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第一章 中富川合戦 頁二

 天は三好の滅びを嘆くのか、それとも自然のことわりにしたがっているだけなのか、空を分厚い雲が覆い雨を降らせてきた。

 雨は豪雨となって勢いを増して、屋根を激しく叩きつける。

「天までがおれの邪魔をするか」

 苦々しい存保。

 残すものは無いと、勝瑞館に火を放ったというのに、その火が雨に消されてゆき。不完全燃焼と、ぶすぶすとくすぶりの煙を吐き、黒こげの骨組みをさらけ出す無残な半焼けの館の姿が残った。

 そこへ、長宗我部の雑兵が雨に打たれながら火事場泥棒に押しかけ、戦利品を持ち帰ってゆく。まるで地面に落としたお菓子に群がる蟻のように。

 それが勝瑞城の最上階の窓から見える。

 どうも、やることなすことうまくいかず、苦虫を噛み潰すような思いに駆られる。さきほどのお燕とのやりとりで少しは和めたかと思ったら、これだ。

 いやそれよりも、気になることがある。

 この勝瑞、阿波屈指の三角州の中、周囲を川に囲まれた地形の中にある、ということが。

 その川のひとつ中富川から、雨に打たれながら這い上がる者。

 全身傷だらけでぜぃぜぃ言っているが、目はぎんぎんに光っている。

(おのれ信親め)

 と恨み言を心の中でつぶやく。

(人をもてあそびおってからに。斬るふりをして峰打ちとはどういうつもりだ)

 孝康だった。

 信親との一騎打ちに敗れ、斬られた。と思ったのだが、信親何を思ったのか斬る直前に刃をかえし、峰で孝康を打ちつけ気絶させたのであった。

 川に沈み、しばらくして息苦しさから目を覚まし、しかし本能がそうさせたのかとっさに死人のふりをして、しばらく上陸のときを待った。目立つ動きをすれば長宗我部兵に襲われてしまう。

(しかしよく首が残ったもんだ)

 と首をさすった。

 気絶している間に他の誰かに首を持っていかれそうなものだが、なんともなかった。

 一騎打ちのときに戦況は大きく変わった。長宗我部兵は川に沈んだ屍など相手にせずに、陸の勝瑞めがけて突っ込んだ。それが幸いして、首が残った。 

 それはさておき。なぜ信親は孝康を斬らなかったのか。

(まあええわい。生きておるのなら、這ってでも郷に帰るまでじゃ)

 長宗我部兵に見つからないように、こそこそと鼠になったつもりで勝瑞城を目指した。

 勝瑞館が燃えているのを見たときは息を呑んだが、それも雨で消え今は無残な姿を残している。

 城はなんともない。攻城は明日か。それまでゆっくり休むとは、なんとも余裕ではないか。土佐の人間は、気が荒いくせに変なところでのんきなところがある。

 思えば強敵織田信長が本能寺で斃れたとき、どさくさに紛れて本土に攻め込むことも出来たのではないか。

 それをせずに阿波の勝瑞など落としてどうしようというのだろうか。同じ攻め落とすなら、阿波よりも本土に上陸して京を目指せばよいではないか。

 まあ、いい。

(いやよくない)

 孝康はいつの間にかあれこれと考えていたのをやめて、こそこそと、勝瑞城へと入る機会をうかがった。

 雨は激しく降り続いている。これはたまらんと、空の納屋を見つけそこに潜んだ。潜んで、いつしか寝息を立てていた。

 灰色の空は、漆黒の夜空に覆われていった。


 豪雨は下界を打ちつける。それは恵みの雨を超えて漆黒の闇より吐き出される鬼の涙のようで。

 時折怒り狂ったように、雷が怒りの雄叫びを上げて空を、地を揺らす。

 お燕は雷に弾かれるように、昼間合戦の時のように、恐れのあまり耳を塞ぐ。どうして、こんな怖い目にあわないといけないのだろうと、泣けてしかたなかった。

 燭台の火が闇の中揺れる。お燕の怖さにつられるように、揺れる。

(いったい、わたくしが何の悪いことをしたというのだろう……)

 夫が戦に行っているから? それを止めずに見送っているから?

 侍女が近くに寄り添って、お燕をかばい、慰め励ますのだが、それでもお燕の怖がりは治らない。

(お気の毒に)

 といたたましくて仕方がない。

 近くで世話をしていて、一度も怒ったところを見たことがない。夫の存保と仕合せな家庭をもつことを夢見る普通の女性だった。

 それが、なまじ高貴な家に生まれたために戦乱の中に投げ込まれてしまった。

 存保は、同じ城中にありながらあれから奥には来ず、家来たちとともに城で篭城の支度にとりかかっていた。

 明日の明け方にでもあるであろう長宗我部の攻城のほうが、存保にとって大事であった。

(少しくらい、お側にいてあげても)

 少し、主の存保をうらんだ。

 そのとき、お燕に異変があった。突然息苦しそうにして、手で口をおさえ、激しい吐き気に襲われた。

 恐怖のあまりのことか、と思ったが、どうも違うようだった。それは、女だからわかった。

(これは)

