ネガティブ伯爵に幸あれ
「これはお前にとって、良い話ではないかもしれない」
お父様にそう言われ、私は目を瞬かせた。
彼の名前を聞き、私は納得した。
彼こと、フェルド・ウェンリントン様は私生児で、生まれてすぐ、伯爵の父親と本妻に引き取られた。その後、伯爵と本妻との間に息子が生まれ、彼の扱いは苛烈さを増した。
彼は虐待に近い教育を受けながら、幼い頃から働かされた。義家族、使用人。彼を助けてくれる人はいなかった。
自然と彼が死ぬのを待っていたからだ。あくまで事故か、自然死か。誰に対しても言い訳ができるように。
しかし彼はなんとか生き延び、義家族の方が旅行先で事故死してしまった。
そして彼は父親のすべてを相続し、領主となり、家柄、財力を手にした。そこから彼は、使用人をすべて解雇。領主の仕事はしているが徹底して人を遠ざけているそうだ。
社交にも顔を見せず、社交界や領土では彼の悪評が囁かれている。
馬車の事故は彼が仕組んでいた。人嫌いで陰湿。他人が近づいてこようものなら危害を加える。精神が不安定で、すぐ激昂する。人への恨みから、人を攫っては幼い時の自分のように傷めつけ、殺めているとか。
「けれど、私は彼が噂のような人物とは信じられないんだ」
「お知り合いだったんですか?」
「我が家が酷く困窮した時にね。彼の父の所に金の無心に行ったんだ。彼の父の性格を知っていたから、私はとても億劫で。彼の家の敷地で、胃痛で蹲ってしまったんだ。そしたら、幼い彼が声をかけてくれた。声も足も震えて、私にも怯えながら。その優しさが嬉しくて。彼の優しさに報いたいと、彼の父の所へ行くことが出来たんだ。勿論、罵詈雑言のような嫌味とともに、素気なく断られて、二度と領土に来るなと言われたけどね」
「そんなことが」
「それでこないだ偶然にも、彼に再会したんだ。城へ年に1度の報告をしに行った時に。ぼんやりとだが、彼も私を覚えてくれていたようだ。彼はいま良い暮らしができる環境だと思うのだが………。顔も雰囲気も暗く、人を拒絶するオーラがあった。それに………。瞳が酷く落ち込んでいて、まるで………。まるで今にも死んでしまいそうな顔だった。噂のように、怒りやすい印象は受けなかったな。怒る元気すら彼は持ち合わせてない。全てが嫌で、どうなっても構わない。そんな風に見えて、思わず私は引き止めたくなったんだ。それで、つい、レイシェル………。お前の名前を口実に使ってしまった」
「と、言いますと?」
「彼の話を聞かないふりをして、ぜひ娘と見合いをして欲しいと彼に言ったんだ。日付もその時伝えた。彼が断る為に口を開きそうだったから、すぐ足早に去ってきた」
「まぁ………。それでウェンリントン様の顔を見に行こうってことですね。会ってもらえたらいいですけれど」
無理にこじつけた約束。彼の都合も聞かず。けれどお父様は、彼を訪ねる口実が欲しかったのだろう。心配が現実にならないように。
「お話を聞いて、とりあえずウェンリントン様の様子を私も1度、見に行ったほうが良いように思いました。お供いたします」
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「本当に来られたのですね」
ウェンリントン様はどんよりとした空気を携え、迷惑そうな表情をしていた。
彼は身長が高く、手足が長い。とても痩せているから、余計にそう見えるのかもしれない。やつれて、こけた頬。青白い顔。血色のない唇。目の下にくっきりとしたクマ。一応1つに括られているが、パサついた黒い長髪ウェーブ。不健康そうな容姿が、彼の陰鬱した雰囲気に拍車をかけているのは明らかだった。
お父様と私は大きな声で苦笑いし、彼の表情に気づかない振りをする。
「はっはっはっ、もちろん決まってるじゃないですか」
「ふふふっ、すみません、どうしてもお会いしたくて」
なるべく、空気を読まず。明るく。道化のように振る舞う。
ウェンリントン様と会話を交わす内、お父様の言いたいことが分かった気がした。健康面だけの問題ではない。彼の何に対しても執着がない様子は、危うさを感じた。
けれど、常に些細なことに気を配り、私達への対応はとても丁寧で細やかだった。
他人に酷く気を使わなければ、生きられない環境に置かれていたことによる、癖のようなものなのかもしれないが………。
話し方、仕草。全てが洗練されていて、会話の内容も受け身であるが、ウェンリントン様の聡明さを十分感じられた。
身につけるしかなかったのだろうが、ウェンリントン様が努力したから手にしているものだ。
私もお父様のように彼に報われて、幸せに暮らして欲しいという気持ちが、むくむくと出てきた。
それにウェンリントン様は些細なきっかけがありさえすれば、今よりは楽に過ごせるようになるのではないか。そんな気がした。誰か1人でも、手を差し伸べている人がいることを知ることが出来さえすれば。
「………、あの、良いお時間ですし。そろそろ、お開きにしませんか? 今日はお越し下さりありがとうございました。帰りの道中もお気をつけ」
ウェンリントン様の帰宅を促す言葉に、私は慌てて待ったをかける。
「おっ、お待ちください。私はこのお見合いを進めたいと思っています! いかがですか?」
「レイシェル!?」
お父様の顔が一気にこちらに向けられたが、気にしてる余裕はない。
彼の顔はグッと顰められた。
