第三章 切られた翼で空を仰ぐ鳥 ~チョコレート~
「大丈夫だから」
滲む視界の中でりんはその両手を握った。とても温かく、たくましく、優しい、誰のものでもない、司の両手だ。
「大丈夫だ」
その言葉で徐々に自分の感情が落ち着いていくのがわかる。すがってはいけないと理解していながら、りんは司の中にある希望の光を見てしまった。
「……ありがとうございます」
この手を掴むのは今日が最初で最後だ。二度と司を頼ることは許されない。りんは自分に強く言い聞かせた。
「あの……」
「ん?」
「いえ、降りましょうか」
「もう大丈夫か?」
「はい、すみませんでした」
トランクから荷物を取ると、二人は一緒に玄関をくぐった。
「ただいま」
「おかえり。あれ、りんアンタ顔色悪いね。発作かい?」
出迎えたハナがりんを心配している。
「もう大丈夫」
「ご飯、食べられそうかい?」
「うん。先にシャワー浴びてきていいかな?」
りんがハナに尋ねた。
「いいよ。じゃあ、司、手伝ってくれる?」
「うん。りん、本当に大丈夫か?」
「はい、すみませんでした」
「謝らなくていいから」
卵や野菜が入ったエコバッグは二つとも司が運んでくれている。りんは手洗いとうがいを済ませ、着替えを取るために部屋へと戻った。
八
「りんの好きな食べ物って何?」
遅くなってしまった夕食を終えようとしたとき、司がりんに尋ねた。ハナはすでに部屋に戻っているため、リビングには二人きりだ。数日前から司はハナやりんと同じテーブルについて食事をするようになっていた。
「なんですか、突然」
「いや、知りたいから」
「マーボーナスです」
「じゃあ、中華でも食べに行く?」
「行きません」
「他には?」
「チョコレートとか……ハナさんの肉じゃがとかです」
「そっか。ちなみに俺はパスタとかステーキとか」
「甘いお菓子とかビール、とんこつラーメンですよね」
「あれ、話したことあったっけ?」
「あ、はい」
りんが慌てる。この話題が司の口から出たことは一度もなかった。
「ラーメンだったら行く?」
「行きません」
「じゃあパフェは? チョコレートパフェが美味しいところ知ってるんだけど」
チョコレートパフェは、ハナに手作りしてもらうほど好きなメニューである。りんは断る前に一秒ほどひるんでしまった。
「よし、決まりな」
テーブルに置かれていたスマホを手に取ると、司は電話を発信した。
「待って下さい。私、行きませんから」
「もしもしマスター? うん、俺です。来週の土曜日、なまらビッグパフェの予約したいんだけど」
「ちょっと鈴谷さん!」
司が食い下がるりんを片手で制する。
「うん、開店までには行けると思う。じゃあよろしく~」
得意げな顔をした司は、弾んだ声のまま電話を切った。
「土曜日、何か約束ある?」
「私にも都合くらいあります」
「誰かに会うとか?」
「いえ、その日は特に予定はないですけど……」
「もうマスターに予約しちゃったし。最近注文なかったみたいで喜んでた。めっちゃでかいパフェなんだよ。チョコレートたっぷりでさ、フルーツも大盛り」
「そんなに大きいんですか?」
「でかい。なまらでかい」
北海道弁で話す司が新鮮で、りんの警戒が思わずゆるんでしまう。
「そうですか」
「俺、H市に行くのすごい久しぶりでさ。マスターに会いたいんだよな……やっぱり行きたくない?」
「わかりました、じゃあ行きます」
「よっしゃあ。じゃあ土曜日、九時頃出かけよう。H市の駅の近くだから」
「はい」
今回が最後だ。二人きりで出かけることはもう二度とない。司は東京へ戻るのだし、万が一帰らなくてもこんなことは二度とない。
これ以上一緒にいたら、りんの本当の気持ちを知られてしまう。それだけは避けなければ。この想いの根源は純粋な家族愛であるべきだ。快方へ向かっている司に余計なプレッシャーを与えてはならない。りんを信じ始めている司を裏切ることだけは、絶対にしたくなかった。