 お燕も、侍女も、時が止まったように感じられた。

 腹の中に、待望のややがいたのだ。

 一瞬、つわりの苦しさよりも、歓喜が身体を駆け巡ったが。

(こんな時に……)

 今自分のいる城は囲まれて、明日にも攻められようかとしていた。今この覚悟を決めねばならない、という時に。

 次には、歓喜が哀しさへと変わってゆこうとする。

「誰か、誰か!」

 侍女が人を呼べば、ほかの侍女が何事かと駆け寄ってきて、お燕の様子に手で口をおおって驚く。

「殿を、殿を」

「は、はい」

 駆けた侍女は慌てて存保のもとまでゆく。

「なにっ!」

 叫んで、侍女から話を聞いた存保は足早に奥の間へゆき。

「お燕」

 妻の名を叫びながら奥の間へと来た。

 少し落ち着いたようで、今は寝巻きに着替えて侍女が敷いた布団の中で横になっている。

(ややが……)

 目をお燕のお腹のところにもってゆく。

「お燕」

「存保様」

 互いに見つめ合い、名前を呼び合って、無言。

 この時ならぬお燕の懐妊に、言葉もない。

(天は、おれに、妻のみならず我が子まで道連れにせよというのか)

 本当なら嬉しいはずのことが、時期が時期だけに、かえって、哀しみとなって、胸を駆け巡った。

 雷鳴が轟いた。

 だが誰も意に介さず、奥の間の静けさに身をゆだねている。燭台の火が揺れ、そこにいる人々の影も揺れた。まるで人の心をあらわすかのように。

(なぜだ。なぜこのときに)

 存保は、人の力の及ばぬ運命とでもいおうか、そういうものを今ほど意識したことはなかった。

 志と努力のみではどうにもならぬ、運命というもの。それが今自分の双肩に重くのしかかったようだった。

 戦に敗れ、家族を道連れにして逝かねばならないのか。天は、存保にそれをさせるのか。

 屋根を叩く雨音にまじり、また雷鳴が轟いた。存保に決断を迫っているように、また鳴った。火はゆらゆらと揺れている。

 心も影も、つられて揺れる。

(おれはどうすればよい)

 迷った。

 本音は、生きたい。

 妻と共に生きて、我が子の顔を見たい。

 だが、今や袋小路に追い詰められた鼠のような境遇だった。それでどうやって、生きてゆけるのだろうか。

 お燕は存保を見つめている。疲れているようだが、目には微笑みを絶やさなかった。その目は、輝いていた。

(あっ)

 存保は目を見張った。変わった。お燕はひとりの女性から、母へと変わっている。

 そのことに気づいた。

 ならば、自分もそれにならって、父にならねばならないのではないか。

(降れ、もっと降れ、もっと降れ)

 何を思ったか、突然そんなことを考え始めた。

 邪魔すると思っていた天だが、思わぬことで味方してくれるのではないか。

 我知らず、存保の目も輝きを増していた。

「存保様、なにかよいことでも?」

 その様子に気づいたお燕の問いに、

「おうさ」

 と元気よく応えた。

 奥の間はいつの間にか、ふたりを中心にして明るい雰囲気に包まれていった。

 燭台の火は揺れず、しずかに奥の間を灯していた。


 信親は土佐より連れてきた侍女に酒をつがせ、ちびちびと飲む。

 今宵は久しぶりに女でも、と思ってはみたものの。

 降りしきる雨の雨音、雨音というにはあまりにも激しすぎる雷雨の轟きに耳を済ませているようであった。

 今自分たちは阿波の三角州の中にいる。

 ゆらゆらとゆれる燭台の灯火。

 静けさを裂く雷雨の轟きの中に、信親はその身をゆだねる。

 血が騒ぐ。

 それをおさえて、目は静かにとじられ、酒の味を吟味しているようで。かすかに眉がうごく。

 酒が不味い、のではない。

 人をやっている。

 中富川の堤へ。

 それが帰ってこない。

「……」

 黙し、また杯を口にはこんだ。

「あの」

 侍女がささやくようにいった。

「お酒のお味でも……」

「いや……」

 小雨という少々変わった名の侍女は、信親が手を引き身を引き寄せるのをまっている。

信親が気に入るだけあって、土佐育ちらしからぬ色白で清楚な少女であった。

 顔を下げると、艶のよい黒髪がすこしゆれた。

 それに気づき、

「失礼いたしました」

 と慌てて詫びる。

「ん、何がだ」

「あ、いえ、ついうとうとと」

 なんだ、といいたげに、闊達に笑う信親。

「疲れているのだな。今宵はもうよいから、そなたは休め」

「いえ、そんな。若殿を差し置いて先に休むなど」

「かまわん。疲れた女に無理やり夜伽をさせるなどして、おれの名を下げさせるな」

 信親はいたずらっぽく笑いかけた。

 小雨は頬を赤く染め、平伏した。

「あっははは。小雨、そなたは面白いのう」

 さらに頭を下げる小雨。信親は少々困ったように笑いながら。

「これ、それではまるでおれがそなたをいじめているようではないか。面を上げよ」

「はい」

 そう言って、小雨が顔を上げようとした時。

 どっ、という地鳴りのような音がしたかと思うと、水がふすまを押し倒し、押し寄せ。押し寄せた水は燭台を飲み込み火を消して、あたりを真っ暗にする。

「小雨」

 信親はさけび、すぐに小雨の手を握った。が、水の勢い凄まじく、すぐに引き離されてしまった。

「信親様」

 小雨の悲鳴が響く。

 悲鳴は、遠ざかってゆく。

「小雨、小雨」

 信親は小雨の名を叫んだ。が、しかし、声は返ってこない。それ以前に、信親は水の力で柱に押し付けられて、身動きもままならない。

(なんということだ)