「申し訳ありません。私にはその気はありませんので。それに、アンドレア伯爵の許可はその様子だと取られていないようですが?」
「えぇ。私がウェンリントン様にお会いして、一層、ウェンリントン様が気になって仕方なくなってしまったのです。受け入れては頂けないでしょうか」
「私なんてよした方がいい。私に貴女はもったいなさすぎる。それに、私は結婚する気はありません。アンドレア嬢はいま18でしょう? 沢山の方から声がかかる年のはずです。私に時間を割いても、先はありません。嫁ぎ遅れて、どこにも貰い手がなくなるのは、アンドレア家としてもまずいのでは?」
この国では、18歳になる年に女性はデビュタントを迎える。23歳までに結婚する人が多いが、特に18歳は、パーティなどに出れば、声がかかりやすい。けれど、私の容姿は凡庸だ。よく言えば、落ち着いたブラウンの髪と瞳。髪の毛先にクセがあり、少し巻き髪気味。以外、特になんの特徴もない。
18歳は確かに声がかかりやすい年だが、この1年は人気の令嬢にみな集中するのだ。なので私は、別にこの年が特別で大事なものとは捉えていない。
「でしたら、1年。1年だけ私にくださりませんか?」
ウェンリントン様は今年で22歳になった筈だ。家族が死んでから、3年。その間ずっと、この様子だったとしたら。今ここで引き下がったら、もう2度と彼と会えない気がした。だから、私は譲らなかった。
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「本当に押しかけ………、来られるとは思ってませんでした。本当に一緒に暮らすのですか? 私はどう貴女に接したら良いか分かりません。きっと、不快にさせてしまいます。だから、出来ればその………」
「それも一緒に過ごしてみないと、分からないことですね。私がフェルド様を、不快にさせてしまう可能性だってありますもの。お互いを知るために、まずは出来る限り毎日会って、お話したいです。それから、これも出来るだけで良いので、一緒に食事を摂りたいです。最後は単なる希望ですが、私がフェルド様に対して好意を口にするのを許して欲しいのです」
「それは………。すみません、まだ実感がなくて、どれくらいそれが自分に影響が出るか、想像ができないのです。良いのか嫌なのか、それすらも分かりません。もしかしたら、今後不快だから辞めてくれと言うかもしれない。それでも構わないのですか?」
「構いません! 良いも悪いも、好きや嫌いも、知っていくための1年ですから」
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「あっ、お疲れ様です。いま、お皿を並べ終わったところなのでちょうど良かった」
食堂で準備していると、扉が開く音が聞こえ、そちらへと振り向いた。
「準備されたんですか? 確かに私はいつも食事だけ作ってもらって、自分で準備してますが………。貴女は普段使用人にしてもらってるでしょう? 使用人の少ない我が家では、やはり慣れないのでは?」
「ふふっ、私の家、天災の影響で4、5年ほど困窮していた時期があったんです。母も天災の少し前に亡くなって。今は持ち直したんですけれど。その時に、使用人も雇う事ができなかったので、ある程度はこなせるようになりました」
「そう………ですか」
「えぇ。さぁ、頂きましょう。今日のメイン料理は牛肉ですよ。ソースは赤ワインと、隠し味にフルーツを入れてあるそうです。召し上がってみて下さい。なんのフルーツかお分かりになりますか? 料理番の方にお聞きしたんですが…」
なんてことない会話。けれど、フェルド様は人が良いのか、きちんと聞いてくれ、問いかければ返してくれた。
「食器下げますね」
「いや、私がやるよ。普段もやってるから」
「それじゃあ、2人で持っていきましょう。2人でワゴンに食器を乗せて、私が運んで、お皿をシンクにつけるのはお任せします。分担ですね!」
「ぶんたん………」
フェルド様が屋敷で雇っている人は、全て通い。料理人と掃除が専門のメイド。庭師は週に2、3回ほど来ているそうだ。料理番も夕飯を作り終えて、もう帰宅しており、屋敷には私達2人しかいない。
「食後の紅茶を入れましょうか。お菓子はお召し上がりになりますか?」
「クッキーくらいなら」
「じゃあ、私は紅茶を。クッキーの準備をお願いします」
お茶の支度が済むと、リビングに移動し、ソファに向かい合わせで座る。
「はい。紅茶です」
「ありがとう」
「クッキーの準備も、ありがとうございます」
彼が小さくクッキーを齧る。
「君は………、私が食べていると、こちらに注目していないか?」
「はっ、すみません! ついっ!!」
まじまじとフェルド様を見ていたことに気づき、それを本人に指摘され、恥ずかしさから、私は頬を抑えた。
「その、………どうして?」
「フェルド様は顔色が悪く、線も細くいらっしゃるので………。お食事を摂られる姿に安堵したのです。明日はより、元気なお姿のフェルド様が見られるのではないかと想像し、まじまじ見てしまいました。申し訳ありません」
「……元気な私の想像を?」
「えぇ。私は今にも倒れてしまいそうなフェルド様じゃなく、健康なお姿のフェルド様が見たいのです。好きな人が、体調が悪いのは嫌ですから」
