第三章 切られた翼で空を仰ぐ鳥 ~偽物~
「りんさんは俺のこと、一人の人間として見てくれるんだ」
司が小さく呟く。とても苦しそうに、心を絞り出すような口調だった。
「俳優の『一ノ瀬司』じゃなくて、一人の『鈴谷司』として」
「それが何? 司は役者でしょ。だいたい地味女との結婚が長続きするわけないから。すぐに飽きて捨てるのよ、今まで通りに一人で決めて。そもそもこんな田舎ぐらし、司には似合わない。もうすでに飽きちゃったんじゃない? 一度こっち側を味わったらそっち側へは戻れないわよ」
背が高いあさ美は、ヒールを履いているせいで更に上からりんを見下ろしている。
「アンタは人に説教できるほど偉いのかい?」
ハナがあさ美に向かってスマホを掲げた。
「確かにアンタは『あっち側』の人間だね。人を傷つけて、恥ずかしくないのかい?」
スマホの画面には、あさ美の不倫記事が載っている。
「いつ別れたんだい、司とは。まさかこの人と被ってないだろうね?」
「それは……」
「不倫相手もその奥さんも、離婚したらバツイチなんだよ。そんな不義理なことをしてる人がどうしてりんに説教できるんだい? 私はアンタより五十年長く生きてるけどね、義理人情だけは大切にしてきたよ」
あさ美がハナの剣幕に押され、閉口した。
「もうここにはこないでくれ」
司がそう告げる。
「地味女、何もかも人に言わせて、恥ずかしくないの? 何か言うことはないわけ?」
「私は司さんを尊敬しています。だから、早く元気になって欲しいです」
嘘ではない、全てりんの本当の気持ちだった。
「レンアイごっこは醜いわね。覚えてなさい、絶対アンタたちは幸せになんかなれないから。地味女、アンタの正体暴いてやるわ」
あさ美がそう吐き捨てて、きびすを返す。りんはその通りだ、と思った。確かに偽りの結婚では誰も幸せになんかなれるはずがない。司が少しだけ心を開いてくれたことで、りんは熱に浮かれていたのだ。現実を思い出させてくれたあさ美には感謝したほうがいいのかもしれない。
ただ、司の様子は一変してしまった。顔色は青ざめ、今にも倒れてしまいそうだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。あさ美とはちゃんと終わってるから」
言いながら、司が微笑む。それはとても自虐的で痛々しく、司の中では終わってなどいなかったのだ、と思わせるには充分だった。
「ハナさん、かばってくれてありがとう」
「全く、何も知らないとはいえ失礼な人だね。気にするんじゃないよ、二人とも」
「うん、ありがとう」
司は何も答えないが、それは当然のことだった。たとえあさ美のことを忘れられたとしても、偽装結婚は偽装結婚だ。あくまで司が東京へ戻るまでのショートフィルムに過ぎない。偽りの夫婦を演じている二人が結ばれるストーリーなど、一ミリメートルも望んではいけないことなのだから。
腕時計を見ると、すでに午前九時を過ぎている。りんは朝食をとり損ねてしまったが、どのみちもう一口も食べられそうにない。
ハナが庭から出ていき、りんと司は二人きりになった。
「あの……」
ぼんやりとしたままの司に声をかけるが、返事はない。りんと司はしばらく庭にたたずんでいた。掃除したはずの紅葉が、またしんしんと降り積もる。
「しんどいな、生きるのって」
司がぽつりと呟いた。りんはそれには答えず「家に入りましょう」とだけ、返した。静かに頷く司は無表情で、ここへきた頃と同様、心をシャットアウトしてしまったように見えた。