 洪水だった。それは案じていたことだった。雨は三角州周辺の川を溢れさせ、その猛威を振るった。

 その猛威は人間の思惑など嘲笑うかのように、すべてを飲み込んで押し流してゆこうとしていた。

 運の悪いことに、小雨はどこにもつかまることも出来ず、そのまま流されてしまった。

「小雨」

 暗闇に向かい、あらん限りの声で叫んだ。

 しかし、応える声はなかった。


 地鳴りの音がしたと思ったら、洪水。

 納屋でいびきをかいていた孝康は洪水にたたき起こされ、

「わ、ぷっ!」

 声にもならぬ声を上げて、わけもわからないまま、押し流されてゆく。

(なんだこれは!)

 水中であがくも、どうにもならない。

 しかも着ている鎧が重く身動きもままならない。そうでなくても突然の洪水である。なすすべもなく、ただ流されるにまかせるしかなかった。

 流れは勝瑞城の土塁に猛烈な体当たりを食らわし、一部が泥のように溶けて崩れ落ちてゆく。そこからまた水が流れ込み、三階建ての城郭に激しい衝撃を与えながら取り囲み、城郭を芯にして渦を巻く。

「来たか!」

 存保が叫んだ。

 家中の者たちは、わっ、と歓喜した。

 この豪雨で堤が決壊し、川という川が手を結ぶようにつながり、三角州周辺を飲み込むような洪水を引き起こすのは、存保も予測していたことだった。

 それに備え、皆を城郭の二階以上へと上がらせた。上がらせるだけでなく、用意できる小舟をすべて縄で城郭につなぎ、脱出の備えもしていた。

 城郭を真ん中にして渦を巻く洪水。つながれた小舟が水にもまれている。存保が案ずるとすれば、船が流されないかということだ。

「舟が無事なら、夜明けと共にこの城を抜け讃岐にゆくぞ」

 おそらく、この洪水で長宗我部方は多大な被害を受けて戦どころではなくなっているはずだ。その隙を突き、一面水の世界と化した勝瑞を船で脱出するのだ。 

 まさに天が味方をしたのだ。

「捨てる神あらば拾う神もあるものですな」

 家来が満面の笑みを浮かべて言う。存保は力強く頷いた。

 お燕は、侍女につきそわれて、二階の部屋の隅でやすんでいる。洪水の力で柱がぎしぎし言って崩れるのではないかと少し怖かったが。

 それよりも存保のあの「おうさ」という力強い返事が、いまも耳に残っている。

 そういうことだったのか。と、彼女も家中の者たちとともに喜びをかみしめている。

「これで、帰れますね」

 侍女はうれしそうにささやけば。

「そうですね。ほんとうに……」

 感慨深げに、腹をさすった。

 この中に、新しい生命がある。

 それをむざと道連れにせずに済みそうで。あのときのように風流踊りでも踊りだしたくなる気分だった。

 城は歓喜につつまれ。今にも歌い出しそうなほどの喜びを、城中の者たちは天に感謝の念を捧げた。

 が、それから外れたものがいる。

 洪水の真っ只中にいる孝康である。

 水の中であっぷあっぷだ。

 思わずじたばたとしていると、手に何か当たり。まさに藁にもすがる思いでそれにしがみついた。

 それは、

「きゃ」

 と声をあげた。どうも、なにやらふくらみがあって、やわらかい感触がする……。

(女?)

 驚いたのもつかの間、しがみついたものと共に、押し流されてゆき。どん、と背中に何かが当たった。洪水に流されている木材かなにかであろう。

 どん、どん、と何かに当たりながら、孝康はしがみついたものと共に濁流に流されていた。


 元親は館の屋根の上にあがって洪水から避難し、家来や後から上がってきた嫡子信親と共に、雨に打たれながら暗闇の中一面水の世界と化した勝瑞の地を呆然とながめていた。

「……」

 声も出ない。

 雨音にまじって、ごうごうと水の流れる音がする。その音は、闇より出て闇に吸い込まれてゆくような気がし。

 この中に飲み込まれれば、それこそ闇の中に飲み込まれてしまいそうで。破壊を避け今後のためにとっておいたのが、結局のところ自然に破壊されて。

 明日にも城を攻め、存保の首を挙げようかというのに。この洪水のためにそれどころではなくなってしまった。水に足をすくわれてしまい、いまや自分の身を水から守るのに手一杯というていたらくで。

 自然の恐ろしさというものを、まざまさと感じていた。

 信親も父と同じように、呆然とその有様をながめていた。

(小雨)