「………そう。前はお腹が空いてても、私は自由に食べることが許されなかったから、それに慣れてしまって。今は好きに食べれるのに、食を蔑ろにしていたな………。けれど今日の食事はアンドレア嬢のお陰か、何時もより美味しいと思って、普段より食べれたよ。ありがとう」
フェルド様の表情が和らぎ、無に近いが、笑ったように感じられた。
私はその表情に、意識を一瞬全て持っていかれた。もっと長く。出来ればずっと。彼のその表情が続けばいいと思った。
それからの日々はと言うと。
最初の日のように、穏やかに過ごせたとは言い難い。
だいぶ、フェルド様と打ち解けてきたんじゃないかと思った頃、避けられるようになったり。
『やっぱり放っておいて欲しい』
『どうしてか、理由を教えていただくことはできますか?』
『言いたくない』
『そうですか。私はフェルド様の事好きなので、明日もお話して、一緒に食事を摂りたいので困りましたね』
これを乗り越えたあとは、彼の気持ちをぶつけられるようになったり。
『関わらないで。私なんて面白くない男だ』
『駄目なんだ、私は。私なんて、誰にも好かれない。愛される価値もない。だから、君に好きだと言ってもらえる資格なんてない』
『私はいつも誰かに疎まれて、迷惑をかける。嫌われ者だ。君の評判までま下げてしまうかもしれない』
『これ以上関わって、レイシェル嬢に嫌われたくない』
気持ちが安定し、彼が幸せを感じた後、この症状は現れるようだった。
おそらくだが、現在と過去の差を感じることが引き金となって、辛い過去の記憶が蘇ったのではないかと思う。
今の環境を失う恐怖心が芽生えたこと。長年否定され続けてきた、自身への価値観を払拭しきれていないこと。等も理由にあるのかもしれない。
「分かりましたよー。今日も愛してますからね」
理由を言えない最初の頃に比べ、彼自身の気持ちをぶつけられるようになったのだから、私はフェルド様との信頼関係が進展したと受け止めた。
彼はひどく落ち込み、塞ぎ込む。その時私は、ハイハイと彼の言葉を流し、「好き」だと「愛してる」と言った。私を遠ざける言葉なんて、聞こえてないように振る舞い、いつも通りを崩さなかった。私がマイペースを貫くものだから、彼の方がある程度気持に折り合いをつけたのか、慣れたのか、落ち込む回数は少なくなっていった。
フェルド様に足りないのは愛される経験だけ。家族に疎まれ、それに周りが従い、倣う。置かれた環境が悪すぎたのだ。彼の自信と自尊心を奪うほど。
だから、拒絶しても、愛してる人がいるということを今伝えてる最中だ。そういう人もいるのだと、知って貰う為に。
好きを受け取る方法を。愛を伝える方法を。少しでも彼に伝えることができれば。彼がこれから生きていく上で、今よりも気持ちが楽になるのではないか。なれば良いと思っている。
『家族でもないのに。どうしてレイシェル嬢は、そんなに優しくしてくれるの』
以前フェルド様に聞かれた。
「夫婦は血が繋がっていません。でもそこから家族になり、互いに助けあったり、支え合えたり、思いやれたりするんです。元々他人だけれど。だから、別に家族や血なんて関係なく、そういった能力を人は持ち合わせてると思うのです。家族や自分の子だと、殊更なのかもしれませんが。私の場合、好きな人なら特にです。好きですよ、フェルド様」
フェルド様は顔を赤くし、むず痒そうな顔をした。
私は少し嫌そうにも見えるその表情を見て、思わず笑ってしまった。
フェルド様には特に言ってないが、初めてフェルド様の顔を見た時、昔のお兄様とお父様の姿に重なった。お母様が亡くなり、天災で家が傾き。幼い私はお母様の代わりになれるよう、必死でお父様とお兄様を励ます言葉をかけ続けた。けれど、上手く行かなかった。
『頑張りましょう』『落ち込まないで』『悲しまないで』
この言葉が、どんどん苦しく、虚しくなって、2人に言うのを止めた。けれど、状況を変えたい気持ちは変わらなかった。2人の意識を悲しみから逸らすため、まずお母様の仕事だったものを割り振った。すると、みんな忙しくなり、お母様が居た時と同じ生活リズムが帰ってきた。そして私は、励ます言葉のかわりに、2人に対して『愛してる』と『好き』と言う機会が増えていた。するといつの間にか、お父様もお兄様もいつも通りを取り戻していった。
お母様が亡くなった時、私もとても悲しかった。お母様が亡くなって数日泣いて。疲れて、無気力になって。いつまでこうやって過ごすのかと、ふと思った。以前ならお母様が抱きしめて、頭を撫でてくれた。それで悲しみに終わりを告げられた。けれどそれはもう出来ない。
ただ、お母様が悲しむ私に手を差し伸べてくれたことはとても幸せで、嬉しい事柄であったと、気づくことができた。お母様はいなくなったが、とても愛してくれていたし、私も愛していた。それが理解できただけで十分だった。
そして、進もうと思えたのだ。お母様のように元気づけることは出来なかったが、お父様もお兄様も私も、今元気なので良しとする。
そしていま、お父様とお兄様の昔の面影に重なったフェルド様の隣りにいる。彼は落ち込み、拒絶する素振りはあっても、怒ったり、私を怒鳴ったりするようなことはない。だから、私はのびのび振る舞うことができている。彼が元気になってくれたら良いと思っていたが。最近は彼の隣で過ごすのが、楽しかったり、心地よかったり。私の方が、満喫しているように感じてしまう。
