第三章 切られた翼で空を仰ぐ鳥 ~ゴール~
「足だけは早いですよ」
言いながら、りんは急いで視線を空へと逸らした。
「じゃあ、競争するか?」
「いいですよ。じゃあ、あの大きな樹がゴールで」
司がりんの横に並んだ。
「よーい、ドン!」
かけ声とともに二人が走り出す。小学生の頃、りんはリレーのランナーに選ばれたことがあった。両親に学年一位を強要されるようになるまでは、町内駅伝のクラス代表にも選ばれていた。学校へは毎日歩いていっていたし、ここへきてからも晴れた日はウォーキングを欠かさない。
全力で足と手を動かす。ゴールまでは十メートルほどだろうか。司はスタートダッシュに失敗したようだったが、あと三メートルというところで追いついてきた。りんが最後の力を振りしぼる。
「勝った!」
健闘むなしく、司はりんより先にゴールしてしまった。やはり基本的な運動能力の差だろうか、とりんが思う。
「負け、ました」
一つため息を吐き出してから、りんが空を見上げる。とてもいい気分だった。
「体力、戻さないと、ヤバイな、俺。あと、三メートルあったら、負けてた」
司は肩から息をしている。
「そうですね。ちゃんとご飯食べて下さいね」
「食べる。これからは、ちゃんと食べるから」
「良かった」
必死に言う司を見て、りんが笑った。
「帰りましょうか」
数歩進んだところで、りんは司が立ち止まっていることに気がついた。
「どうしました?」
「あ、いや、なんでもない。行こう」
りんから視線を外して、司が呟く。また距離の取り方を間違えてしまったかもしれない、とりんが悔やんだ。きちんと明確な線を引かなければ、いつの日か辛い思いをすることになる。司が元気になるためにはその痛みをも引き受けるべきなのだろうか。
「明日も晴れそうだな」
ミスをしたと落ち込んでいるりんに対し、司は何事もなかったかのように言葉を紡いだ。
「きれいだ」
「そうですね」
りんはただ司の前を歩くことしかできなかった。
「そうだ。りんに立ち合って欲しいんだけど」
司がパーカーのポケットからスマホを取り出す。指紋認証のあと、りんに画面を向けた。二人の距離が少しだけ近づく。
「ブログとかSNSとか、一ノ瀬司名義のものは全部消そうと思って。もう更新することもないし。あと検索履歴とかブックマークとかも」
「え?」
「このスマホ、りんが言ったように初期化しようと思う。ヒマになるとずっと見ちゃうんだよ。中毒気味なのかもな」
「そうだったんですか」
素早い操作で、司がSNSのログインページを開く。一つ目は写真投稿が主となっているものだった。二つ目は文字数が限定されているもの、三つ目は日記形式になっているもの。
「それぞれのメールアドレスとパスワード、スマホに記憶させてるんですか?」
「記憶させてないやつもあるけど、全部覚えてるから」
司は続けて、いくつかのブログやメールアドレス、ブックマークや検索履歴を消去した。いずれもマネージャーが管理しているものだとばかり思っていたのだが、どうやら違うようだ。
「一応役者だったから、記憶力はいいんだよな」
「だった?」
「もうやめたから過去形なんだけど。どうした?」
「いえ、なんでもないです」
「これで全部消せた。初期化して……よし、なんかすっきりした」
「そうですか」
りんは胸を覆いつくすような不安におそわれた。役者に戻るはずだった司が、もう未練はないような言い方をしている。今はまだ考えられない、ということなのだろうか。それとも……。
ここまで気を許してくれるのも、りんを信頼し始めているという証拠なのかもしれない。素直に嬉しい、と思う。しかし、司のような圧倒的才能を持つものがここで普通にくらすわけにはいかないだろう。何より、りんが一番それを認めたくない。
万が一のときの作戦はいくつも練ってある。もしかしたら、全ての切り札を出さなければならないかもしれない。りんは一人でこっそりとその覚悟を決めた。




