もう泣かなくていいよ
与太造は素早いボクシングの動きで、百鬼の急所を的確に狙ってジャブを打ってきている。私が現役でムエタイをやっていた時にボクシング選手をたくさん見てきたけれど、あれほどまでに無駄のない動きをするボクサーを見たのは初めてだ。与太造はプロ選手並みの動きをする、それも怪我をしても尚だ。
でも、不思議なのは百鬼だ。動き自体は与太造に追いつけぬ感じを受けていたけれど、今は不思議と同じような速さで攻撃を繰り出し、躱しているように見える…。……あれ?百鬼の方が、上回ってる?
「…でかぶつ…お前の攻撃は見切った。もう当たらない」
「!?何を根拠もねぇくせに…ハッタリなんかに騙される俺じゃねぇ、このやろう!」
「お前、でかい体のせいでパンチを打った後に上半身の耐性を整えるのに僅かに時間がかかるだろう」
「!!」
「故に次の一手はまた体制を整えての正面のパンチは打てない…いつも金棒で相手との距離を測っていたのも、体をそのまま倒せるアッパーを選んでいたのも…そのせいだ」
「だっ…だから何だってんだこのやろう!それが分かったところでお前に勝機なんざねぇ!」
与太造は構わず強気に正面からパンチを打つ。その攻撃は先程のように百鬼の顔面に直撃する。そして次の一打で決着をつける____…そのつもりでよろめく百鬼にもう一度拳を振るうため腕を上げようとした。しかし、与太造は信じられないものを目にすることになる。
「なっ…てめぇっ…!?」
百鬼に直撃させられたと思った拳は、百鬼の手のひらで受け止められていた。そしてその後ろに見えたのは、百鬼の笑う顔。まずい____、与太造は本能的にそう感じ取った。
「…単純な奴だ」
百鬼の拳が、与太造の顔を歪めた。血を吹く与太造の腕をそのまま掴んで前のめりにさせ、スキンヘッドに膝蹴りを命中させる。与太造の身体はとうとう先程百鬼と私がぶつかった岩山に激突し、その衝撃で岩山が崩れた。
強い。圧倒的な強さだ。隙がない。これが閻魔筆頭候補になる百鬼の強さ…番人相手に全く寄せ付けない。瞬きする暇もないくらい、私はその姿に目を奪われていた。何よりもその強さの核には百鬼自身の思いが乗っているような気がしてならなかった。己の意志で拳を振り、大切なものを守り通す。まさに人間だ。
ガラガラと岩を転がす音を立てて立ち上がってきたのは、血だらけの与太造だ。そして悔しくて堪らないといったように唇を噛みしめ、叫んだ。
「おい囚人どもぉおおお!百鬼の奴に仇討すんだろ!?やれよこのやろう!今!やってみせろ下僕どもがぁあああ!」
血を吐き出しながら囚人たちに叫ぶ与太造。囚人たちは体をビクッとさせて、強張らせた。百鬼は冷静な眼でその様子を見つめる。彼らは分かっている。どちらを選んでも地獄だと。首を跳ねられ、生涯地獄の住人になるのだと。だがそんな中、あの時…私の胸倉を掴んだ男が、あの時以上に震える手を高く挙げて、言葉を発した。
「っ…百鬼様は…さくらを守った…!さくらの言ってることに本当に嘘はなかった…!すまねぇさくら…!俺も覚悟を決める…最期は自分の意志で…!与太造様、俺はっ…俺は自分の身の安全だけ考えてたクズです!あなたの下にはやっぱりつけません!や、やるならやれ…!」
男は眼を力強く瞑り、そう言い切った。そして他の囚人たちも目に涙を溜めて、同じように与太造に逆らう。等々与太造の青筋が切れた。
「囚人のっ…囚人の分際で、力のある俺に逆らうのかこのやろう!!俺はな、人間界にいた時から力で何でもねじ伏せてきた!力のあるものが強いんだ!偉いんだ!気に食わねぇんだよ、俺の上に立とうとするクズどもが…!全員痛い目見させてやらぁあああ!」
