第一章 飛べない鳥たちは籠の中でさえずる ~疑惑~
五
次の日も更にその次の日も司は食事に手をつけなかった。水とお茶だけは摂取しているようだが、話しかけても返事をせず、すぐに部屋からりんを追い出してしまう。もちろんそのこと自体、りんは何とも思っていなかった。むしろこのままの距離感でいい、とさえ思っているくらいだ。
「今日はサンマが安かったんですよ。今年は豊漁らしくて」
「……へえ」
四日目の夕食を運んだとき、初めて司が返事をした。
「スーパーで順番をゆずってくれたおばさんがいて、嬉しかったです」
りんは司に朝食時には前日の、夕食時にはその日起きた嬉しい出来事を話すようにしていた。
「……そうなんだ」
反応は鈍いが、司はこちらの話に耳を傾けてくれているようだ。
「ハナさんが焼いてくれました。お隣からもらったゆずも添えてありますから」
「……へえ」
返事と同時に司が目を閉じる。そのまま眠ってしまったようだった。もしかしたら演技かもしれない、とりんが思う。
「失礼します」
りんはすぐに部屋を出た。たとえ会話にはなっていなくても、返事をもらえたことが単純に嬉しかった。リビングへ降りると、ハナがテーブルに二人分のサンマを並べていた。
「まだ何も話さないのかい、司は」
「初めて返事してくれた。一歩前進だよね」
「りんは本当にバカだね。自分から苦労しなくてもいいのに」
「苦労じゃないよ。ハナさんからもらったものを司さんに返したいだけだから。いわば、私のエゴなの」
「りんが犠牲になる必要はない、って言ったろ。司を呼んだのには理由があって、単なる私のエゴなんだから」
「でも、身内が皆助けてくれるとは限らないじゃない。私にとってハナさんは唯一の家族だもん。だから何かしたいの」
小さな頃から両親に見放されていたりんにとって、ハナの存在は生きる希望だった。
「その理屈だと、司も家族ってことになるけど」
「もちろん私は家族だと思いたいけど……ハナさんのことは認められても、私を家族だと思うのは無理じゃないかな」
ハナが難しい顔をしたまま、腕組みをする。
「そうかねえ」
「単純なことだよ。ただ司さんが元気になって役者に戻れたら、それでいいの」
「……まあいいか。食べよう、冷めちゃうから」
「うん」
二人の祈りもむなしく、その日も結局、司はおかゆを数口食べただけだった。
六
翌日、りんが帰宅すると庭に一台の車が停まっていた。レンタカーではなく、ナンバーは東京のものだった。嫌な予感がして、りんが息をのむ。
「ただいま」
案の定、玄関に履きつぶされたスニーカーがあった。サスペンスものの二時間ドラマが好きなりんは、その主に定年間際の刑事を思い描いた。
「おかえりなさい、奥サン」
奥さん……りんが思わず「違います」と呟きそうになり、両手を握りしめる。
「りん、この記者さんが疑ってるんだよ。アンタたちが偽装結婚なんじゃないかって」
ハナはちょうどお茶を出すところだったのだろう、お盆を持ったまま立っている。その瞬間、りんは記者が何故わざわざここを訪れたのかを悟った。不倫のことを聞きつけた記者というのは、きっとこの人だ。そして、確信を得るために自分の車でわざわざ北海道までやってきた。それはきっと、ネタ元に自信があるからなのだろう。
漠然とした気持ちで偽装結婚を決めたわけではなかったが、りんは自分の浅はかさを思い知らされた。司はずっとこんな世界の中で生きてきたのだ。だからこそ今のように思い詰め、自分を追いこんでしまったのだろう。
きちんと記者と向き合うため、りんはリビングのテーブルに着いた。
「どうしてそう思うんですか?」
「一ノ瀬サンには婚約者がいて、その相手は不倫をしている。そのスキャンダルに巻き込まれないよう、井ノ頭サンは考えた。奥サンと一ノ瀬サンを偽装結婚させて、ほとぼりが冷めたら俳優に戻るつもりでしょう? 専業主夫になるとは考えたものだ。見事な作戦です」
「違います」
「そう言うんですよ、最初は皆サン。こちら側も決定的な証拠がないと記事にはできませんから必死ですよ。わざわざ北海道まできてるんですから、お願いします、本当のことを言って下さい。偽装結婚だから入籍はしないつもりなんでしょう?」