑い上戸な侍女などは、

「うふ……、……ふふふ、ほほほ……」

 と手を口に当て、声を押し殺しながら笑っていた。

 このおかげで降伏を決めたときの重苦しい暗さがいくらかほぐれて、朗らかさがいくらか出てきた。

 皮肉なことに、これが孝康が十河家に対してした唯一の貢献だった。が、孝康は、

(あーあ、最後の最後まで。おれはなんという奴だ)

 と、頭をかきかき西に向かって走りながら、自分の間抜けさを責めていて、そのことに気付いていなかった。

 

 舟の上より遠ざかる四国を目に、郷を支配する長宗我部が善政を布くことを願うばかりの存保だが、信親がいるなら心配しなくてもいいだろう。

 押しかけ女房ならぬ押しかけ家来が落城を機に離れてゆくことに、ふたりはうら寂しい思いも感じた。孝康もそれは考えたが、うちから芽生える新天地への望みおさえがたく、十河家への感傷と未練を押しのけた。

 存保はそんな孝康が羨ましくもあった。

(なまじ高貴の家に生まれ、当主であるために、あえて悔しさを噛み締めねばならぬ)

 存保は心臓に針を刺されるような思いで降伏した。もうこれ以上抵抗してもしきれるものではないし、犠牲も多くなるどころか全滅は免れず、そうなればお燕と腹のややはどうなるのか。

「もうよしましょう」

 深く思案している存保に、お燕はそう言った。

「命があれば、あとはどうとでもできまする。大切なのは、これからでございまする」

「……」

 お燕の言葉に、存保は表情を変えずにじっと黙った。これをでしゃばったためと思ったお燕は慌てて、

「申し訳ありません。出すぎた真似を」

 と言ったが、存保は自分の表情の硬かったことに苦笑して、

「いやいや、そちの言うとおりだ。大切なのはこれからだな」

 と今度は本土の対岸に目を向けた。

(悔しいが、これからのためなら羽柴秀吉の家来となって、手柄を立てて褒美にありつかねばなるまい)

 あの頼りにならなかった仙石秀久でさえ淡路五万石をもらった。存保なら励めば讃岐一国はもらえるという自信があった。

 人はそんな存保を笑うだろう。だが、笑いたければ笑えばいい。存保にも、存保の道がある。道をゆくということは、時として人から笑われることもあるということだ。それを厭うていては、前には進めない。

 長宗我部元親との戦に破れて、大きな挫折感を味わった存保だが、知らず知らずのうちにその心境が変わりつつあるようだった。

 舟は瀬戸内海を渡って大坂につき、存保とお燕は羽柴秀吉と対面し。秀吉は十河家をその保護下に置いた。

 やがて、お燕はややを生んだ。男の子だった。

 ややは、(せん)松丸(しょうまる)と名づけられた。

 

 それからまた月日は経って。気がつけば存保は再び讃岐の地を踏みしめて、十河氏の本貫の地である十河の郷、十河城にいた。

 讃岐を制し、その翌年に伊予を制した元親は、ついに四国統一を果たした。が、それも三日天下であった。

 四国統一後にすぐさま羽柴秀吉よりの四国征伐軍が出され、最初こそ頑強な抵抗を見せたものの。本土より十万を越える大軍、怒涛のごとく押し寄せ。伊予の武将、金子元宅(かね こ もといえ)の守備する金子城(愛媛県新居浜市)は土佐よりの援軍を受けながら奮戦するも、ついには玉砕するというほどの壮絶さを見せたのをはじめ。守城は次々と陥落。かくなるうえは命尽きるまでと、元親意地を張るも。

 最終的に和平を唱える家臣の言を聞き入れ、降伏せざるをえなかった。

 ともあれ、存保は寒川七郎や弾正ら近しい者を率い、征伐軍に付き従い讃岐に入った。仙石秀久も讃岐に入り、引田での汚名返上と城一つを全滅させた。

 戦後の論功行賞にて、讃岐の国は仙石秀久に与えられ、秀久は聖通寺山城(しょうつうじやまじょう)(香川県宇多津町と坂出市の境目)に入った。

 存保もよく働き、旧領である十河の郷二万石を賜った。

 城の柱や壁に手を触れながら、存保は城内を歩き回った。

(こんなにも早く帰れるとは) 