 濁流に飲み込まれた侍女のことを思った。

 もはや助かるまい。

(御曹子か。女ひとり助けられずに、なにが御曹子か)

 拳を強く握りしめる。

 中富川合戦の勝利など、何の意味があろう。結局のところ、すべて濁流が飲み込んでしまったように思えた。

 あの、孝康という者の言った、無念、という言葉が、胸をついた。

 思うことあって討たずにおいたのだが、それも意味なかったか。

 その孝康は、濁流のなか何かにしがみつきながら流されていた。いったいどこまで流されてゆくのだろう。

 しがみついているものは、身を硬くし、しがみつかれたままでいる。

 何度か顔を上げたが、また水に吸い込まれ、どこにいるのかわからなかった。視界にうつったのは、ことごとく闇だった。

(もはやこれまでか)

 いい加減傷つき疲れているときに洪水に遭い、もはや疲労は極限まで達していた。意識は朦朧とし、もはや正常な判断など出来なくて。

 観念して、このまま飲み込まれようとしたとき。

「信親様」

 と、しがみついたものが叫んだ。

(なに、信親だと!) 

 信親という言葉が、朦朧とし、身体もろとも濁流に飲まれようとしていた意識を、まるで槌で叩くかのようにして叩き起こした。

 どん、と何か背中に当たった。それから、なぜかぐるぐると渦の中に巻き込まれたように、なにかを中心にして弧を描くようにして回っているようだった。

 そしてまた、どん、と何かが背中に当たった。その刹那、背中に当たったものに手を伸ばし、ひっつかんだ。

 自分でも不思議なほどの力で、強くそれをひっつかんで、ぐいぐいと自分の方へと引き寄せてゆく。それがなにかわからないまま。

 その手触りから、木でできたもののようだ。

 ぐいぐいとひきよせ、濁流から這い上がろうとして顔を上げれば、それは小舟だった。

(しめた)

 孝康はまず「信親様」と叫んだ者の首根っこをつかんで小舟にあげて、それから這い上がった。小舟は濁流に揺られて今にも転覆しそうだが、どうにか体勢を保っている。

 周りを見れば、暗くてよくわからないながら、土塁に囲まれているようだった。土塁は一部洪水のせいで崩れていた。

 どうもそこから中に入ったようだ。ふと、小舟が濁流に流されておらず、何かに引っ張られてそこにとどまっていることに気づいた。

(これは)

 と思いながらさらに目を凝らせば、三階建ての城郭が雨の闇夜の中に浮かび上がった。城郭は一階の下半分までが水に沈んで、巨大な船が沈みかけているようにも見えたが、地上の土台の上に建つものが沈むわけはない。

 闇夜の濁流の中、城郭は微動だにせずその姿を浮かべて。まるで突然幽霊船にでも出くわしたかのような、異様な雰囲気を孝康は覚えた。

 が、もちろん幽霊船ではなく、それは勝瑞城の城郭であった。

「おお、おおぉー!」

 思わず大声を上げた。奇跡的にも、自分たちは濁流によって城まで運ばれたのであった。

「ひえっ」

 孝康の叫びに驚いたか、頓狂な声があがった。そうそうこれは何者だと、孝康はその方を見た。

 それはやはり女であった。それも身分卑しからぬきれいな着物を着ている。

 着物は水を吸って肌に張り付き、そのやわらかな線を浮かび上がらせ、今が闇夜でなくば、服の下の肌まで透けて見えそうだった。

 思わず孝康の頬が温まる。

(いかんいかん、こんな時に)

 と、首を振って自分を戒める。それよりも、

「信親様」

 と女は叫んだ。ということは、この女は信親と何らかの関係があるということか。

 お前は誰だと尋問をせねばなるまいが、まずそれより。

「おおーい、おおーい!」

 城郭に向かって大声で叫んだ。雨音と濁流の音も大きく、声は届かないかと思ったが、それは杞憂に終わってくれた。

「なんじゃなんじゃ」

 城の窓から声がする。聞こえたようだ。孝康はさらに、あらんかぎりの声を振り絞って叫んだ。

「おれだ、安宅孝康だ。城に入れてくれ!」

 手まわしよく松明を持った者が、孝康の方に松明をかかげた。

「あ、安宅? まこと安宅孝康であるか、幽霊ではあるまいな。安宅孝康殿は長宗我部信親に討たれたと聞くぞ」

 という声が聞こえた。

(そうか、おれが討たれたと城中に知れわたっているか)

 あのとき、周囲をたくさんの敵味方に囲まれていた。たしかに城の中にいる者の中に、それを見た者があるであろう。

「信親さまに、討たれた?」

 女、それは小雨だった。小雨は今の自分の状況がわからず、混乱をきたす寸前にまでなっている。

 突然の濁流に飲み込まれて信親から引き離されたかと思うと、信親に討たれたという者に拾われて、今どうも勝瑞城にいるようだという、今の自分の状況が、にわかに信じられなかった。

(もしやわたしはもう死んで、死人の国に迷い込んだのではないか)

 それでそうして、信親に討たれた者に拾われたのか。

 そう思うと顔から血の気が引いて、そのまま意識を失って、小舟の中でたおれた。

 