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体重こそ、徐々に増えていったように見え、だいぶ頬のコケも気にならなくなったフェルド様だが。目の下はまだクマで真っ黒だ。
「眠れてますか?」
「睡眠は………、いや、なかなか」
「お仕事が忙しくて、眠る暇がないのですか?」
「それも、あるかもしれないんだけれど。眠るとすぐ起きてしまうんだ」
「まぁ………。それでは体力が回復しにくいですね。私に手伝えることは何かないでしょうか?」
「いや、いいんだよ。確かに体調は万全ではないけれど、まだ動けるんだから」
「重要なのは、動けるかではありません。具合が良くないと言う事実です。体調が良くない体は嫌ではありませんか? フェルド様は自分の体に厳しすぎます。お医者様に診てもらったほうが、良いのではないでしょうか?」
「いや、医者は私にはもったいないから………」
「そんな訳無いです。体調が悪ければ、頼るのがお医者様です。勿体ないなんてことありません」
「けれど、眠れないだけで頼るのは………」
「眠れないことが、あなたに悪影響を与えているのならそれはもう、だけでは済まされないと思います。でも………、そうですね。回り道になるかもしれませんが………。いま思いつく限り、私達の出来る範囲で試してみましょうか。それでも駄目だったら、絶対お医者様を頼りましょう! ね? お願いです」
「おね………がい………か。命令ばかり受けていたから、お願いごとには慣れていないんだ………。特に君からだと断りにくいと言うか、断りたくないと思ってしまう」
「ありがとうございます! でも、断りたい時は断って下さいね。自分で決めて良いんです。ただ、私も断られたら、断り返すって選択をすることもありますから、覚えておいてください」
「それじゃあ私が、レイシェルに断りを入れる日は、とても遠そうだ」
フェルド様は普段よりも、勢いよく笑った。
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「紅茶に寝酒。枕や布団。香り。運動。食事。読書。一通りやってみましたが、マシになったかなレベルですね」
「そんなことないよ。私にしたらすごい変化だ。特にレイシェルと寝る前に話していたら、とても落ち着いて穏やかになれる」
「それならフェルド様が眠るのを、私が見届けるのはどうですか? 寝るまで、読み聞かせでもしてみましょう」
「いや、悪いよ。それに、子供でもないのに、恥ずかしい………」
「子どもに効果があるのなら、大人にもあると思うのです。お願いです。やるだけやってみましょう」
「………分かった」
フェルド様は渋々といった様子だったが、了承してくれた。
「初めてなんだ。寝るのを見届けてもらうの。読み聞かせも………初めてだ」
ベッドに入ったフェルド様が、不安そうな顔をする。
「どの本にしましょうか。あっ、この詩。まずは詩から試していきましょう」
私はベッドの脇に椅子を持ってきて、そこに腰掛けて本を開いた。
30分くらい経った頃だろうか。視線を上げると彼は
瞳を閉じ、規則正しい寝息が聞こえてきた。
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「おはようございます!」
「おは………、よう………」
「どうかされました?」
「眠れたんだ。数回目がさめたけれど、その後眠れた」
フェルド様からその報告聞いた私は、驚き喜んだ。
「良かった! どうですか体調は?」
「うん、良さそうだ」
「ふふっ! さぁ、じゃあ朝食をいただきましょう」
彼が前よりも眠れるようになり、その日の朝はとてもすがすがしく感じた。
❖❖❖❖❖
「今日は………、手を握ってくれないか。私が眠るまで」
読み聞かせをして、しばらく経ったある日。いつものように、彼がベッドに入り、定位置になった椅子に私が腰掛けた時に言われた。
「えっ?」
フェルド様からのお願いは、拒絶の言葉を除けば初めてだった。彼が私を信頼してくれたからだろうか。その変化が、その存在になれたことが嬉しかった。
「あの、駄目なら、嫌なら、良いんだ」
「構いませんよ。さっ、やってみましょう」
彼の左手をそっと、両手で包むように握る。
「この体制だと、本は捲りづらいから、今日はお話しをしましょうか。私が話すので、フェルド様は目をつむって、眠るのに集中して下さい。答えなくて大丈夫ですからね」
「あぁ」
「今日は月に雲がかかってなかったから、たぶん明日は晴れだと思うのです。明日の朝ごはんは何でしょうね。私はクリームが付いたブルーベリーパンケーキだと嬉しいなと思ってます。ベーコンエッグも嬉しいですね。それから、明日はティータイムがとれたら良いですね。ご存知ですか? 茶色じゃない、青や紫っぽい色のお茶もあるって。実家からそろそろ届くんですよ。だから、一緒に飲みましょうね」
少しすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。フェルド様は身長が高い。手も大きく、指も細長い。最近は良く召し上がるようになったと思ったが、彼は未だ痩身だ。これは彼の体質的なものなのかもしれない。細いけれど、私の手よりずっと大きいからだろうか。まるで私の手の方が包みこまれているようで、安心した気持ちになる。彼の低い体温を感じながら、彼の穏やかな寝顔をみて、込み上げてきたのは、愛おしさだった。