 あれから二年弱である。予想外の早さで帰れたせいか、懐かしさも浮かび上がることもない。ただ呆気なさを感じていた。

 心のどこかで、もう帰れないかもしれないと思ってもいたし。だからこそ、秀吉公に仕えて十河家を復興させようと考え。それは五年から十年はかかるかもしれないと思っていた。 

 それが二年弱で帰れようとは。

「土佐武士はそんなに弱かったのか」

 と思い悩んだほどであった。もちろん土佐武士は弱くはない。四国統一戦では阿波・讃岐・伊予にて後年にまで残る怨みを残すほど奮戦し、これに征伐軍大将である秀長は大いに悩み、兄秀吉から「これ以上てこずれば余みずから出征する」とまで言われて慌てて、「まあまあいましばらく」とそれを引き止めたほどであった。

長宗我部軍の主力は一両具足と呼ばれる半農半兵の地侍たちで構成され、人口の少ない土佐において兵数の確保におおいいに貢献し、野育ちならではの強さや逞しさはあるものの、いまひとつ戦いにおける精巧さに欠けたうえに収穫期には戦が出来ないというどうしようもない不利さを抱えていた。

 それに対し秀吉軍は訓練された玄人兵団で構成され、作戦や戦略の緻密さにおいて土佐武士のひとつどころかふたつもみっつも上を行っていた。もちろん稲の育ちを気にかける必要もない。

 一対一ならいざしらず、戦は集団戦である、いかに準備を整えいかに集団を動かすか。農作業の合間で戦をしているような一両具足とはこの戦の仕方において雲泥の差があった。そこに物量の差が加われば、土佐武士でもどうしようもなかった。

 なら、讃岐武士はなんなのであろう。狼に食われた兎。孝康ならそんな馬鹿なことでも言いそうだった。

 三好家の衰退。それに乗じた長宗我部の勃興、拡大。

(もうよしましょう)

 ふと、あれこれと考えている自分に気付いた時、お燕の声が聞こえたような気がした。

 今ごろは秀吉からあてがわれた大坂の屋敷で、存保のことに気をもみながら息子の千松丸と一緒にすごしていることだろう。

 入城し、城内を一通り歩き回ってから、広間の上座に座す。

「まずは、お祝いを。おめでとうございまする」

 秀吉に保護される身から、小なりとはいえ再び大名に返り咲いたことへの祝いの言葉が家来たちから存保へ向けられた。

 存保は主の威厳をにじませ、うむ、と頷いた。家来たちを見渡せば、讃岐に帰れた安堵感よりも、処遇に不満をもっていそうな者たちもいるようだった。

 それこそ家来たちの中には、

「二万石とは少なくないか」

 と論功行賞に異議を唱える者もあったが。

「かつて国主であったとはいえ、戦に敗れ、秀吉公の庇護を受けた身なればやむを得ぬ」

 と家来たちを説得しなければならなかった。

「おれは、新参者でもあるしな」

「ですが……」

 さらに言おうとする家来を、手を挙げて押しとどめ、

「ゆえに、秀吉公にお仕えし、手柄を立てねばならん」

 強い口調でそう言った。悔しさは、存保自身が一番感じている。しかし、その一方で

「かつて三好家は将軍を追い、殺し、また家中で争った。その業が巡って来たのだ」

 と巡る因果の恐ろしさも感じていた。人にしたことが、自分についに回ってきてしまったのだった。そのどたばたで気がつけば三好家はもうこの世にないも同然で、支流である十河家がいつの間にか三好家ととってかわったようになっていた。