「なに、孝康?」

 存保はにわかに信じられなかった。だが確かに小舟にふたりの人影。そのひとつが自分を安宅孝康だと言う。

 もうひとつの人影は誰か知らぬが、

「まあいい、ひとまず引き上げてやれ」

 と命じ、もし怪しい動きをすれば、即斬れ、とも命じた。

 まず女が引き上げられ、それに続いて引き上げあれた者は、確かに孝康であった。

 みんな狐か狸にばかされたような顔をしていた。それもそうだ、死んだと思っていた者が生きていて、しかもおまけまで連れて帰ってきたのだから。

「孝康、ぬしゃ生きておったか」

「はあ、まあ」

 疲れてはいるが孝康らしいとぼけた返事をして。

「足はついておりまするよ」

 と、自分の足をぺしぺしと軽く叩く。

 それよりふたりともずぶぬれの泥だらけで、床に水と泥が落ちて、その痕が広がってゆく。女の方ももろ手をついて、苦しそうに息をしている。

 苦しそうに息をしているのは、なにも洪水で危うい目にあったからというだけではなく、わけもわからぬうちに敵方の城の中に引っ張り込まれることになったからでもあった。

 目は恐怖の色をたたえ、まわりをおそるおそる見回している。

 誰も彼もが、小雨を怪しげに見据えている。

「いやあ、これぞまさに九死に一生、九死に一生」

 孝康は背を壁にもたせかけて床に手をつき、足を投げ出している。疲れているが声は喜色に富んでいる。城に帰れたことが嬉しくて仕方ないらしいが、彼にも怪しげに見る視線がそそがれている。

「い、いやだなあ。そんな目で見んでくだされよ」

 肩をすくめる仕草をしながら言う。無理もないことである。城の者たちは明日にでも城を枕に討ち死にすることを覚悟していたのである。

 そんなときに、ひょっこりとわけもわらないままに、突然死んだと思っていた者が、おまけを連れて帰ってくるとは、これいかに。

「孝康、おぬしどこでその女を釣った」

 存保だ。鋭い目をして、腰の太刀に手をかけている。まさかと思うが、味方でありながら敵に内通していたとも考えられた。信親に討たれながら、生きていた。なにかしめし合わせでもあったのではないか。

 女は、孝康とはどういう関係かは知らぬが、隠密のくノ一とも考えられた。

 が、女は顔を真っ青にして、ほんとうに恐ろしそうにしている。

(わたしはどうなってしまうのかしら……)

 さっきからそればかり考えている。

(演技ではないな……)

 存保の鋭い目は小雨にも向けられた。どうも、くノ一ではないようだ。水と泥でよごれてはいるが、顔立ちは清楚で穏やかに、着物も上等のもので、卑しい身分ではない。なにより、ほんとうに顔を青くして怖がっている。

 それがどうしてここにいるのか、ということが不思議でならなかった。

「ふむ、それがどうも妙なことで、それがし信親に討たれず峰打ちをくらって気絶させられまして。それからこの洪水に遭いまして。で、藁にもすがる思いで手に当たったものにしがみつけば、それ、その女だったのでござるよ。それから、洪水で城に流されまして。いや自分でも自分の言っていることがちんぷんかんぷんで、ようわからぬが、そういうわけでござる」

 言いながら孝康も不思議そうだ。

(もしわたしが信親さまにおつかえする侍女だといえば、どうなってしまうのだろう)

 鬼のような形相の阿波讃岐の衆に斬り殺されるのではないかという不安が、小雨の脳裏をよぎる。

 その時、

「どうしましたか」

 という声。女の声だ。

 小雨はその女の声に、救いを求めるように、目を向けた。

「まあ」

 と、声の主はいつの間にか孝康と見知らぬ女がこの城にいることに、少し驚いていた。それはお燕であった。

 隣の別室で休んでいたが、存保らのいる部屋がにわかに騒がしくなったのが気になって、見に来たというわけだ。

 ひとりをのぞいて皆と孝康が一斉にひざまずく様子から、小雨はこの城の主とその夫人を知った。

「お燕。いいのか」

「はい、大丈夫です。それよりもこれは」

「おれにもよくわからんが、孝康は生きていて、女を釣って帰ってきた。これは天のなせる業か、それとも魔のなせる業か……」

 存保は考えあぐねているようで、

「さっぱりわからん」

 と首をひねる。

 お燕は、そうですか、と言ったかと思うと、小雨の方まで歩み寄ろうとする。

「お方さま、不用意に近づかれては」

 家来と付き添いの侍女が止めるが、

「大丈夫です。この人は怖い人ではありませぬ。目を見ればわかります。ほら、目は口ほどにものを言う、というでしょう」

 場違いな微笑を浮かべて言い、怖がる小雨の前で正座をして。

「わたくしは十河存保の妻、お燕と申します。そなたは、なんという名なのですか」

 優しく小雨に語り掛ける。

 かたわらの侍女がもしもにそなえて飛び込むようにしているが、

「これ、そのような怖い顔をすれば、この方もものが言いにくいでしょう。ここはひとつ穏便に」

 そう言われて侍女も仕方なく少し後ろに下がる。

「殿」

「よい、ここはひとつお燕を信じろ」

 男どものささやき。聞こえたが、意に介さない。

「そなたを斬りはいたしませぬ」

 変わらず優しく語り掛ける。だが小雨は恐怖に身を硬くしたままだ。

(かわいそうに……)