百鬼にあれほどまで痛めつけられ、両腕も使えない状態でまだ動けるのかと信じ難いが、瓦礫を凄まじいパワーで吹き飛ばし、獣のような眼をして立ち上がった。金棒なしで、足のみで戦うつもりだ。その執念はやはり異常だ。
力、力、力…与太造はそう言う。百鬼に向かって雄叫びを上げながら走ってくる与太造に回し蹴りを入れたのは…そう、百鬼ではない、私だ。ムエタイの必殺技が見事に鳩尾にヒットし、与太造は再び吐血した。
「、…!お前、」
百鬼が驚いたように、自分の前に出てきた私に言葉を漏らす。
「力で強さや権力を手にしたつもりかもしれないけど…それは違う。本当に強い人は、大切なもののために戦える人。大切な何かのために…命をかけて、時には自分を犠牲にして…それでも護り通そうと戦った人のことだよ」
「……!」
“百鬼…いいのよ。母さん達はあなたが無事なら…これ以上何もいらない”
“お前は一生懸命に生きるんだ…例え父さんたちの魂が消滅しようとも”
“そんなの嫌だ…!一人だけ助かりたいなんて思わない!父さんと母さんを犠牲にしてまでっ…!”
“まだ…ギブアップしてない…。勝手に敗北を決めつけたのはあんただけよ…!”
“自分を捨ててまで…助かろうなんて思わない。もし人間界に帰れても、そこには空っぽの私しかいない。百鬼…私はあんたの思い通りになんて動かない。自分の意志で、自分を…みんなを護る”
“できないよ。百鬼にはできない。…まだ人間の心を忘れてない百鬼には、難しい”
“百鬼のお父さんとお母さんは…きっと何かすごく大切なものを護りたかったんだと思う…”
“泣けなくたっていいんだよ…辛いときは、代わりに私が泣いてあげる。百鬼は一人じゃない。お父さんもお母さんも…私もいる。だから…、もう本当の自分を取り戻していい”
この時私の後ろで百鬼が今までの事を思い出していたことも、二刀を握る手を強くしていたことも、勿論私は知らない。ただ、消え入りそうな小さな声で、そうだな…と聞こえたのはきっと、幻聴じゃない。
「だからっ…だから百鬼はクズなんかじゃない…!寄り道もしたけど…自分の護りたいもののために戦い続けた、ただの強い人間なんだよ…!」
また泣いてしまうなんて、みっともない。許してほしい、自然と涙が溢れて来るんだ。
「もういい」
突如、泣いている私の後ろから頭まで隠れる大きな布が覆い被さった。思わずわっ、と声を出す。百鬼だ。この声は百鬼の声だ。私の頭から覆いかぶさったのは、百鬼がいつも来ている着流しの羽織だろう。ふわりと、今はもう怖くない香りが鼻を掠めた。振り向こうとすると、百鬼の大きな手が私を慰めるように頭に乗って、上手く振り向けなかった。
「もう泣かなくていい。十分だ」
顔が見えない百鬼はそう言うと、倒れたままの与太造の方へゆっくりと歩いて行く。目の前まで来たところで足を止め、真下にいる与太造を見下ろした。
「…でかぶつ。地獄にも、太陽は昇るようだ」
「……はっ。一番そんなものを毛嫌いしてたお前がそんなことを言う日が来るなんてな…長生きは、してみるもんだぜ…このやろう」
「あの光は…中毒性があっていけないな。お前の言う力を討ち負かすほどの光だ。恥じることはない」
「…ふんっ、通りで…お前もそれに毒されたということか、このやろう」
与太造は百鬼の真っ暗だった眼の中に太陽を見て、何かを悟ったように薄らと笑った。
「この勝負、俺達の勝ちだ」
百鬼がそう言うと、与太造の身体に、力強い拳が綺麗に入った。