 そういうことは、なってみないとわからないものだ。ゆえに、恐ろしいものであった。

「殿、よろしいですか?」

 握りこぶしを挙げて、発言をするものがあった。寒川弾正であった。

 若き寒川家の主、七郎の隣に身をかがめて控えていたが、ふと考えることがあって、発言した。

「よい、申してみよ」

「されば」

 一礼をして、弾正は存保の目を見ながら言う。

「これから、何をなさいます」

 これから、真面目な弾正らしい質問であった。そのことを聞かれ、存保は待ってましたと言わんがばかりに明るい顔になって、大声で叫んだ。

「知れたこと、国造りよ」

 国造り、その言葉を聞き、家来たちは水を打ったようにしーんと静まり返った。

「わずか二万石とはいえ、我が領地は、ひとつの国にはかわりない。その国をよりよく造ることこそ、我らが役目ではないのか」

 存保の言葉を聞きながら、

(わずか二万石ではないか、それで国造りとは大仰な)

と思う家来もあった。

それを察した存保は更に言った。

「おれは秀吉公に賭けている。秀吉公にお仕えして手柄を立てれば、また所領も増えるであろう。まずそのためには、政の出来るところを見せるのだ」

(その通りだ)

 と、弾正もうなずいた。もはや十河家は羽柴秀吉の家来となっている。家来としては、忠誠心はもとより仕事のできるところを主に示さねばならない。

 彼らは大坂の栄えをこの目で見ている。その繁栄ぶりに息を呑む思いであった。

 かつては存保も関西にまで足を伸ばしたこともあったが、当時とは比べ物にならぬほどであった。それだけにその大坂を足下に置く秀吉公の力をまざまざと見せ付けられたし。存保も秀吉公に賭ける気持ちになった。

 このとき、存保の中でに挑戦の心が芽生えた。

 今までひたすら守りの戦いを強いられたうえに敗れて国外退去のやむなきにいたったがゆえに、芽生えた挑戦の心は敗北の悔しさに比例し、また千松丸が生まれたことでどんどんと大きく育っていった。それは存保にとっていままで生きていてもっとも鮮烈に、また開放感溢れる感情であった。 

 思えば、十河城の篭城戦のとき、家来たちはお燕と腹のややに希望を見出して戦っていた。そのために死んでいった者もある。今こそそれにも報いねばならなかった。

 そのために、まず国造りである。家にたとえれば土台を造ることである。土台がしっかりしてこそ大黒柱も生きるというものだ。

 その第一歩として、戦後間もない郷周辺の治安を確かめたうえで、大坂にいる家族を十河の郷に呼び戻した。

 

 国造りはまず荒廃した土地を復活させることからはじまった。

 長年の争乱で田畑は荒れ、人は飢えていた。その様をじっくりと見るのは、このときがはじめてだった。それまで戦の中にあって、そこまで気が回っていなかったことを痛感したものだった。

 だからといって無駄な感傷にひたっている場合ではない。存保は家来たちを総動員し、争乱で逃げた領民を呼び戻し土地の復旧につとめた。

 ときには存保みずからが鍬をふるい、お燕はたすきを巻いて人々に飯をふるまった。

 身分など関係なかった。

 兎にも角にも、国造りであった。

 十河氏は、南海道を治めるために讃岐に派遣された景行天皇(けいこうてんのう)の第十七皇子、神櫛王(かむくしのみこ)の流れを汲むとされる。日本書紀、古事記によれば景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の父でもあるので、十河氏は日本武尊と遠い親戚に当たる。