 お燕の心に、小雨への同情と哀れみと、慈悲があふれてくる。よほど怖い思いをしてここまで来たのだろう、そこでまた、ここで怖い思いをしている。

 それでものが言えるわけもない。

(どうしましょう)

 どうしたら、相手に安心してもらえるか。

 理由はどうあれ、無用の流血は、なんとしても避けたいところだった。彼女の命は、お燕にかかっているといってもいい。

 しくじれば、自分のせいでこの少女が死ぬことになる。 

(そうだ)

 はたと、ひらめいた。

「わたくしの腹には、ややがおりまする。それでそなたにうそを言えば、ご神仏より罰を受け、わたくしもややも、無事ではすみますまい」

 それから、微笑をむけて、じっと小雨が口を開くのをまっている。

 お燕の優しげな語り口と微笑みが心に触れたのか、小雨はぽろぽろと涙のつぶを流し、

「わ、わたくしは……」

 と、話をはじめた。

 存保も家来たちはお燕に感心しきりでそのうえ、罰うんぬんという言葉のために、小雨を斬れなくなった。

(たいしたものだ)

 存保は、密かに舌を巻き。

(天晴れ!)

 孝康はお燕の温情に感歎していた。


 小雨は話を終えるとばたりとたおれこみ、お燕の指示で侍女たち支えられながら別室へと移り、濡れた身体を拭き、新しく用意された寝巻きに着替え、敷かれた布団に横たわり、そのまま寝息を立てていた。

 涙のあとが頬に残っているのを見て、かたわらにいてあげているお燕は優しげに小雨の寝入るさまを見守っている。

「それにしても、驚きましたね……」

「そうですね……。まさか長宗我部信親殿にお仕えする侍女だったなんて」

「長宗我部方も、この洪水に巻き込まれ、戦どころではないでしょうね」

 だからこそ讃岐に脱出できる好機が出来たのだが、それは攻め手の長宗我部方、ひいては小雨にすれば災難であったろう。

 だが洪水がなければ、自分たちはどうなってしまって、小雨はここでどうしたであろうか。

 そのことに関する想像力は男どもの方が豊富なようで、

「洪水がなければこの城であの女と信親がむつみあうというわけですなあ」

 と孝康は言い、他の家来たちもうんうんと頷いている。

「よせ、はしたない」

 存保は呆れて注意する。

 孝康は身体を拭い新しい着物に着替えている。城に帰り着くまではひどい疲労に襲われていたが、帰りつけていくらか休めたおかげか、それとも城中の緊張感に触れたせいか、いくらか回復を見せて、みんなと一緒に夜明けを待っている。

 夜明けになれば、水の世界と化した勝瑞から舟で脱出し、讃岐に向かうのだ。

(ああ、やっと郷に帰れるのか)

 郷に帰るのが楽しみで仕方ないらしく、顔が我知らずにほころぶ。

 そんな孝康はほっとしていて、存保は家来、特に阿波方の家来たちに言う。

「よいか、決して早まった真似はするな。勝瑞を建て直すには、お前たち阿波衆の力が必要になってくる」

 阿波方の家来たちは、一同に頭を下げて「ははっ」と返事をした。

 

 夜が、明けた。

 屋根の上の元親をはじめ、信親や土佐武士たちは、一面水の世界と化した勝瑞を見て、息を呑んだ。

 まず家屋の一階部分は水につかり、家屋を寄宿舎に使っていた者たちは二階や屋根に上って水をしのいでいた。

 いや、家屋に入れたものはいい。入れなかったものは流されたか、流されずとも木の枝にとまり、雨に打たれた小鳥のようにぶるぶると震えていた。

 鬼ざむらいの面目も何もあったものではなかった。そこには征服者から一転、災害の被害者としての土佐人があるだけであった。

 これでは戦どころではないし、米もとげず水が引くまで餓えねばなるまい。

 それをよそに、信親はさびしげに水の世界に視線を落とす。

 この水の世界のどこかで、小雨が永久の眠りについているのかと思うと、胸が張り裂けそうになった。

「信親」

 父の呼び声ではっと我に帰る。白い、無表情な顔を父に向けた。

「たかが、女ひとり」

 という一喝。

 息子がお気に入りの侍女を連れてきているのは知っている。洪水に流されたのも、知っている。だが、仮にも御曹子ともあろう者が侍女ひとりのためにここまで気落ちするのはどうであろう。昨日までは悠々としていたのに。

 たかが、女ひとりのために。

(むごい)

