まるで夜空を彩る月のようだった
地獄の夜は暗い。昼間は空に浮かんでいる赤い血の塊は存在するものの、空色は赤というよりも赤褐色に変化し、辺りは薄暗くなってくる。それは囚人たちのいる島も、看守や番人たちが暮らす鬼ノ街道も変わらないようだった。
「暗いね。宿舎の外で夜を越すのは初めてだから驚いた」
鬼ノ街道をただ前進していくと、商業施設などは一切なくなりただの平野に出た。そこにいくつかある、壊れそうな民家。人の気配も全くない。それどころか化け物がでそうなただならぬ雰囲気に、私は思わずここ大丈夫?と前を歩く百鬼に尋ねた。
「…ここは昔、囚人になったばかりの俺が住処にしていた居住地だ。奴らはそれを知らない」
そう言うと百鬼は躊躇いなく5件ほど並ぶ民家の一番奥へ入っていく。何年も…いや、何十年も使われていなかったのがすぐにわかるほど中は荒廃していた。剥がれかけている木の壁、踏むたびに不吉な音を立て部分的に穴の開いている床、崩れかかっている天上。どこをとっても住めそうにはない。
「夜を越すくらいなら事足りるだろう」
百鬼は埃が被っていた暖炉の埃を剣圧で一掃し、更には転がっていた薪を二度擦り火を起こした。私と百鬼の眼に、炎が宿る。暖炉の前で胡坐をかいて座る百鬼がよく見えるようになった。
「あったかい…」
炎に手をかざせば、まるでストーブに手を近付けているかのような温かさが得られた。自然と張り詰めていた緊張が解れる。
「……寒いのか」
「んー、まぁ。宿舎の布団も薄くて夜は寒かったんだよね、まぁ、ここ地獄だから布団があるだけでありがたいんだけど……ってぶわっ!?」
突然視界に大きな影ができたと思ったら、顔に何かが覆い被さった。我ながら可愛くない声が出たと思いながらもそれから顔を解放すると、見慣れた黒色の羽織。
「何だその気色悪い声は」
「自分でも思ったよ!ってこれ、百鬼の羽織じゃ」
「…………」
「着てていいよ、ってこと?」
「……勝手にしろ」
勝手にしろ、百鬼の合意の合図だ。そっぽを向いている百鬼の頬が少し赤く見えるのは、目の前にある炎のせいだろうか。私はありがとう、と言ってそれをあの時のように肩から掛ける。温かい。何か、百鬼に後ろから抱きしめられてるみたい…………って何を考えてるんだ私はちょっと待ってちょっと待って今のはそういうんじゃなくて、お願い変態扱いしないでくれ!
「…おい、本当に百面相が得意な奴だな」
「ああああごめんなさい変態でごめんなさい!」
「は……?」
「しくった!何でもないの!」
頭が狂ったのかとでも言いたげな百鬼の視線を手で遮って、深呼吸をした。危ない危ない、自爆するところだった。それよりも、と話を逸らして、僅かな光が射しこむ小窓から外を指さす。
「月…!その、地獄に月は出ないの?」
我ながら意味のわからない話のそらし方だと思う。街灯も何もないこの場所でも僅かな光があるということは、空に月のように何かしら光っているものがあるということだろう。目についたものについて口に出した感じになったが、まぁいいだろう。
「…月、人間界には確かにあったな。地獄にはそんなものない。あの赤い、血塊のみだ」
「そ、そうなんだ…。あの血塊、じゃぁやっぱり微妙に光ってるんだね」
「…お前は月が好きなのか」
「え?あ、その…好き、っていうか、綺麗だな、と思うよ」
「……ついてこい」
百鬼は立ち上がって、民家の外に出ていく。ついて来いと促されるままに慌てて百鬼の後をついていき外に出ると、吹き抜けた風が妙に冷たく感じた。火の力はすごいんだと改めて思い知らさせる。
百鬼は民家の裏側にある小さな岩山に登る。百鬼は軽々と進んでいったが、百鬼の身長の3倍ほどのそれに登るのは、私にはなかなかの至難の業だ。見兼ねた百鬼がのろまと言いながらも上から私を引っ張り上げてくれた。登りきった小高いそこからは、さっきまでいた民家の屋根も見下ろせる。ただ、だだっ広いだけに見えたこの平野も、限りなく淵の方まで見渡せたことで、もっと先には木が生えていることもわかった。
横にいる百鬼は、腕組みをしながら空を仰いでいる。私も上を見ると、空に浮かぶ血塊が、近く感じた。しかし、さっきとは違う印象を受けることに気が付く。
「…………月?」
口からポロリとその言葉が出た。見ているのはさっきまで、いや、いつも見ていた血塊だ、それは間違いない。なのに、この岩山から見るそれはまるで人間界で見ていた美しい月を思わせるかのように黄色く、光っているように見えた。
「…看守になったばかりの頃、ここに身を潜めていた俺は…この角度から見る血塊がそれに見えて仕方なかった。毎晩のようにこのただの血の塊をそれに見立てて、あの頃家族と一緒に見ていた思い出を思い出していた」
そう言う百鬼は遠くの世界を望むかのように近くにある血塊のその先を見ているような気がした。
「……そうだったんだね。そう言えば私も、小さい頃よく家族とお月見したなぁ」
気が付くと、私はこの岩山の上に体操座りで腰かけていた。数センチだけ離れたところに、百鬼も片膝を立てて胡坐をかく。私達の間を涼しい風が通り抜け、髪を揺らす。血塊だとは分かっているつもりでも、百鬼と一緒に眺めるそれは、ひどく穏やかな光に見えた。まるであの時家族と眺めていたそれのように、いつまでも眺めていられるような気がした。
そう、あの時の楽しく、輝かしかった記憶が心の中に蘇る。笑っていた両親、そして私。あの頃の何も知らない私は、根拠のない大丈夫という自信が、いつまでも私達を明るく照らしていると思っていた。疑いもしなかった。