❖❖❖❖❖
「さっ、今日も手を握りましょう!」
普段通り手を差し伸べたつもりだった。
「あぁ………、どうかしたのか?」
フェルド様に、私の様子が可笑しいと伝わってしまった。
「………いえ、その。この手を握る体制になると、フェルド様の顔がしっかりと見えてですね。その、頭を撫でたくなってしまって。睡眠の妨げになるなら、止めますから、撫でてもいいですか?」
フェルド様が寝てしまったあと、艶も出てきた、柔らかそうなウェーブの髪に手を伸ばしたくなるのだ。起こしてしまうのではないかと思い、できなかったが。
「………子ども扱いをされているようで、とても恥ずかしいのだが………。昔、少し憧れていたんだ。どうぞ」
彼の許可が出たので、彼がベッドに寝転がったあと。片手は彼の手を握り、もう片方の手で頭や、おでこの辺りを撫で始めると、自然と彼の目は閉じていった。
「不思議だな。心地よくて、許されてるような気持ちになる。なんだか、嫌な記憶もレイシェルに撫でられてると、遠くに、些細に感じる」
「健やかに眠れますようにーって、念じながら撫でてますからね」
「ははっ、そうか。レイシェルが念じてくれてたからか。どうりで効果があるはずだ」
そう言うとフェルド様は、規則正しい寝息をたてた。
本来なら、そこで部屋に戻るのだが。力が抜けた穏やかな彼の顔をもう少し見ていたかった。そして、頭を撫でて、彼がここに居ることを、まだ少し感じていたかった。
目覚めると布団の中だった。昨夜いつ部屋に帰ったのだろうかと思いだそうとしたが、覚えていない。それに、思うように動けない。
視線を上げ、私はぎょっとした。私は自分の状況を確認し、気づいた。私はフェルド様に抱きしめられて、布団の中にいると。
どうしてこんなことにと、焦っていると、私が動いたことで彼も目が覚めたようだ。
「おはよう」
「お、おはようございます。す、すみません。私いつの間にか、寝ぼけてベットに入ってしまって」
「あ、違うんだ。目が覚めて、君がベットの脇で寝てしまっていたから私が寝かせたんだ」
「あっ! えっ!? そ、そうだったんですか!?」
「ごめんね。正式に嫁入り前の君には良くないかと思ったんだけど。レイシェルを抱き締めたら、とても良く眠れそうな気がして」
「そ、そうだったのですね………。いや、あの、確かに褒められたことではないかもしれませんが、その………。眠れましたか?」
「とても。いまも、離したくないんだ。まだ、抱きしめていたい」
彼は改めて、私を深く抱き込んだ。
「だっ、抱きまくらや縫いぐるみは、まだ試してなかったですね! それも、試してみま」「分からないけれど、私はレイシェルがいい。君を抱きしめて、君に隣に眠って欲しい」
「そ、それは! えっと!」
話し合って、正式に嫁入りするまでは抱きまくらで許してもらえた。
「抱きまくらがなければ、眠れなくなったらどうしよう」
「それで眠れるなら、安いものですよ」
「本当に私は、子どもみたいだ」
「子どもの時に、経験してなかったことを今してるだけです。その内、嫌になる時期や、平気になる時期が来るかもしれません」
「その内、レイシェルに手を握ってもらわなくても良い日が来るのかな?」
「もしかしたら」
「嫌だな。なんだか、離れていってしまいそうだ」
「それが成長っていうのかもしれませんね」
「………。レイシェルは私を子どものように扱う。それが心地よかったり、不満に思う時があったり。私の心は複雑だ。レイシェルは母親じゃない。私の妻になるのだろう? じゃあ、ずっとこのまま、手を繫いだままでもいい?」
「ふふっ、えぇ。いつか手を離すようになっても、そうじゃなくても。フェルド様の自由ですよ。だから、今日もおやすみなさい。愛してますよ」
まだ不服そうな顔をしながらも、フェルド様の瞳がゆっくりと閉じていった。
母親………。確かに、彼と接していると、お母様にしてもらったことを思い出す。最初の頃は特にそうだった。自分の記憶の中のお母様をまた、真似ていたのかもしれない。
フェルド様にはもっと安心と、幸せがあれば良い。そう思って接していた。最初から彼に対して、好感はあったが、恋ではなかった筈だ。ただ、彼の嬉しそうな、幸せそうな顔が見てみたかった。
だけなのだが………。
フェルド様の顔色も、体格も日に日に良くなっている。客観的に見て、今の彼は魅力的だ。きっと、いま社交界に出れば注目の的だ。
健康の次の幸せは、もっと彼が信頼できる人を増やすこと。それに尽きる気がする。
けれど彼を撫でたいと、思ったときから。既にきっと私は、フェルド様の魅力に惹かれていた。健気で、律儀で。なんだかんだと、私に付き合ってくれるほど、柔軟で寛大で。彼の隣りにいると安らぎを覚えていた。こんな優しい人なら、引く手数多だろう。もっと、自分に自信が持てればきっと更に変わる。彼の嫌な記憶が。彼を縛り付けるものがもう少しだけ、外れたら。その時は………。手を離した方がいいだろう。子は成長すれば、母親の手を離れるのだから。
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「えっ………、舞踏会?」
「えぇ、城で開催されるようです。ほら、王子がお生まれになったから、そのお祝いに」
