第一章 飛べない鳥たちは籠の中でさえずる ~家族~
「いいえ、私たち、そろそろ入籍しようと思ってるんです。司さんの調子がいい日にでも」
「奥サン、そう嘘つかないで。あなたたちは血が繋がってないんだ、身内だからとかばう必要はないでしょう」
「そこまで調べたのかい? 嫌だねえ」
ハナが桐山の前に湯のみを置いた。
「こちらもクイブチ稼ぐのに必死ですからね」
「でも本当のことですから。私は司さんに憧れていて、もう決めたんです」
「ここでこのネタを投げるわけにはいかないんだ。ネタ元は絶対に明かさない。だから協力して下さい」
「桐山さんと言ったね。それなら二人が入籍するときにまたくるといいよ。なんだったら一緒に役場へ行くかい?」
ハナがそう告げると、余裕の表情だった桐山から笑みが消えた。
「今、牛乳豆腐持ってくるから、お土産にどうだい? そうだ、チーズもあったね。せっかくだから持っていきなよ。無駄足になっちゃったからね」
「どうやっても言う気はありませんか?」
「言うも何も、本当のことを話してるだけですから。彼は私の理想なんです」
りんは本当のことを述べた。もちろん、理想の人は「司が演じた翼」のことではあるのだが、嘘はついていない。
「バレたときに困るのは、奥サンたちですよ。今ならまだ間に合いますから。あなたたちの個人情報は明かさないと約束します」
食い下がる桐山をハナがなだめる。
「はい、これ牛乳豆腐とチーズだよ。私たちは、ただ司と家族になりたいだけなんだ。アンタにも家族はいるだろ? それと同じさ」
ほんの一瞬だが、りんには桐山がひるんだように見えた。
「わかりました、今日は帰ります。またきますよ、何度でも」
「何度きても私たちは同じことしか言わないからね。またお土産用意して待ってるよ」
そそくさと立ち上がると、桐山はバツが悪そうに玄関へ向かった。りんがそのあとを追う。
「入籍する予定はなかったんでしょう? いずれ別れるのに、奥サンの戸籍はどうなるんです?」
「私、バツイチなのでもう失敗できないんです。バツニはさすがに嫌ですし。そこは調べなかったんですか?」
「え?」
さすがの桐山も驚いているようだった。ハナのことは調べたようだが、りんのことはあまり詳しくないらしい。
「お気をつけて」
りんは記者も人間なのだ、と思えたことで、自然と笑顔を浮かべることができた。桐山はそれ以上何も言わず、玄関から出ていった。
「大丈夫かい、りん」
「うん、大丈夫。ハナさんが言ってた通り、入籍することにはなっちゃったけど……桐山さんはそこまで調べるよね? 私が届を出してくればいいのかな?」
「井ノ頭さんに連絡するよ。ちょっと待ってて」
自分のスマホを手に取り、ハナが井ノ頭に電話をする。
「そう、そうだよ。だから届を出さないと。申し訳ないと思うなら、りんに感謝しな」
かなり厳しい口調で、ハナが続けた。
「司にはまだ説明してない。今の時間は寝てるからね。アンタのほうから説明して、納得させてよ。最終的に決めるのは司なんだから」
もし司が嫌だと言っても、きっとこの流れを止めることはできないだろう。元気になってくれるのであれば、りんは自分の戸籍などどうでもいいと思っていた。
次の日、井ノ頭からすぐにはこちらへこられないという連絡があった。
「私から説明してみるよ。まあ、ほとんど事後承諾みたいなもんだね」
苦笑いしながら、朝食のお盆とともにハナが階段を上っていく。下へ戻るのを待つ間、りんはあまりにも冷静すぎる自分に驚いていた。いくらバツイチであっても、入籍となれば動揺するものではないか。
すでに何もかも諦めてしまっていたりんにとって、これくらいの出来事は何でもないことだった。ただ毎日、ほんの少しの幸せを噛みしめて生きていけたらいい、それ以外のことは全てオマケのようなものだ。
階段を降りてくるハナを、りんは待った。いつもりんを待っているハナの気持ちがわかったような気がした。
「わかったって。今日は調子が悪そうだ」
とんとんと響く階段の音が、家中に響いている。
「全部任せるって」
「わかった」
「りん、本当にいいのかい、入籍なんて。名字が変わるときの手続きだってたくさんあるだろ」
「え、うん。普通に大丈夫なんだよね、何故か」
「本当にアンタはもう……」
まだ何か言いたげなハナを残して、りんは職場へ向かった。昼休みに役場へ行き、婚姻届と必要書類を取ってきた。ここで入籍するにはお互いの戸籍謄本が必要であるため、手続きが完了するにはこれから二週間以上かかるだろう。
名字が変わるため、りんには新しい印鑑も必要になる。住民票を取り、運転免許証やマイナンバーカード、預金通帳やクレジットカード、パスポートや生命保険、スマホや通販サイトの名義変更……。
長いため息を吐き出しながら、晴れ渡った空を見上げる。久しく曇りばかりで灰色だった空が青く、りんの上に広がっていた。




