第三章 切られた翼で空を仰ぐ鳥 ~ドライブ~
「私、好きな人がいます。絶対に叶わない恋なので、一生誰にも言わないつもりです」
「嘘だ。だって、男の話なんか一度も……」
「鈴谷さんに言う必要ありますか?」
「どんなヤツ?」
「知的で大人で、でも優しくて、笑顔がかわいい人です」
「ひどいかもしれないけど、叶わないのなら俺にもチャンスはあるよな」
「ありません」
「なんで言いきれんの?」
「ないからです」
「わかった。じゃあ離婚届出すの、一ヶ月だけ待ってくれないか?」
離婚届を受け取ると、司は二階へと上がっていった。りんがそのまま洗面所に立ちつくす。
「一ヶ月の間にりんが俺を好きにならなかったら、役所に出していいから」
戻ってきた司が、署名した離婚届をりんの前に掲げた。仕方なく、りんがそれを手にする。
「私の心は動かないですから」
「それはまだわかんないじゃん」
「りん、どうしたんだい。ご飯できてるよ」
脱衣所のドアを開け、ハナが顔を出す。
「あら、二人で何やってんの?」
「な、なんでもない。今行くから」
ハナにそう返事をしてから、りんは一旦自分の部屋へ戻った。一体、司はどうしてしまったのだろう。もしかしたら、すごく疲れているのかもしれない。
たとえ天地がひっくり返ったとしても、司が自分を好きになることなど、絶対にない。絶対にないのだから。
七
「じゃあ、行ってきます」
日曜日の夕方、りんが買い出しへ向かおうとすると、
「俺も行っていいかな?」
司が二階から降りてきた。いつもは寝ている時間だったため、りんにとっては完全に想定外だった。せっかく外へ出ようとする司を止めるわけにもいかず、りんは仕方なく助手席のドアを開けた。
「ありがとう」
「いえ」
気が進まないドライブではあったが、りんが渋々エンジンを始動する。ハナは早見家へ遊びに行っていた。
「町までどのくらい?」
弾んだ声で話す司は、とても顔色がいい。
「二十分くらいです。調子はどうですか?」
「絶好調、とまではいかないけど、やっと体が動くようになったかな」
「そうですか」
りんが、良かった、という言葉を飲みこむ。
「あ、あれ、なんだ?」
最初の分かれ道でウインカーを出すと、驚いた様子で司が言った。まっすぐ前を見て、何かを指さしている。
「キツネですね」
キタキツネの親子がじゃれ合いながら道路を横切った。冬が近いからだろう、ふわふわの毛並みをなびかせていた。
「マジか! すげーじゃん」
「珍しくないですよ、ここでは。時期になればほぼ毎日見ますし」
「え、毎日?」
「はい」
「そっか。じゃあ、これからは毎日見られるんだな」
まただ、とりんが思う。未来の話をするようになっただけ、司は良くなっているはずだ。しかし、どうも役者への未練がないように感じられる。
「ラジオ、つけてもいいですか?」
「うん」
音があれば、あまり会話をしなくて済むだろう、とりんがチャンネルを合わせた。
「それではリクエスト曲です。ジュラルミンで『マーメイド』」
「あ、この曲。俺が出たドラマの挿入歌だったんだよな。好きなバンドだったから、結構嬉しかったんだ」
「そうですか」
りんはもちろん知っていた。土曜日の夜九時から放送されていた、青春恋愛ドラマ。ヒロインの担任の先生役で司が出演していた。元々ロックが好きだったりんが、このバンドを聴くようになったきっかけでもある。
「撮影のとき、すごい暑くてさ。体育の先生役で外でのシーンが多かったから、体調管理が大変だったっけ。こっちの夏はどのくらい気温上がるんだ?」
「三十度くらいまで上がりますよ。ここの山は涼しいから、そこまで暑くないですけど」
「こっちにも蝦夷梅雨ってあるんだってな。さっきスマホで調べた」
「本州で梅雨が終わる頃、ここも雨が降るんです」
「そうなのか、なるほど。来年は暑いのかな?」
「さあ、わかりません」
「だよな、その前に冬だし。雪がすごいって聞いたけど」
「鈴谷さんはその前に帰りますよね?」
「いや、帰らないけど。言ったじゃん、役者には戻らないって」
「でも……」
「お、もうすぐ町だな」
ラジオではすでに別の曲が流れていた。町に入る分かれ道で、りんがウインカーをつける。




