第三章 切られた翼で空を仰ぐ鳥 ~絵の具~
六
翌朝。りんはシャワーを浴びたあと、火傷の痕に薬を塗っていた。ここ数日、天気が落ち着いているせいかあまり痛みを感じない。みみず腫れのようになっているケロイドは相変わらずだが、いつかは良くなる日がくるのだろうか。
「あ、ごめん!」
そこへタオルを手にした司が入ってきた。慌てた様子で謝る司を、りんが平静を装いながら呼び止める。
「大丈夫です、もう部屋へ戻りますから。ドライヤー、このまま置いておきますね」
「いつも塗りにくそうにしてるな」
「え?」
「薬、塗ろうか?」
思いがけない司の提案に、りんが瞬きを繰り返した。お風呂場の前に備えつけてある洗濯機から、乾燥を終えた服と下着を取り出す。
「大丈夫です、自分でできますから。清い水には絵の具を落としてはいけないんです」
「それってどういう意味?」
「すみません、もう少し時間早めますね」
「俺が遅くすればいいんだよな、ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「だって……」
「本当に気にしないで下さい。どうせなんの価値もないですし」
「なんだよ、それ」
司がりんに歩み寄る。
「私に興味ないでしょう? だから、鈴谷さんは気にしなくていいんです」
「確かに。君はあくまでも俺のニセの結婚相手で、ただの同居人」
怒っている様子の司は、りんの手から薬を奪った。
「そうです、だからいいじゃないですか。返して下さい」
りんが司に向かって手を伸ばした。二人の間の空気に緊張が走る。
「ヤダ」
司は、薬ではなくりんの手を握った。
「手じゃなくて、薬です」
「俺、君のことばかり考えてる。多分、好きなんだと思う」
「……は?」
「今はもうただの同居人じゃない。好きな人だから」
目の前の光景があまりにも滑稽すぎて、りんが笑う。
「熱でもあるんですか? からかわないで下さい。そんなこと、絶対にないですから」
「なんで?」
「ないからです」
「でも、本当のことだし」
「演技ですか?」
「演技じゃない」
「私がここにいたのは偶然ですよ。特別に思えるのならそれは全部幻で、元気になったらすぐに目が覚めますから」
「俺のこと、バカにしてる?」
「してません。なんの取り柄もない、きれいでもない、性格も歪んでる私なんか、誰も好きになるわけないって言ってるんです」
「りん。好きな人の悪口言われたら、悲しくならないか?」
「なりますけど……」
「今、めっちゃ悲しい」
「は?」
「もう自分のこと悪く言うなよ」
りんは掴まれた手を振り払い、空いているほうの手で薬を奪い返した。
「傷痕、痛むのか?」
「いいえ、大丈夫です」
どう答えていいのかわからず、りんがその場から駆け出す。
「待って」
司の手が、りんの腕を掴んだ。
「ちゃんと聞いて欲しい」
「鈴谷さんは今、心が弱ってるんです。ただそれだけですから」
「いや、違うけど」
「どうしてそんなこと言うんですか? どうせすぐに出ていくのに」
「俺は出ていかない。役者はもうやめたんだ」
「何言ってるんですか」
「もう東京には戻らない。ここで一緒にくらさないか?」
「嫌です」
「俺が、ずっと辛く当たってたからだよな。嫌なところも全部見せたし」
「え?」
「だから好きになれないんだろ?」
「違います、そんなことは気にしてません。誰にだって裏表はありますし、弱い部分も持っていて当然ですから」
「じゃあ、どうして?」
りんが司の腕を振りほどき、急いで自分の部屋へと走る。万が一のために用意していたある書類を手に取り、りんは司の元へ戻った。
「これ」
「離婚届?」
「はい。私は全部記入してあります」
「なんでこんなもの……」
「偽装結婚ですよ、私たち。当然、離婚前提の結婚でしょう。入籍したときにもらっておきました」
りんが万が一のために用意していた作戦は、もう一つある。