 その十河氏は今所領二万石。百姓の出の羽柴秀吉の家来となって、国造りに精を出している。だが存保にもお燕にも、惨めさや恨めしげな表情はなかった。

 むしろ活き活きとしてさえいた。

 過去はどうあれ、今は国造りという希望が、胸の中で赤々と燃えていた。

 当初は、争乱で荒廃した土地を前に悲哀にくれて、存保やお燕の働く姿を見ても、無気力に襲われ何も手がつかない人々もあった。

 希望は、未来への望みであり、道しるべであった。その希望がある限り、人は何度転んでも、また起き上がり、前へと歩き出す。

 だがその希望は、雨のように空から降ってくることもなければ、泉のように地より涌き出るわけでもない。

 すべては己の心の中から、いかにして見つけて、引っ張り出すかにかかっている。だが挫折に打ちひしがされているときは、希望を見つけ出すなどできないだろう。

 現実を受け入れられず、苦しみ、足掻き、悶え、無気力に陥り、悲哀する。そんな後ろ向きな感情は、希望を見つけ出すまでに人間がかならず通ることである。

 若き寒川七郎も、今その真っ只中にいた。

 弾正が「さあ」と言って鍬を渡しても、無気力にうつむき、無言で身体を動かすだけだった。時折、

「あの時、打って出て死んでおればよかった」

 などと漏らし、弾正を困らせた。

 讃岐に帰り、復興に励もうと自分を鼓舞したものの、武士でありながら百姓のように働くことが惨めに感じられて仕方がなかった。これで仕事がはかどるわけもない。

 無論、七郎だけでなく、家来たちの中にも同じように悩む者が数名いた。これではいけない、と思っても、心はどうにもならない。

 希望の前には、必ず苦しみがある。その道のりは、人によって様々だ。早く立ち直れた者、なかなか立ち直れない者。

 すでに立ち直った存保やお燕、そしてともに働く十河の郷の人々は今、国造りに励んでいるその一方で、なかなか立ち直れない者たちへの励ましもせねばならなかった。

 国と同じく、人も造らねばならない。それは、国よりも難しい。国があって人があるわけではない。人があって、国がある。

 その人が、希望が持てず無気力に陥り働かなくなれば、国としての機能などなくなってしまい、国土は荒野へと変わり果てる。

 存保は、国は人あってこそということを、この時まざまざと痛感させられたが。

 それと同時に、生きているから苦しい、ということも見た。

「生者が死者を羨むなどそんな馬鹿な話があるか」

 と怒ったりもした。

 死者は、そんなことのために死んでいったのではないのに。生者の方で理解できず、今の苦しみから死者を羨ましがっている。

 生きているから苦しい、と。

 だが逆もまた真なり。

(生きているからこそ楽しい。そうだ、そんな国を造るのだ)

 我が子、千松丸を抱いてあやしているとき、ふとそんなことを思った。まだ幼い千松丸は、無邪気にきゃっきゃと笑って、楽しそうだ。

 それこそ抱っこひとつで喜び、楽しそうにしている。このとき、子供は抱っこひとつで喜べるのか、という新鮮な驚きを感じた。

 本来、人は無邪気なものなのだ、ということを千松丸から教わった。

「生きていれば楽しい。楽しいから生きる。そう思える国を造ろう」

 存保の、今まで見せなかった明るい顔にお燕は驚いた。

 それこそ、

「何事でございます」

 と、ぽかんとして聞き返してしまった。存保は「うん」と頷いて続けた。

「さっき言ったとおりだ。望みの持てる国を造ろう。七郎たちが苦しそうにしているのは不憫じゃ」

 活き活きと語る存保。お燕は、存保が己自身がまず希望を抱いて、家来たちにも同じように希望を持たせようとしていることがよくわかった。

 その目もまた活き活きとしている。これは、今までになかったことだった。 

 毎日日にち戦に明け暮れ、明日はおろか次の瞬間には死んでもおかしくないような生き方だった。それから一転、希望希望と口にするようになった。

(ああ、この人にはそういう一面もあったのか)

 お燕は目を見張る思いだった。まだ戦国の世は続いているから、今復興に専念できるのも一時のことかもしれないが、一時とはいえ、復興というものが存保にまた別の一面を見せたようだった。

(この人は、努力をする人なのだ。その努力家のところは、いままでは戦にばかりそそがれていたのだ)

 戦というものが、人の本来の方向性を誤らせることをこのときしみじみと感じた。存保は努力家ではあるが、それが戦に向けられ、その分恨みも随分と買ってしまった。

 讃岐西部の豪族たちが早い段階で長宗我部と結び、何度も存保と刃を交えた。そうなったのも、ひとつは三好家・十河家への反発もあった。同じ讃岐国人同士で争うのは、お燕にとっては悲しいことだった。だが、もうそんな悲しい思いをせずともよい。

「あなたさまの言うとおり、わたくしもよき国を造るため、お手伝いさせていただきます」

 と、夫同様に目を活き活きさせてそう言った。

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