帰宅の途(前半、ヴァンルード侯爵視点、後半、リリア視点)
足元が覚束ない。
なぜ私は衛兵に小脇を支えられているのか。
それよりも僕はやる事があるのだというのに。
少しでも動きに逆らおうものなら、ぐっと強い力で引っ張られる。
乱暴だ。
力には力で対抗せねばなるまい。
決めた。僕は最期の力を振り絞る。
この為に人生の全てを捧げるのだ。
ダラっと全身を脱力させた。
気を失うフリである。
あれだけ盛大に踏みつけられたのだ、気を失ったっておかしくはないだろう。
私の脇を支えていた衛兵が二人、仕方なさそうに下から支えた。
その隙をついて、一気に起き上がる。自分でも予想を遥かに上回る程に全身のバネが効いた。
支えていた二人は、突然支えるものを失い尻餅をついた。
全速力で走り、湖のほとりに辿り着く。
なんの躊躇いもなく飛び込んだ。
アイリル嬢を見つけた暁には、元夫を殺すと決めていたのだ。
それは即ち、僕自身を殺すということ。
ぶくぶくと漏れていく呼吸が、煌めく水面へと上昇していく。
なんと美しい。
ああ、神様、どうか僕を天に召してください。
だが、僕は急に水面に体が引き戻された。
「あほか、お前。良い加減にしろ」
こいつは何度僕の襟を掴めば気が済むのだろう。
「カール…ライヒ…げぇっほげほげほ!!!」
「大人しく捕まれ、クソ野郎」
「僕は!僕を殺すのだ!!!!離せ!離せぇ!!!」
カールライヒは思い切り蔑みの目を向ける。
「いや、こんなので死ねるわけがないと思うが」
思いっきり浅い!
僕の腰よりも全然低いではないか。
「この湖は浅瀬なのだな…」
飛び込んでみないと分からない事実もある。
がっくりと肩を落とした。
「それよりも妻に言う事があるだろう」
僕はカールライヒに引きずられる様にして岸辺に上がり、口を一文字に結んだリリアの前で、膝を突いて頭を垂れた。
「リリア・カールライヒ殿…今まで申し訳なかった…本当に、すまなかった」
ぽたぽたと落ちる鮮血を見て、歯が何本かなくなっていると気付いた。
僕は今、思いきり情けないのだろう。
僕はこの後、少しの領地を国に返還した。屋敷もすっかり人がいなくなったので、三人だけ人を雇うことにした。
それから僕は42歳で死ぬまで領民の為に身を粉にして働いた。何よりも、この地の民のためにと。それが僕の使命であると今更ながら気づけたのだ。
少しは侯爵らしいと思ってもらえるだろうか、父様、母様。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「怒って、ますよね…?旦那様」
揺れる馬車の中、ムスッとした顔は玻璃の窓から差し込む夕陽のせいで、より陰影をハッキリさせた。
「当たり前だ」
旦那様は、すっかり濡れてしまって泥だらけ。風邪を引いてしまうのではないかとハラハラする。
「その…勝手をしてすみません」
「私はまだ頼りない男なのだと痛感する。まだ君に頼ってもらえない自分に嫌気がさす」
「え?お怒りの矛先が明後日ですわ」
「そんなもの明後日でも来年でも良い。私が君に対して怒るとでも?それは心外だ」
「ですが…。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。助けて頂いてありがとうございます」
「謝罪は…いらない。君が無事ならそれで良い」
旦那様をじっと見つめる。
「復讐など愚かしいことを考えておりました。その、カールライヒ家に嫁いでから…」
「…私はな、君の気持ちも分かるのだ。蔑まれた相手に一矢報いたい気持ち。それに、知っていたぞ。君が懸命に机に向いて何かを執筆していることは報告を受けているからな。あ、何を書いているかは盗み見るなとキツく言ってあったから、内容は本が出てから知った。誤解はしないで欲しい、マイロやソバタや…我が屋敷の誰もが後ろめたいことはしていない、それは誓う」
「そんな、分かっておりますとも」
旦那様はなぜか照れた様に髪をかき上げた。
「…伸びましたね」
「ん?切ったほうが良いか?」
「旦那様が好きな様になされば良いと思います」
「私は元より自分の外見にあまり頓着しない」
「人のことばかり!たまにはご自分のことも気にされては?」
「リリアがそう言うのなら、気にする。それよりも、人のことばかりと言うが、私が気にするのはリリアのことだけだ」
「私のことよりもご自分のことをお考えください」
「そういうリリアこそ、遠慮ばかりだ。なんでも素直に受け取りたまえ」
ガラッと馬車の扉が開く。
「喧嘩はそのくらいで…早く湯浴みをしないと風邪を引きますので…」
御者が遠慮がちに言ったので、私たちはお互い見つめ合うと、笑い合った。
気がつけば、カールライヒ邸の前だ。何年振りかと思うほど、久しぶりに感じる、我が家だ。




