変わってほしくないから
昨日の夜屋根の上から月を眺めた時に見えた木々の方へ歩いて行くと、そこは地獄でないような自然に覆われていた。豊かな緑色が生い茂るここだけがまるで異空間のようだ。近くには川が流れていて、私は久しぶりに赤色ではない水を見た。その水は横並びになっている私達が映るほど透き通っている綺麗な水だ。
「すごい…地獄にもこんな場所があったなんて」
確か初めて鬼ノ街道に潜入した時も同じような感想を言った気がするが、きっと誰しもがそう感じると思う。川のせせらぎを聞いているだけで、少し心が穏やかになってくる。自然の力は偉大だ。血にまみれる本物の地獄をたくさん見てきたからこそ、今この空間が天国化のように思えた。
「もしかして本当にここは天国……!?」
「……そんなわけあるか」
淡い期待は百鬼により一刀両断されたがまぁいい。口を尖らせて百鬼を見れば、急に百鬼は神妙な顔をして無言で立ち上がった。
「ど、どうしたの……?」
「………部下からの報告が入った」
百鬼は、自分の島の看守をあらゆる場所に配置させて周りの動きで怪しい所があればいつでも無線で報告するように手配しているようだった。何か起こったのだろうか。百鬼の表情からは何とも言えない感情が読み取れる。でも、何となく、いい報告ではないような雰囲気だ。
「……蛇小僧とでかぶつが……黄緑にやられた」
「!!あ、あの二人が…。閻魔選定にまだ参加してたってこと!?」
「…………いや」
百鬼の止まる言葉に、続きを早く聞き出したくて私も立ち上がる。
「……どうやら奴らは、俺達を手助けするために黄緑に立ち向かったそうだ」
……そんな。私達を、手助けするため?私達を襲ったあの二人が?
百鬼の言葉を聞いた途端、胸騒ぎがした。
「ふ、二人は大丈夫なの…!?」
「…意識はない。体も血まみれだそうだ」
「っ……!」
…どうして。まさか私達のためにそんなこと…。
「た、助けたいっ…!」
口から漏れた言葉と、百鬼の着流しを掴んだ手は無意識だ。助けたい。あの二人を助けたい。何で私達を助けてくれたのかとか、もしかして心変わりしてくれたのかとか、何でもいい。とにかく久須郎と与太造を助けたい。これが私の思いだ。
「…………」
百鬼は無言で私の様子を見つめた。真っ黒な眼に、自分の必死な姿が映る。百鬼は真っ直ぐに私を見据えていた。そして百鬼の服を掴んでいる私の手を優しく掴んで、服から離した。まるで、大丈夫だ、と言わんばかりに。
「……手当てができる看守はそちらへ向え。終わり次第持ち場に戻れ」
百鬼は無線に向かってそう言った後、看守の応答も聞かずぶっきら棒に無線を切った。きっと無線の向こう側では、いつもどおり響き渡るような声で、はっ、百鬼様!!と言っているに違いないが。
「ひゃ、百鬼……」
「…………黙れ」
「うぅ…まだ何も言ってないよ、」
「お前のためにやったんじゃない」
「だからまだ何も言ってないよ…でも、ありがとう…ありがとう百鬼」
私の表情から、私の反応などお見通しだったのだろう。百鬼は予防線を張ったように見えて、墓穴を掘っている気がした。ありがとう、と伝えると、頬を赤くして視線が逸らされてしまう。このくすぐったい感情、私も顔が少し赤らんだ気がした。
「久須郎と与太造…助かってほしいよ」
「……人好しの度が過ぎるな、お前は」
「そういう百鬼だって、随分と変わった」
「……前だったら絶対に私の言う事なんて聞き入れてくれてなかったと思うよ」
私は改めて百鬼を見る。百鬼の眼には、絶対にあの頃よりも明るい光が射しこんでいる気がする。さっき優しく掴まれた手が熱を帯びてきて、もう一度百鬼の手に触れたくなった。百鬼の右手をゆっくりと取って、両手で包み込む。温かい。番人の手でも、こんなにも温かい。
「な、何をしてる…」
「あ……えと、ぉ、」
この状況を不思議に思ったのか、百鬼が少しばかり上擦った声で沈黙を埋めた。それに対して、明らかにどもる大胆にも手を握っている私。
……伝えたい、。おかしいって思われるかもしれないし、番人は囚人なんか相手にしないかもしれない。でもこの自覚してしまった気持ちを、百鬼に伝えたい。
「あ、のね、百鬼……私、百鬼に伝えたいことが……、」
ドクンドクン、これ以上にないほど心臓が音を立てる。さっきまでは十分に聞こえていた川のせせらぎは一気に姿を消した。
「私は囚人なのに…その、変って思うかもだけど、私っ……ひゃ、百鬼のこと、」
す、
この音が唇から飛び出ようとした瞬間、私の身体は百鬼によって強く引き寄せられて大きく揺れた。
……いや、それだけじゃない。何度も鳴り響く金属音に、殺伐とした空気が張り詰めた。何が起こったか分からず混乱していると、百鬼の身体が離れ、耳元で下がれ、という声がする。やっと目を開けて周りを確認すれば、私達の周りにはたくさんのクナイが落ちていた。恐らくさっきの金属音は、飛んできたクナイを百鬼が二刀で弾いたことによる音だ。間違いない、敵襲を受けた。しかし攻撃を仕掛けてきた者の姿はどこにも見当たらない。