「あぁ、そう………か………。それは………出席しないと………。気が重いけれど。レイシェルは? 一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
段々と領地に出る日が増えたり、使用人との交流が出来るようになったフェルド様だが。それも最近になってのことだ。まだ、知らない人がたくさんいる場所に行くのは気が重そうなまま、当日を迎えた。
「緊張しますね」
「レイシェルも? みんな慣れてるのかと思った」
「私はデビュタントの時以来なので、2回目です」
「そうか。ごめんね。私の隣りにいるとレイシェルまで、嫌なことを言われると思う」
「もしかしたら、違うかもしれませんよ。なにせ、今日は私が、フェルド様のクラバットを選びましたからね!」
「ありがとう。似合ってる?」
「とても」
「レイシェルにそう言ってもらえるのなら、着てよかったな」
垂れて少し眠そうな目だが、柔らかくウェーブしている髪と合っていて、彼の温和さを醸しだしている。おかげで、身長があっても威圧感は全くない。まだ少し痩身だが、スタイルが良いので、女性ウケするだろう。何を着ても似合うので、服はシンプルにした。十分着こなしている。何色でもフェルド様は似合っていたので、クラバットくらいは選ばしてもらった。
「それじゃあ、また後で」
彼は当主として、国王に挨拶へ行った。
他国からも、王族、要人たちが招かれている。人が多いため、今回国王への挨拶は基本当主のみだ。
「やぁ、良かった会えて」
「お父様。もう挨拶は終えられましたの?」
「あぁ、昨日にはタウンハウスに着いていたから、早く来れたんだ。それより、見間違えたよ彼。手紙には書いてあったけど、想像以上だ」
「えぇ。見た目だけではないと思います。常ににこやかではないですが、それも魅力的でしょう?」
「あぁ、特にお前に向ける顔は、一気に雰囲気が変わる。通常の顔と笑顔に差があって、あれはとても周りを惹きつけるだろうな。彼がモテすぎないか、心配かい?」
まるで、いたずらっ子のようにからかうお父様に、私は苦笑いした。
「どうしたんだ。安心しなさい。彼はお前の隣だから、あの安心しきって、幸せそうな顔になれるんだから」
「違うの。嬉しいといえばそうだけれど、フェルド様が元気になったら、それでいいの。最初から私達は、彼に少しでも報われて欲しい。それだけだったじゃない、お父様」
「けれど、お前は………。てっきり私は、彼のことを好いていると」
そこで、お父様の声は途切れた。私の顔と雰囲気で察したのかもしれない。
「傍から見ている私からすれば、お前たちは思い合っているし、とてもお似合いだ。だけど、これは2人のことだ。だから、私は2人の意見を尊重するよ。いいね、2人ともの意志が大切だよ?」
「えぇ、舞踏会が終わって落ち着いたら、ちゃんと話そうと思います」
その後、フェルド様は私のところへ舞踏会が終わるまで帰って来なかった。帰りの馬車に乗り込むと、彼は一気に席に深く座った。
「つ、疲れた」
「ふふっ、今までの社交を、一気に行ったようなものでしたね」
「レイシェルの兄上にも会えたよ。レイシェルに似ていた」
「えぇー、そうですか?」
「明るくて、パワフルだね。今日私を連れ回してくれた彼に少し似ていた」
「おそらく、次期辺境伯の方ですね。武芸に秀でた方と気が合うのは意外でした」
「私も。真逆な存在だと思っていた。けど、彼、遠慮なくドカドカ距離を詰めてくるものだから、こちらも余り気負わず応戦できた」
フェルド様の横顔は、今まで見たことのない嬉しそうな顔だった。
「ふふっ、とても親しくなられたようですね」
「そうなのだろうか………。今度遊びに来ると勝手に約束をしてきたから、適当にもてなそう」
適当と言いながら、フェルド様の顔には楽しみと書いてあるようだった。
「………何人かのご令嬢とも踊られてましたね」
「そうだな。断ることができなくて。名前を名乗ると引いてくれる子もいたんだが。それでもと言われて。一応習ってはいたが、舞踏会で踊るのは初めてだったから緊張した」
「とてもお上手でしたよ」
「ハハッ、ありがとう」
緊張から開放されたフェルド様の顔を見て、喜ばなければと思ってしまった。心からそう思えてないから。そんな自分の心が嫌で、膝の上の手をグッと握りしめた。
「楽しかったですね」
声は震えていなかったはずだ。けれど顔はぎこちなくなってしまったかもしれない。
「楽しかった? そう………、だね」
フェルド様がそれっきり黙ってしまったから。どこか考え込むような顔になり、窓の方を向いてしまった。私の不機嫌に似た気持を、悟られてしまったかもしれない。しまったと思ったが、私も疲れていて、それっきり黙ってしまった。
屋敷に着き、家に入ろうとすると、フェルド様が立ち止まった。
「どうかされましたか?」
「考えて………後悔していたんだ」
「後悔?」
「舞踏会が無事に終わってホッとしている。だけど、私が楽しかったと問われると違うんだ。私は誘いを断らず、流れてしまった。頼まれることが珍しくて。自分にできうることなら、応えなければと思って、動いてしまった」
「そういった経験をされたのですね。今日は特に緊張されたと思います。きっとそのせいですよ」
「自分のことで一杯で、帰りに気づいたんだ。レイシェル、誰かに言い寄られたりして困らなかった? 大丈夫だった?」
「えぇ、家族や友だちと話してましたから」