 と思わぬでもない。しかし、四国の統一事業、そして京にかたばみの旗を立てるという志の前では、それは小さな事だ。

 その過程で、侍女ひとりのために御曹子が腑抜けになってしまっては話にならぬではないか。

 一瞬、信親の目が光った、ように見えた。「たかが、女ひとり」という言葉が心に突き刺さったのだろう。だが元親は容赦しない。

「女などのことよりも、この事態から今後のことを考えねばならぬ。そちがどう泣いたところで、死んだ者は生き返らぬ」

 かたわらで聞いている家来たちは、黙って事の成り行きを見守っている。信仰する御曹子が女のことで父より叱責をうけているのを見るのは、彼らにとっても辛いことであった。内心、似合いのふたりであると暖かい眼差しを向けていたのだが。今は元親の言うとおり、この事態からこれからどうするかを考えることが先決であった。

(今後のためにとっておいた勝瑞の町だが……)

 元親は信親に一喝をくれたあとに、口を固く結んで、思案にくれているようであった。

 町は洪水の被害に遭ってしまい、再建を余儀なくされた。そのためには、どうしても阿波衆の協力が必要となってくる。

 逃げ出した住民を呼び戻し、労働に就いてもらわないといけない。その指揮は、土佐武士が太刀を振り回しながらでは労働意欲がわくまいし、無用の怨みを買うことになる。

 やはり、阿波人には同じ阿波人を当てた方が得策であろう。

 となると、無用な流血は避けたいところだった。流血沙汰になれば怨みがのこる。それでは再建どころではなくなり、阿波征服のために不必要な戦をせねばならなくなってしまう。

 戦いの泥沼化は、元親とて望んではいない。最終目的は、あくまでも統一なのだから。

 今まで考えていた計画が、一夜の洪水のためにすべて立て直しをせねばならなくなって、まざまざと自然に対する人間の小ささを痛感せざるをえなかった。

 が、まずは水がいつ引くか、であった。引きが長引けば、木の上屋根の上でひからびねばならぬとも限らない。

 二万三千の大軍を率いる大将といっても、自然の前では蟻にも等しかった。

 

「よし、舟に乗り込め!」

 存保の号令、そして屋根から水に浮かんだ小舟に乗り込む孝康ら讃岐方の家来たち、侍女にささえられながらそろそろと乗り込むお燕。

 小雨は、阿波方の家来たちとともに、舟の上の人となった存保やお燕を見送っている。

 小舟で逃げる、といっても城の者皆が乗れるわけではない。讃岐方の家来を主として、限られた人数だけが、脱出するのだ。

 あとは、運を天にまかせて残る。

(しかし、うまいこと洪水が起こってくれたわい)

 存保はこの洪水が起こることを予測していた。勝瑞のある三角州は毎年雨季になると洪水に見舞われ、そのための治水は存保の統治者としての仕事の一環でもあった。

 ゆえに、雨の具合で洪水が起こるか否かがいくらか予測できていたのだった。

 洪水が起こったということは、今年の治水事業は失敗に終わったということだが、その失敗に救われようとは、人生なにが起こるかわからないものだ。

(讃岐は川がないからのう)

 讃岐暮らしの長い自分に治水のカンが備わっているわけがないではないか、と心の中でひそかに言い訳をする。

 太陽が城郭を照らす。城に残る者たちも太陽に照らされて輝いているようだった。希望がある。お燕の中に、その希望を見出した彼らは、自分の命もいとわずに主や夫人を脱出させようとしていた。

「もし土佐方が追いかけてきても、わしらが防ぎまするゆえに、どうぞご安心を」

「我らのことは心配に及ばぬ。それよりも、よいか、生きよ、生きて必ずこの勝瑞を建て直すのだ。元親にうんと恩を売りつけてやれ」

 どっと、笑いが響いた。特に恩を売りつけるのところで響いた。皆小気味よく明るく笑って、まるで物見遊山にゆく者たちと、それを見送る者たちのようだった。

「左様左様、信親どのの侍女も助けてやったことじゃ。長宗我部も、わしら阿波衆に頭が上がるまいて」

 また、あっはははは、と笑いが起こった。

「わっははははは!」

 孝康もつられて馬鹿笑いをすると、後頭部に、ごん、とげんこつを喰らった。すわっ、と思って振り向けば。

「笑いすぎだ、はしたないぞ」

 拳をにぎった存保が呆れたようにつぶやく。孝康は後頭部をさすりながら慌てて頭を下げる。郷に帰れるという喜びが、大げさに出てしまったようで。

 それがおかしくて、さらに笑いが起こった。

「小雨殿」

 お燕だった。

 小雨に優しげな眼差しを向け、微笑んでいる。

「お達者で」

「お燕様も、お達者で。どうか健やかなややさまをお産みください」

「はい、心得ておりまするよ。小雨殿も、信親殿と、どうかいつまでも仲睦まじくいてくださいね」

 小雨はやや頬をあからめ。お燕は、まだあどけなさの残る少女の小雨の、そんな仕草が微笑ましかった。

「小雨」

 存保も妻に続き、小雨を呼んだ。

「恩を売りつける真似はせぬ。もし次に戦で会うことがあっても遠慮は無用じゃ。男同士、堂々と渡り合おうと、信親に伝えてくれ。頼むぞ」

 なんだか物騒な言い方だが、それが男であり戦国武士なりの友好のしるしというものだ。が、小雨にはそれがあまりわからず、

「はい、たしかに」

 とだけ無難に言うと、今度は孝康が、

「小雨殿、それがしのことも忘れんでくだされよ」

 と言う。

 すると、また後頭部に存保のげんこつがぶつけられた。

「おぬし、今度は小雨に色目を使うか。たいがいにせんか」

「い、いや、まさか、違いまするよ」

「違うとすれば、なんだ」

「はあ、まあ、その……」

 後頭部をさすりながら色々と言い訳をするが、存保は受け付けない。そこでまた、笑いが起こった。笑われながら、ぶたれたところをさする孝康を見て、小雨ははっとして、

(あっ)

