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第一章 飛べない鳥たちは籠の中でさえずる ~願い~



  四


 翌日、りんが家へ帰ってくるとリビングに司が立っていた。


「はじめまして、枕崎りんです」

 あまりにも突然すぎたためなのか、りんの両手のひらが少しだけふるえる。


「鈴谷司です」


 司は明らかに目に生気がなく、顔色が青白い。最近見た写真の姿より体のラインが細くなっているようだ。もしかしたら、今回のことで痩せてしまったのかもしれない。挨拶をしていても、司はりんのほうを見ようとはしなかった。不謹慎だが、そのことに安心している自分に気がつく。


「何か用ですか?」

 りんが尋ねると、

「水を……」

 蚊の鳴くような声で、司が答えた。

「飲み水ですか?」

「はい」

「ミネラルウォーターの在庫は物置にあります。冷蔵庫の中にも何本か入れてありますので、すぐに必要ならどうぞ」

「はい」


 司はりんの前を横切り、冷蔵庫を開けた。一本のペットボトルを手に取るとゆらゆら歩いていく。


「夕ご飯は食べますか?」

 ゆれる背中に向かって、りんが問う。

「今日は食べてきたので」

「では、明日の朝、持っていきますね」


 司はそれには答えない。階段を上る足音が聞こえて、りんは本当に司が目の前にいるのだということを認識した。これからしばらく一緒にくらすことになるのだ。喜びなのか緊張なのか、たとえようもない感情がりんの中にこみ上げる。


 手のひらのふるえはいつの間にか止まっていた。感情の起伏が人より少ないことも、今のりんにとってはプラスの要素になる。


 とりあえず、初対面を乗り越えることができた。りんの内心の動揺を見破るだけの気力は、今の司にはないようだ。ハナの言うとおり、思っていたよりも事態は深刻なのかもしれない。司が上っていった階段はすでに薄暗くなっていて、りんは慌てて電気のスイッチを押した。


 更にその翌日。りんは司の部屋へ朝食を運んだ。三度のノックのあと、


「失礼します」


 部屋のふすまをゆっくりと開けた。この家のドアには一つの部屋以外鍵はつけられていない。中に入ると、司はまだ横になっていた。閉じられた瞼にぎゅっ、と力がこめられている。きっと眠っているのだろう。少し伸びている髪やひげが、整った顔立ちを強調しているように見えた。暑かったのか、おでこに汗をかいている。


 りんがテーブルにお盆を置くと、司のうなり声が聞こえた。その穏やかな寝顔からは想像もつかないほど苦しそうにうめいている。


 三秒ほど迷ったが、りんは窓に駆け寄り、青いカーテンを引いた。すぐに部屋の中が明るくなる。司がゆっくりと瞼を持ち上げた。


「ごめんなさい、起こしてしまって。ここに朝食を置いておきますので」

 忘れてしまったいつものトーンを思い出しながら、りんが言う。司はりんを見ていなかった。ぼんやりと窓の外に視線を向けたままだ。

「着替えますから、出ていって下さい」

 司が小さく呟く。

「はい、すみませんでした」


 早足でふすままで戻り、りんが頭を下げる。冷や汗が背中を伝うのがわかった。階段を降りていくと、心配そうな面持ちのハナがいた。


「どんな様子だった?」

「うなされてた」

「そうかい」

「まだ食べられる感じじゃないかも」

「それでも毎食持っていくんだよ」

「うん、わかってる」


 一時間後、りんには出勤の時間が迫っていた。しかしやると決めた以上、行かないわけにはいかない。また三度、司の部屋のドアをノックする。

「失礼します」

 静かにふすまを開けると、司は布団にもぐったままスマホの画面を動かしていた。

「食器を取りにきました」

 お盆の中身は何一つ減ってはいなかった。


「今日はゆっくり寝て下さい。寒かったら、押入の中に毛布がありますので」

 司からの返事はない。

「失礼します」

 先ほどよりもずっしりと感じられるお盆を持って、りんは司の部屋から出た。


「やっぱり食べてないか」

「うん。司さん、私のこと全然見てないよ。良かった」

「りん」

 ハナが心配そうに眉をひそめた。

「女としてというか、まず人間としても認識されてないっぽい。だから安心して」

「私が運んでもいいんだよ? なんも仕事の前に辛い思いしていかなくても」

「全然辛くなんかないよ。むしろ良かったと思ってるくらい。あ、そろそろ行くね」


「行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 司の前に行くと、嘘をついているという罪悪感からどうしても緊張してしまう。けれど、どんなに無視されていても、認識されていなくとも、辛いという気持ちは一ミリメートルもない。強がりではなくそれがりんの本心だった。


 りんは、これで二人に恩返しができる、という揺るがない思いを持っている。他にあるのは「司が一日でも早く元気になって欲しい」という願い、ただそれだけだった。

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