「誰とも踊ってない?」
「あ………えぇ」
「誘われたけど、断ったの?」
「数人に社交辞令で言われましたが、断ったら踊る気がないのが伝わったみたいです」
「そう………。ごめんね。自分勝手でしょう? 今になってレイシェルが誰かに口説かれて、踊っていたかもしれないと思うと………。今更その可能性に気づいて、怖くて………。余裕のない今日の自分に後悔している」
「大げさですよ。現に私は誰にも口説かれてないし、踊っていません。だから良いじゃありませんか」
フェルド様に、世界や人間関係を広げて欲しいと思いながら。私は結局、彼に忘れられ、踊れなかったことが心に蟠っていた。だから少し、投げやりな口調になってしまった。
「言わないで………。大げさだなんて。自分勝手だって思うけれど、今はどうして、君の側に居なかったのか。君と踊らなかったのか。考えが至らなかったのか。選択を間違えた自分が嫌になる!」
自分よりも気持ちが高ぶっているフェルド様を見て、私は冷静になった。私の心は曇っていた。自分の想像以上に彼と踊ることを楽しみにしていたのに、叶わなかったから。彼も後悔している。私と踊れなかったことを。それなら、どうするか。
「………なら踊りましょうか」
「えっ?」
「今踊りましょう。一緒に」
「いいの?」
「えぇ、私も踊りたかったのです。フェルド様と」
私と彼は庭で2人で踊った。お城ではないけれど、2人きりの夜の庭も十分特別に感じた。足元が平らではないため、踊りづらいが、広さは十分だ。
「レイシェルは回ってるときですら綺麗だね。ドレスと合わさって、キラキラ光って見える」
ドレスには真珠と、最近流行りの色とりどりのガラスビーズが散りばめられたいた。そのお陰だろう。
「フェルド様も素敵ですよ。ちゃんと、しっかり食事を摂ったおかげですね。まだ痩せてられますが、前よりもちゃんと手に厚みがあります」
「レイシェルが隣りにいてくれたお陰だよ。ありがとう、今日も我儘に付き合ってくれて」
踊りが止まったあと、彼は私の手を握ったまま、じっと私を見た。私もそらしはしなかった。
「好きだよ、愛してる」
私はなにも言わず、微笑んだ。
「前までは、私なんかに好かれるなんて、可哀想だと
思って言えなかった。だけど、もう言葉にしたい。レイシェルが言葉にしてくれたように。私も気持ちを伝えたくなった。………もうレイシェルは言ってくれない? 私に愛想が尽きたから?」
私の反応が薄いせいか、彼は不安を募らせていく。
「そうじゃ………ないんです。好きですよ」
「人として? 友人として? 家族? 子ども? ペット? 何として好きなの? 私はもう君を伴侶として見てる。君は? 僕を婚約者としてみてくれてる? 見てくれてた? 最初、お見合いだ、婚約者だって言ったのは口実だもんね?」
いつからフェルド様は気づいていたのか。彼の問いかけはほぼ断定だった。答えに詰まる。最初はただ、心配が勝ったおせっかいだった。けれどもう、その気持ちで収まらないのは自分がよく分かっている。しかし、それを口にするのは憚られた。やっとフェルド様の世界は広がった。きっともう受け止めてくれる人がいることを知ったはずだ。彼はこれからなのに………。
「それが答えなの?」
何も答えれない私に、彼が声を荒げた。
「駄目。だめだめだめ! 絶対に許さない。今更、好きだとか愛してるだとか言って、全部教えて、与えておいて。取らないで! 取り上げないで! やっと安心出来たんだ。それを奪うなんて許さない。ちゃんと最後まで責任取ってよ。ちゃんと、私を変えた責任取って。終わらせたいのなら、私の最後を見届けてからにして! 私に耐えられなくなったのなら、私を………。その手で私を終わらせてくれないと、私は君を諦めきれない」
手首が握られている。逃さないように。フェルド様の手が震えているのは、もっと力を入れたいのを堪えているからだろう。怒っても、気持ちが高ぶっても、こちらを気にかける優しさが捨てれないのが彼なのだ。
「フェルド様………。貴方の選択肢はこれからもっと、広がると思います。最初、貴方の話を聞いて会った時。私はただ、貴方を少しでも引き止めたかったんです。まだ、いなくならないで欲しい。貴方の幸せそうな顔が見てみたい。そう思いました。それから、貴方と過ごす内に、私は貴方と過ごす時間が好きになり、貴方は私にとって、とても大切な存在になりました。貴方に頼み事を言われた時。信頼を得た気がして、特別になれた気がして、とても嬉しかった。けれど、フェルド様に惹かれていく内、私は自分をずるいと思ったんです。これじゃあ、小鳥が初めてみたものを、親だと思うように。貴方の世界を、私で埋めてしまいそうになっていました。もう、貴方は知ったはずです。辛い過去が正しい訳でも、全てでもないことを」
「だから、君以外の人を選べって言ってるの? 嫌だよ。もしかしたら世界には、私を救ってくれる人がいたかもしれない。けど、レイシェル。君なんだよ。紛れもなく。どん底で、助けを呼ぶことすら考えになかった私を君が救ってくれた。私がここまで元気にならなかったら誰も、私なんかに構わなかった。きっと悪評のまま、死に絶えていた。君がいなければ、きっと何も信頼できなかった。頼ることなんて知らなかった! 君が、苦しくてたまらないと、嘆くばかりの私を許してくれたから。やっと、死にかけの自分を許せたんだ。周りを許せるようになったんだ。だから、お願い。自分で決めていいって、君が教えてくれたから。私は君の隣にいたい。君の正式な夫になりたい。まだ自信は足りないし、君に見合うとも思ってないけれど。レイシェルに愛してるって、ずっと伝えていきたい。そんな未来なら幸せだなって。生きたいって思えるんだ」
