第四章 空を泳ぐ雲は橙色に染まる ~吸い殻~
「司さんは今、やっと落ち着いてくらせてるんです。お母さんのこともちゃんと向き合えるようになって……」
「だから何? 腹が立つのよ、アンタみたいな普通の女に司を取られるのが。言ったでしょ、司はこっち側なの。アンタとは住む世界が違うのよ。いい? 私が司を傷つけるんじゃない。別れなかったら、アンタが司を傷つけることになるのよ」
あさ美が、吸っていた二本目のタバコを草の上に落下させた。
「ついでに母親のことも話しちゃおうかな。母親代わりだったいろはさんの訃報が流れたら、どのみち司の名前も出るわよね。記事の見出しは『元俳優・一ノ瀬司、引退の真相は婚約者の不倫と二人の母親?』ってところ?」
あさ美の台詞がりんの耳に入る。りんは下げていた顔を上げ、背の高いあさ美を見やった。
「離婚すればいいんですか?」
自分の中で何かが壊れる音がした。三歩先にいるあさ美ににじり寄り、続ける。
「司さんが苦しむことは絶対にしないって、約束して下さい」
「なんでこっちが約束しなきゃいけないわけ?」
「森さんはどうして司さんの手を離したんですか?」
「は?」
「司さんは本当にあなたのことを愛していたんです。結婚したいと思うほど。夢にうなされるほど。それなのにどうして?」
「司が悪いのよ。私を一人にするから」
「私は司さんに見合う価値なんかないってわかってます。でも、あなたはちゃんと価値があるじゃないですか。それなのに傷つけた。これ以上司さんを傷つけたら、絶対に許しませんから」
じっとあさ美の視線を受け止めながら、りんが言う。
「だからなんで私が……」
りんは微動だにせず、ただあさ美を見つめ続けた。
「ア、アンタが悪いのよ。本当はここまでしたくなかったんだけど仕方ないわよね。こっちに戻るのが司にとって一番いいことなんだから」
「わかりました。明日、離婚届を出します。だから写真は消して下さい。お母さんのことも言わないで下さい。お願いします」
にじむ視界を遮るように目を閉じて、りんが頭を下げる。草のこげたにおいが鼻をついた。
「写真はバックアップしてクラウドにも保存されてるわ。もし別れなかったらすぐに炎上よ。言っておくけど、司に話したらその時点でオ・ワ・リ」
何度も吸い殻を踏みつけながら、あさ美が笑う。
「あさ美? またきたのか」
りんが慌てて頭を上げると、あさ美の後ろに司が立っていた。
「あら、ちょうど良かった。私はどうしても二人のことが許せないから、司との写真、週刊誌に売っちゃおうかと思って」
「いいよ、別に。出せよ」
「は?」
「俺はもう何を言われても平気だから」
「でも、その女はどうかしら? 私からお願いしたら、喜んで別れてくれるって」
「りんは俺のこと心配してくれてるだけ。あさ美が写真を売ったとしても、俺は別れないから」
「そう言っていられるのも今のうちよ。アンタたちは絶対に別れるの。司はこっち側の人間なんだから。これ以上傷つきたくなかったら、すぐに戻ってくるのね」
ひらひらと細い指を振りながら、あさ美が帰っていく。門の前に黄色いタクシーが止まっているのが見えた。司はあさ美が捨てていった吸い殻を拾っている。
「全く、なんで投げてくかな」
いつの間にか、北海道弁が司にも移ってしまったようだ。
「りん、気にしなくていいからな。俺はもう大丈夫だから。今さら写真が流れたところで、話題にもならないだろうし」
「はい」
司をこれ以上傷つけてはいけない。あさ美がなりのことを流す前に、離婚届を提出しに行かなければ。
りんは無表情のまま、家の玄関をくぐった。