 と思わず手を口に持ってゆき。次に両頬に両手をあてて、頬を赤らめて、何やら恥ずかしげにしているようだった。周囲は孝康に色目を使われ、それを恥ずかしがっていると思ったが。違う。

 洪水で一緒に流されているとき、思いっきりしがみつかれた上に、胸まで触られた。もちろん不可抗力によるものだが、乙女心がそれを認知できるわけもなく。自分の意志に関わらず、その時のことが思い出され、頬はさらに熱を帯びて、赤くなるのであった。

(こればかりは、信親様にも言えない。忘れていたかったのに、孝康殿なんて、大嫌い)

 あからんだ頬が、ぷっと膨れる。

 しかしその一方で、なぜか涙がにじむのを覚えた。

(皆様、よい人たちばかり……)

 敵方の人間である自分を助けてくれた。そして今ひびく明るい笑い。とても、憎めない。こうして接してみれば、争う理由など見つかりそうもなかった。


 数艘の小舟が水の世界となった勝瑞の地を流れてゆく。それは、風に吹かれて湖にでも落ちた木の葉たちのように、並んで、ゆったりと流れてゆく。

 一番前の小舟にいる存保とお燕は、瞳に変わり果てた勝瑞を映し出しながら。その瞳の奥に、勝瑞での思い出を映し出している。

 風流踊りでは、存保はお燕を抱き上げて舞った。まわりから囃し立てられながら、お燕の目がぐるぐる回るほど回った、踊った。

 無言だった。

 共に、思い出の中に意識を投じて、その中に身をおいて、小舟の流れるに任せている。

 孝康は、小舟の縁にもたれて、ゆりかごの中で眠る赤子のように寝息を立てている。今までの疲れがどっと来たようで、それを思って誰も起こさないでおいた。

 勝瑞城と、半焼の勝瑞館が、遠ざかってゆく。

 かつて三好氏の本拠地として栄えた勝瑞の象徴だった。でも今は、それを後にして讃岐へゆかねばならなくなってしまった。

 負けてしまったために。

 我知らず、存保の拳がにぎりしめられる。

(負けて、本貫の地である阿波から、すごすごと逃げるのか)

 三好一族の人間として無念さが募った。

 思えば、負け通しだ。

 存保の戦いは、元親のように領土拡大のための戦ではなく、それから領土を守るための戦いだった。

 攻めの、何か新しいものを得るための戦というものを、存保はしたことがなかった。

 武将として、男として、攻めの、挑戦の戦いというものをしてみたい。大声で「我は勝ちたり」と叫んでみたい。

 それが、存保の夢だった。

(所詮は、はかない夢か)

 今度は、小舟の縁をにぎりしめていた。その手に、そっとそえられるやわらかな手。

 お燕の手だった。こっちを向いて、じっと、目を見ている。

 無言の存保から、無念さを感じ取り、知らずに手をそえていた。

 存保はしばらくお燕と目を合わせていたが、やがて視線を水面に落とした。少し濁った水面に、己のしかめっ顔がうつった。

 目を閉じた。今の自分の顔なんか、見たくなかった。

 手は、重ねられて暖かさを感じた。

 そよ風が、頬をなでてゆく。

 小舟は北に進む。

 勝瑞の北に山がある。それらの山野を越えて、讃岐へゆく。そこでまた仕切りなおしだ。

 

 数日してようやく水は引き、それと同時に元親は勝瑞城に入った。

 城の者たちは無抵抗で、頭を下げて土佐方を迎え入れた。小雨も、無事信親にかえされた。

 信親は小雨が生きていたことに驚くとともに、小雨より聞いた存保の言葉に胸を打たれた。

 ともあれ、阿波は長宗我部氏の領土となった。

 城にいた阿波人たちは命を取られず、元親の命によって、いや存保の命によって、戻ってきた住民とともに勝瑞復興のために働いた。

 そのおかげで勝瑞の地は穏やかな日を迎えられ。それと同時に、阿波の戦国は終わりを告げた。

 三角州の川を渡る小舟や、川に網を落とす漁師たちの姿が戻り。

 こんにちの呼び名である藍住町という名のしめすとおり、勝瑞の地周辺に、藍の花が鮮やかに青い花を咲かせ。染料の製造もさかんにおこなわれた。

 三角州をはさむ北側の吉野川や南側の中富川は、そんな人々の営みを見守りながら、滔滔と流れてゆく。

 後の蜂須賀家による数度の治水工事を経ながらも、人々の営みの中で、今もなお四国三郎は海へと流れてゆく。

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