おでこの思い出(カールライヒ視点)
カールライヒ伯爵に馬車で送ってもらい、やっと我が家に帰ることができた。
旦那様はお怒りでないかしら。
(おかしい…)
屋敷を出たのは、つい昨日のことだと思うのだが、なんだか随分と屋敷が様変わりしている。
庭の手入れが行き届いていない。というか、たった一日でこんなにも草木が伸びるだろうか。
見れば、厩舎に旦那様の愛馬ではない別の馬がいる。
家の装飾も、ところどころ取ってつけたような違和感を感じる。
何もかもが微妙に違う。
ヴァンルード侯爵邸の門を叩いた。
見たこともない男性が出てくる。その人は執事の格好をしている。
「あなたは誰?旦那様は?」
と聞くと
「…はあ?」
と言われてしまった。
なぜか、カールライヒ伯爵が割って入る。
「失礼。私はカールライヒと申す。約束はしていないのだが、ヴァンルード侯爵はいらっしゃるか?」
約束、妻が帰るのに約束も何もない。
見たこともないその男は怪訝そうな顔をして、取り敢えず応接間へと案内されて驚く。
屋敷の至る所が、違う。
確かにここはヴァンルード侯爵邸なのに、私が知らない所がいくつもある。
おまけに、使用人が全然いない。
みんなお休みでも貰っているのだろうか。
それよりも、慌てて飛び出したのは私だけれど、なぜマイロは一緒に帰ってこなかったのだろうか。
暫くして、ヘイリーハイト様が出迎えてくださったので、飛びついた。
「ああ!旦那様!おかしいんですよ、私までここで待てと………え…?」
すごくやつれて、口がモゴモゴしている。
なんだか十歳も歳をとってしまったみたいだ。
「あ、あの……」
「…リリア、いや、"カールライヒ伯爵夫人"ここはあなたの来る所ではない、帰りなさい」
開いた口の…歯が、いくつか無くなっている。
「ほ、本当にどうしてしまったの、みんな、おかしいわ……旦那様、どうしてしまったの?カールライヒ伯爵夫人?誰のことを言っているの?」
リリアの目から涙がいくつも溢れて落ちた。
私はそれを見守る事しかできない。
ヴァンルード侯爵はゆっくりとリリアに近づく。
「もう、終わりにしよう」
リリアの頬を、すっかり枯れ枝になった手で包んだ。
「…ああ、傷つくなあ」
と言って、リリアのおでこに口付けを落とした。
その瞬間、リリアは発狂した。
テーブルに何度もおでこを打ちつけて、泣きながら血を流している。
それでも打ちつけるのをやめない。
それで私はやっと、リリアに触れることができた。
「リリア、私だよ、分かるか?」
「ああっ…うっ…旦那さ…旦那様ぁあああ!!!」
「そうだ、君の夫だ。思い出したか?」
「うぅーーーっ…はい…うっ」
「辛いな、死にたくなるような思い出ばかりが一気に蘇って」
「このまま強く抱きしめていて下さい…私、窓から飛び降りてしまいそう…」
はあはあと肩で息をしていたが、やっと落ち着いたリリアは、記憶の洪水に耐えられなかったのか気を失ってしまったらしい。
彼女を抱き抱えて、ヴァンルード侯爵に向き直る。
「"妻"が世話になった。すぐに遣いをやったが、間に合って良かった。迅速な対応に感謝する」
「随分慌てた様子で『奥様が来たらおでこに口付けして欲しい』なんて、酷なことを言うと思った。何があったのか聞いても?」
「頭をぶつけたらしい」
「それで記憶が?」
私は頷く。
「あの嫌がりよう、僕はリリア…いや、カールライヒ伯爵夫人に消えない心の傷を残してしまったんだな」
私はこれには答えなかった。
「使用人が二、三人か?慎ましいな」
「これでも私には過分な贅沢だ」
「…もう二度と会うことはないだろう。急に押しかけて済まなかった」
「ええ、これが私にできる、最後の贖罪です」
彼は、それでも私たちを見送ってくれた。
「おやすみ、いつかのリリア」
風に乗ってぽそりとそんな言葉が聞こえた気がした。