科学では殺せない
「百、…鬼……?」
バクバクと心臓が変な音を立てる。背中に冷たい汗が伝う。百鬼の眼が…圧が、あまりに冷たく冷酷なものだったからだ。そこに、あの優しい百鬼はいない。これじゃぁまるで、本当に地獄に来て出会ったばかりの_____________。
「百鬼…どうしちゃったの、?大丈…」
バンッ!
私の言葉を最後まで聞くこともなく、百鬼は私に平手打ちをした。衝撃的で私は眼を開いたまま百鬼を見て、固まってしまう。頬が必要以上にヒリヒリと痛むのを感じた。頬よりも、胸のあたりのヒリヒリの方が重傷だが。
「……囚人の分際で俺にタメ口とは…図に乗るな。今すぐにお前の首を斬り落としてやろう」
百鬼は背中に差さっている二刀の一つを取り出し、右手に構えて私の首筋に刃を添えた。
________本気だ。この眼は、本気で私を殺そうとしている______。
…駄目だ。どうしようもなく胸が痛む。心が痛い。辛い、悲しい、苦しい。私…百鬼にこんな目を向けられることに、もう耐えられなくなっている。
“……だから今度は…俺がお前を…必ず護る。人間界へ帰す”
“俺は……お前の太陽を、消したくない”
“……ずっと、こうしていたい”
あれほど優しい言葉を掛けてくれて…私を護ろうとしてくれた。一緒にいたいと言ってくれた……その百鬼から、もう今更こんなに冷たい言葉を掛けられるのも、冷たい眼を向けられるのも…私には耐えられない。抵抗する気持ちが、生まれてこない。首に刃を突き付けられて尚、百鬼が今には冗談だと言って笑ってくれるんじゃないか、抱き締めてくれるんじゃないか……まだ諦められない。
「ふん…刃を恐れないのか?いいだろう…お前にはより深い苦しみを味わってもらう。おい、4771番を血の池地獄に落とせ」
「はっ、百鬼様」
さくらって、呼んでくれるんじゃないかって。
百鬼は看守に命令すると、それを楽しんでいるかのような顔をして私が血の池地獄に連れて行かれるのを見ている。看守は容赦なく私を押して、血の池地獄の目の前まで連れてきた。いつかのあの日、この池に落とされた時の禍々しい記憶が蘇る…。どろどろとした血の中に、奥深く沈められる苦しみ。這い上がろうとしても何度も頭を沈められて、死にたくても死ねない苦しみ。熱から泡を吹いている水面が妙に生々しくて、私に今のこの悪夢のような現実を正面から突き付けている気がした。
「百鬼……!目を覚ましてっ…!私達は、一緒にいろんな敵と戦ってきたんだよっ…!」
看守に血の池地獄に落とされる直前、私は地面に足をぐっと踏みとどまらせて、前のめりに百鬼に叫んだ。そんな私の叫びにも、百鬼は眉一つ動かさない。
「ねぇ百鬼…!百鬼は私を護るって言ってくれた!人間界に帰すとも言ってくれた!忘れちゃったの!?百鬼!」
表情一つ変えない百鬼の眼が、私の眼を捉えた。
「______やれ」
百鬼の合図で、看守が私を力強く血の池へと押し込めた。
:
「んほほ……これでさくらサンは醒めない悪夢に陥りました。この悪夢は、“一番恐れるものの具現化”です。今さくらサンは夢の中でもがき苦しんでいる頃でしょうねぇ…。そう睨まなくても、今からあなたも送って差し上げますよ、百鬼クン」
「……あいつを解放しろ」
「んほほ、本当に変わってしまいましたねぇ百鬼クン。一つ良いことを教えてあげます、この悪夢の中で自分の命を諦めたら…魂は消滅します」
「!」
「今のあなたではもう手遅れかもしれませんねぇ…んほほ」
ぽたり、ぽたり。歳ノ成が百鬼の上から薬品をかけていくと、百鬼の瞼も時間をかけて閉じられていった。
:
後ろに倒れていく体____。段々と、百鬼の姿が見えなくなっていく_____。
ドボンッ……
あぁ……またこの感じ。暗くて苦しい血の池地獄。でも、この地獄よりも、百鬼が変わってしまったことの方が辛いなんて言ったら____おかしいと思われるだろうか。息が、できない…。這い上がる力ももうない……。いや、這い上がったところで、今私の目の前にいる百鬼は……もう私を殺そうと冷たい目を向ける百鬼しかいない。だったらいっそこのまま__________。
“例え何も変わっていなかったとしても、お前がその少年に救われたように…お前の心の太陽に救われた者がいることを忘れるな”
__________何で。
何で。もうあの百鬼はいないのに…あの時掛けられた言葉なんて今蘇ってくるんだろう________。忘れるななんて偉そうにさ……自分は今までの事なんて全て忘れたかのようにこんなことしてるくせに______。
“…………忘れろと言いつつ…忘れられなかったのは俺だ”
…………あぁ、でもあの時…百鬼は私とのことを忘れないでいてくれたなぁ。