「……小賢しい真似だ。それで身を隠したつもりか」
百鬼はそう言うと、自分たちの斜め右側にある木を一瞬にして切り倒した。大きな音を立てて崩れ去った大木から二つの人影が降りてくる。
________歳ノ成か、黄緑さんか……!
どちらでもおかしくない状況に、私はごくりと息を飲んだ。その影はだんだんと姿を現す。しかし私の思考はここで完全に止まった。
「「………………………………さくら」」
何故なら、私の名前を呼んだその声……そしてはっきりと見えてきたあの姿。どちらも体が覚えている…いや、私が望んで仕方がなかった二人だったからだ。そう、10年前の、あの日から。
「……ママ……パ、パ、?」
喉の奥から出た私の声は掠れていた。体は勝手に震え出した。目の前に渇望していた二人の姿がある。地獄にいるはずないのにとか、いきなり現れるのはおかしいとか、正常な判断ができるはずもなく私は百鬼の後ろから身を乗り出す。二人が私の眼に入ってきた時から、勝手に涙が溢れてきたのだ。百鬼は私の言葉に目を見開いていた。そして周りの見えなくなった私に、おい、と声を掛けるも、私の耳にはもう入ってこない。
「ママ…パパ、どうしてここに……私…私、」
「さくら…会いたかった。ごめんね…私達のせいで辛い思いをさせて……ママもパパもね…あの日あの男に殺されてからずっとさくらが心配で仕方なかったのよ…」
「お前がパパたちのために10年間ずっと戦ってくれていたことはここからずっと見ていたさ…でももう苦しまなくていい。さくら、パパ達のところへおいで」
……あぁ。ママとパパだ。本物だ。
勝手に流れ落ちていく涙を拭くこともしないで、私は両手を差し出している二人のところに吸い寄せられるように一歩一歩近付いていく。
「……い、おい!」
「ママ…パパ…私も会いたかったっ…ママとパパに会いたかったよ…10年間、頑張ったよ……」
「おい!行くな!」
「地獄でもいいからさ…また一緒に暮らそうよ、。ママとパパと一緒にいたいよ……」
「さくら!!!!」
ガッ…
後ろから掴まれた腕に、私の視界にやっと二人以外の何かが入った。百鬼のこんな、切羽詰ったような表情は初めて見る。揺れる視界の中で、確かに百鬼は表情で訴えた。やめてくれ、と。
「百鬼……どうして、ママとパパがっ…ママとパパにやっと会えたんだよっ…」
「……あれは…お前の本当の両親じゃない」
「っ…そんなことないっ…!そんなことないよ!だって私の名前だって、10年前のことだって知ってた!」
百鬼にそう言われて、気持ちが圧迫されたような気がした。やっと掴めそうな希望を根本から絶つようなその発言に、少なからず反発心が芽生える。しかし百鬼は私の腕を頑なに離そうとしない。
「離してよ百鬼……」
「……だめだ」
「離して、」
「……お前を殺そうとクナイを投げるような奴が、本当にお前の両親なのか」
……重みのある言葉だった。時間が止まったかのように、その言葉だけが私の身体にのしかかる。そして私の映る百鬼の眼には…雨が降っていた。
クナイを投げて私を殺そうと……ママとパパが?
「…っ…でも…でもっ…」
やるせない気持ちから、心が葛藤して拳をこれでもかというほど握りしめる。
「さくら……?早くママとパパのところにおいで…ずっと待ってたのよ」
後ろからママの物悲しい声が聞こえる。
でも、気が付いた。
「ほらさくら…早く」
ママとパパの眼は……真っ暗だ。
「俺を信じろ……さくら」
百鬼……百鬼の眼は……明るいね。嘘のない、真っ直ぐな眼。何かを護りたい時に見える明るい太陽……。太陽だ。ごめんね百鬼、私自分を見失いすぎた。
「っ…ママと、パパの眼がそんなに暗いはずない…あの二人の眼にはいつも私を照らす太陽があったんだから…!」
私は唇を噛みしめて、二人の姿をした何かに向かって、そう言い放った。
「さくら……そんな……
それは残念ですねぇ……」
ママの仮面を被った何かは、突然獣のように鋭い眼をして、口元を吊り上げた。




