序章
この物語はフィクションです。史実と違う場面がありますので、ご注意下さい。
天正六年、盂蘭盆の夜のことであった。
四国三郎とあだ名されるほど四国で一番大きな川、吉野川が二つに分かれて阿波(徳島県)を横切り海へと流れ込む中にある三角州、その三角州の北側に勝瑞城があり、その少し南側に勝瑞館はあった。
この城と館のあるところを、勝瑞と言った。
川の多い土地である。筋を引くような小川が南北の川をつないでもいて、街の水路としても活用されていた。
四国ながら本土との交流もさかんで、城と館のある土地は開かれ、川の周辺はいたって賑やかであった。
小ぶりながら背の高い土塁に、深い濠に囲まれ、防御に適した造りの勝瑞城。また京風の立派なつくりで、その威風を勝瑞の地になびかせている勝瑞館。
城はいざというときの備えのため最近建てられたもので、まつりごとは勝瑞館にて執り行れていた。
勝瑞の地では、夜を昼にでもするかのようにかがり火がたくさん炊かれ。
三味線や太鼓、笛の音に鐘の音が勝瑞館の敷地内に響き渡って、その響きにあわせて人々はもろ手をあげて、軽やかに踊っていた。
時は戦国。
阿波・讃岐(香川県)二ヶ国の国主にして勝瑞城主および館主である十河存保は館の敷地内広場に設置された見物台から、妻のお燕、数名の家来と共に、その踊りを楽しげに眺めている。
当時畿内で流行していたという風流踊りなるものが、四国の阿波にも伝わり。それに興味を示した存保、
「是非観てみたい」
と、京の都よりその芸者を招き寄せ、勝瑞の地にて風流踊りを催したという。その踊りは、誰にでも観ることが出来。たくさんの人々がつめかけ、踊りを見物し、あるいはともに踊った。
江戸の昔より今も続く阿波踊りは、十河存保の催した風流踊りを起源とする説もある。
ともあれ、にぎやかな夜だった。
この夜、人々は日常の憂さを一時の間忘れ、踊りを楽しんでいた。
存保はお燕の注いだ酒を飲むのも忘れて、踊りに見入って。お燕はお燕で、酒を注いでからというもの身動きひとつもせずに、踊りに見入っている。
月夜を彩るにぎやかな音色、芸者の軽妙な踊り、全てが見事に組み合わさり、心をとらえて離さない。まるで、見るものの心まで、音と踊りとがっちりと軸がかみ合い、ひとつになったようだった。
いや、存保とお燕だけでなく、まるで今自分たちのいる三角州全体がそうなったように、にぎやかだったが、
「阿呆らしい」
隅で、そんな小声がちらっと聞こえた。武士たるものが、庶民の踊りを楽しむなんて。という高飛車さがありありと感じられて。
お燕はそれに頬を膨らまして、声のほうに振り向こうかというとき、
「やるか」
と存保が立ち上がった。
阿波の名族三好家に生まれ、讃岐の名族十河家を継いだ二十四歳の若き城主は、眉の太い精悍な顔をにこにこさせて、風流踊りの中に飛び込んでゆく。
さあ大変、殿様が飛び込んだということで、火に油が注がれたように、三味線や鐘、笛の音が一段と高くなり。見物のものたちも踊りの中に入ってゆく。
踊りの中に入るということは、館の中に入るということだ。
「これは」
と家来たちは止めようとした。当たり前だ。今のご時勢がご時勢だけに、どこに何が忍び込んでいるかわかったものではない。
しかし、存保は気にも留めない。それどころか、
「よい。無礼講よ」
と家来たちを止めるばかりか、
「お前たちも、一緒に来い」
とまで言うではないか。これには家来一同、ぽかんと、あんぐりと口を開けて一瞬呆けてしまった。
「踊るは阿呆。ならば、観るも阿呆。同じ阿呆なら、踊らねば損じゃ」
かっはっは、と大笑し、踊る存保。すると、
「わたくしも」
と、なんと奥方であるお燕が踊りの中に飛び込んでゆくではないか。しかも、履き物を履くのも面倒くさがり、裸足で。
付き添いの侍女も止める間もなかったほど、すばやい動きだった。
白くて細い足が土で汚れるのも構わず、お燕は存保とともに踊ろうとした、が、しかし。
「いたい」
とつぶやき、お燕は座り込んだ。石を踏んでしまった。
「ばかめ、言わぬことではない」
存保、恥ずかしがるお燕をかまわず抱き上げる。
それを囃し立てる声、声、声。
存保もまんざらでもなさそうに、母親が子供をあやすように、抱き上げたお燕を揺らした。
お燕、顔が真っ赤だった。
人々は、踊りに熱狂していた。
その夜の勝瑞館は、熱気と陽気につつまれ。今のこの戦国乱世、修羅の時代からはみ出したようだった。