“己の弱さ故に…牙を突き立てることしかできない。だがそんな俺のためにお前は勇敢に戦った”
とか言って、百鬼の方が体を張って私を護ってくれたなぁ。
_________私が、負けちゃだめだ。こんなところで私が負けてたら…それこそすべて終わりだから。
「っぶはっ…!!」
余力を使って血の池地獄の水面から顔を出す。這い上がってくると思っていなかったらしく看守はうわ、!と驚きの声を上げていた。
「な、何だこの女…!もう一度沈めてやる…!沈め囚人!」
「っ、お前も、な!」
「な!?」
いつかのあの時と同じ。頭上に迫ってきた手を両手で掴んで、池に引きずり込むと、男の身体が私の横に勢いよく落ちる。そして沈んだその男を水の中で両足で踏み、反動で何とか地上へと這い上がった。顔を拭って、大きく酸素を取り込むと部下たちが何だこの女はぁああと騒いでいるのが見える。何とかなったことにホッとしたのも束の間、軍服の一人が私の方に走ってきた。再び池に落とそうと、拳を掲げて。デジャヴだ。
「……もういい」
ピタリ。
しかし男の動きは、百鬼の一言により、私の目の前で静止する。百鬼が止めさせたのだ。
「っ…!はぁ、はぁっ…」
あの時のように、ゆっくりとした足取りで私のところへ近寄ってくる百鬼。私は息を切らしながらも、その姿をじっと見つめる。
「……4771番。何故そこまでして抗う。何故、苦しみに屈しない」
「…………」
そうだ、前の私は、こう答えた。
“…こんなの、苦しみでも何でもないわ…!両親が殺された日からの10年に比べれば…!”
でもね、百鬼、今は……。
「…こんなの、苦しみでも何でもないわ…百鬼…あんたに忘れられることに比べれば…」
私の言葉に、百鬼は不可解な顔をした。そして勢いよく百鬼の右手が私の頬を掴み、顔を百鬼の顔の前まで引き寄せられる。私も頬の痛みに顔を歪ませた。
「意味のわからないことをほざく余裕があるなら俺がいたぶってやる。もう這い上がれると思うなよ」
百鬼はそのまま血の池地獄へ落ちる瀬戸際まで私を追いやる。私は百鬼の右手を両手で掴み、抵抗を示した。
「っ……百鬼がっ…何回私を忘れてしまっても…何回私を虐げても…!絶対にまた救ってみせる…!……あの優しい百鬼に、こんな暗い眼は似合わないから…」
百鬼の右手に、私の涙が伝った。百鬼は一瞬、目を見開く。
グッ……!
百鬼の手によって再び後ろから血の池に落とされそうになった体が、ギリギリのところで止まった。
「…………、?」
私は涙でぼやける視界を、瞬きで広げていく。
「っ……」
止めたのは、百鬼自身だった。
「百……鬼……、?」
眉間に深い皺を寄せて、腕をピクピクと震わせて何かと戦っている。百鬼の左腕が、私の頬を鷲掴みにしている右手を力強く掴んだ。爪が食い込んで百鬼の右手からは血が流れていく。まるで自分の中で戦っているように、何かに抗っているようにして自分自身を止めている百鬼。歯を噛みしめているからか、口の横からツーと血が伝っている。
「百鬼…、」
「っ…うっ…」
苦しみの声を上げながらもがいている百鬼の右手を、私も強く掴んだ。
「百鬼……痛そうだよ…もうやめてよ…」
そして、血が流れている右手を、そっと優しく撫でる。
ふ、と、私の頬を掴んでいた右手の握力が弱まった気がした。
「…………、」
そして目の前には、無表情ながらも私をまっすぐに見つめ、片目から涙を流す百鬼の姿が。
「っ…、」
それを見た途端、私の胸の奥から切なさが一気に込み上げてきた。余計に涙が百鬼の右手を伝う。
「そうだよね……辛かったのは百鬼も一緒だよね…本当はこんなことしたくなかったよね…私だけじゃなかった……ごめんね、百鬼…」
両手を自分の頬を掴んでいる右手に移動させて、包み込むように優しく触った。すると、百鬼の涙がぽつり、と地面に落ちるのと同時に、右手の力が抜けていった。それを横から見ていた看守からは、戸惑いの声が聞こえる。
ただ茫然と私を見ている百鬼の傍に、一歩近付く。
_______もう、大丈夫。もう、冷たくない。
「悪い夢見すぎて疲れちゃったね……そろそろ起きよっか……」
そして、どちらからともなく抱き合った。
______温かい。…百鬼だ、私の知ってる、優しくて強い____百鬼だ。
「…………さくら……」
真上から、いつもの低くて優しい声がした。
「……起こしてくれて、ありがとう…………それから…………済まない」
きつく抱きしめられた私の肩に、一粒の雫が零れ落ちた気がした。
「ううん……大丈夫……大丈夫だよ、百鬼……」
私も涙が零れていく。起きよう、と百鬼に言われた途端に、ふわっと体から重力がなくなったような感覚に襲われたけれど、すぐ近くにある百鬼の温もりだけは確かにここにあった。