フェルド様の瞳から、涙がこぼれた。
「すごい。フェルド様が明日以上先の未来の話をしてる」
つい、今までではあり得ない言葉が聞け、思わず雰囲気を壊すように感動してしまった。
「茶化さないで」
「ごめんなさい。感慨深くって。それは………フェルド様といられたら、嬉しい………。だけど」
「駄目。可哀想と面倒を見てしまったのだから、諦めて。嬉しいなら良かった。このまま結婚しよ。すぐにでも」
「すごい。ちゃんと自我の主張をして、少し強引にもなって………。成長されてる」
「感慨にふけるのやめて。君はすぐ親目線で私を見る。そうじゃなくて、君の夫としてみて欲しい。ううん、もっと成長して私がちゃんと大人になるから。見逃さなずにちゃんと見てて」
「そうですね。きっと母親なら、ここで手を離すのが正解なのでしょうけれど………。私はあなたの母親では、ありませんものね。母性と親心には諦めてもらいます。ただし」
「ただし?」
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「えっ、せっかく2人で過ごしてそろそろ1年なのに。このまますぐ結婚しないのかい?」
実家に帰ってきた私は、父とお茶を飲みながら近況を報告していた。
「えぇ。これから1年間は、婚約を継続し、結婚式の準備期間にします。私の場合、お母様がいない分、私が進めないといけませんから」
「まぁ、そうか。細かなとこまでは、私は配慮できない部分が多いかもしれないが。色々物は揃えることが出来ると思うから、そのときは言いなさい」
「ありがとうございます。なのでしばらくはこちらで、準備したいと思います」
「いいの? 彼、離れて大丈夫?」
おそらくお父様は、また彼が出会ったときのように、不安定な状態にならないか、危惧しているのだろう。
「落ち込んでいらっしゃいましたが、納得してくださったと思います」
「気持ちも離れていくかもしれないよ? 会えなければすれ違いだって起こりやすいのは、誰にでも当てはまる」
「その時はその時です。この期間は、彼の世界を広げる期間でもあるのですから」
「まだお前の中で彼は雛鳥なんだね」
「とても愛してるんですが、否めませんね。もっと選択があることを知った上で、それでも手を取っていただけたなら、私も本当に腹をくくれそうなのです。だから、もう1年」
お父様はため息を吐いた。
「彼は苦労するなぁー。ただでさえ、愛が深いのに。お前は彼を試してさらに、深い愛を引きだそうとする」
どうしようもないというお父様の顔に、私は自分のたちの悪さ改めて自覚し、苦笑いした。
❖❖❖❖❖
「教えてくれたでしょう? 2人で分担すればいいって」
フェルド様も結婚式に向けて動いたことで、式の準備は半年ほどで済んだ。
「準備が終わったんだ。こっちで一緒に暮らそう」
そう言われ、私はまたすぐ彼の屋敷へ戻ることになった。
「君は本当に私を試すようなことばかり。だけど良いよ。思い知ってね。死物狂いでこの半年準備した。それは君を逃がしたくないからだよ。君は選択肢をくれるけど。私は逆。君が私と結婚して一緒に暮らす、その選択肢以外は全部潰したいんだ。どう? 安心した? 私が君を愛してるって伝わった? 君は私が他人のことを余り知らないから、信用出来ないのかもしれない。私が君を想う気持ちは愛じゃないって、疑ってるでしょう? だけど私は執着、独占欲、思い込み。どれも愛がなければ、持ち得ない感情だと思うんだ。君は私を救ってくれた。親切や信用、手を差し伸べてくれる人がいることも教えてくれた。君は愛を教え、私を愛してくれたけど。もう、足りないんだ。愛されるだけになりたくない。最初はとても嬉しかったけど、それだけじゃ嫌になった。私は君に愛してもらって、君のように君を愛したくなった。ねぇ、君の手を握らせて。今度は私に君の頭を撫でさせて?」
フェルド様が私に近づき、その腕の中に閉じ込められる。頭を撫でられながら、彼は私の頭部にキスを落とす。
「大好き、好き、とてもレイシェルのことが好きなんだ。愛してる。苦手な人付き合いも頑張るし、卑屈で、臆病なところも治すようにするから。だからお願いします。私と家族になって下さい」
返事はできなかった。したかったのだが、深い深いキスで口を塞がれてしまったから。
「フェルド様、早速臆病なところが出てますよ。ちゃんと聞いてください。私も………フェルド様が素敵になったのを前にして、怖気づいて、申し訳ありませんでした」
「レイシェル………」
「私の方こそ、あなたの家族にしてください」
フェルド様の瞳はまた、前に別れたときのように、今にも泣き顔に変わりそうだ。
それでも初めてお会いしたときよりも、ずっと良い。もうきっと彼に好きの受け取り方も、愛の伝え方も教える必要なんてない。けれど、初めて会った時と同じ。私は彼の隣にいたくて仕方ないのだ。
「愛してます、フェルド様」
そして、初めて会った時と同じ。彼に愛してると、言いたくて仕方ないのは私の方だ。彼ほど、この言葉が似合う人を、私は知らないのだから。
-完-