忘れられないよ
…どうしても眠れない。体の奥底から色々な感情が押し寄せてくる。頼りにならないペラペラな布団を何度も被り直す度、横にいるおばあちゃんの規則正しい寝息が聞こえて焦った。
私は帰ってこられた。鬼ノ街道から無事に、囚人の島へ。宿舎で気が気でなく待っていてくれたおばあちゃんは私の姿が見えた途端、走り寄って抱きしめてくれた。横にいた英雄も言葉にはしないが私の頭に手を置いた。団寿も、看守の立場であることをすっかり忘れたように私の手を握り大きく振った。腕がもげるかと思うほど。ここにみな無事に帰してくれたのは百鬼様だ、と英雄が言ったのが皮切りじゃない。私の頭の中にはここに帰ってくる間もそいつの事で一杯だった。
あの時____百鬼は私に口づけをしようとしたのだろうか____。
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動けば鼻の頭が掠めてしまいそうなほど、すぐそこに百鬼の綺麗な顔がある。唇の距離が狭まっていく。私は反射的に眼を瞑った。
「っ…!」
…百鬼の動きがぴたりと止まった。
「っ、ここを出る」
「っうわ!?」
唐突に突き放された手と、遠くなった唇の距離。百鬼は怒ったように歩幅を大きくして今度こそ足早に門出口へ向かっていってしまう。胸の戸惑いを必死に抑えながらも百鬼の後を追いかけると、百鬼が出口で私の方を振り向いた。
「…今日のことは、忘れろ」
そう言った百鬼の顔は、何かを悟ったような、諦めているような__ひどく物悲しいものだった。待って____!その声が響いた先に、もう百鬼の姿はなかった。目の前にあったのは、囚人島の宿舎。いつの間にか私は鬼ノ街道を抜けてここへ帰ってきていた。
「…忘れられるわけないよ…」
また泣いてしまいそうになった気持ちを堪えて、宿舎へと足を伸ばした。
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「あんれぇ、こんなところに珍しいお客さんがいるねぇ」
「…………」
「ちょちょちょだから出会ってすぐ斬りつけようとするのやめてもらっていい!?僕まだ皮肉も何も言ってないよ!?存在しただけだよ!?」
地獄墓石門より数百メートル、この地獄資料庫には膨大な量の資料が眠っている。どれもこれも血や埃で汚れてしまっているような紙ばかりだが、一人一人の囚人の地獄へ来た要因、地獄でどのような罰を犯したか、輪廻転生したのか、消滅したのか等が細かくまとめられている。所謂閻魔帳の詳細版といったところだ。この地獄資料庫は一部の看守と番人、閻魔、閻魔大王のみが入室を許可されている。中は薄暗さもあり、なかなか不気味な場所である。そんな書庫にて、番人の黄緑と百鬼は顔を突き合わせることとなった。
「百鬼が調べものなんて、この地獄に槍でも振るのかな?ま、地獄には普段から槍より惨い血が散々振ってるけど…。確かここは閻魔様の拠点が近いから立ち入りたくないんじゃなかったっけ?」
「お前に構っている暇はない」
「さくらちゃんでしょ。冷徹無慈悲鬼畜阿保無関心無愛想の百鬼をそうさせてるの」
「……」
百鬼は黄緑の言葉に耳を貸そうとはせず、分厚い資料を閉じて資料庫から出ようとする。
「百鬼、感情を忘れた君に、その感情の名前を教えてあげようか」
しかし黄緑はそんな百鬼の背中に構わず槍を投げ続ける。
「愛だよ」
ギイィ、資料庫の扉が音を立てるのを止める。あまりの言葉の響きに、思わず百鬼は扉を開ける手を止め、怪訝な顔で黄緑の方を振り返った。黄緑と百鬼の視線がやっと交わる。
「…愛?随分と不可解な言葉を使うようになったな、黄緑」
「そう?それが嫌なら恋、に言い換えてあげてもいいよ」
「お前…俺のことをどんな人間か知っていながら、そんなふざけたことをよく言えたものだ」
「ふざけてなんかないよ。愛も恋も原動力。君はさくらちゃんに恋をした。情も希望もないこの地獄で。さくらちゃんも殺せないのも、久須郎から助けたのも、鬼ノ街道から逃がしたのも全部…君があの太陽に恋い焦がれたからだ。そうでしょ?」
「…」
「閻魔選定まで残り12日、閻魔筆頭候補の君は色んな番人に狙われるだろうねぇ。勿論、分かりやすい君に好かれた可哀想なさくらちゃんも然りね」
キィン、!
「…おっとっと。相変わらず怖いなぁ百鬼は。いきなり首取りにこないでよ。そうなる前に先に番人消そうって魂胆かい?」
二刀を抜いた百鬼は、構わず黄緑に斬りかかる。棚に入れてあった資料が裁断されてはらはらと宙を舞った。黄緑は自分の刀でそれを防ぐ。
「…あいつには手出しするな」
「あらら、これは思ったよりも重症だね」
「あいつを虐げるのは俺の役割だ」
「そんなこと言って…今の気迫でまた確信がもてたよ。でも安心して、僕はさくらちゃんを苛めたりしないし、殺したくもない」
黄緑は剣圧で百鬼の二刀を振り払うと、それを鞘に納める。
「君の恋敵くらいに思っていてくれればいいさ。さくらちゃんと約束したからね、百鬼に苛められたら僕のところへおいでって。君が他の番人からさくらちゃんを護れないなら、僕が代わりに護ってあげるよ」
「……お前はそんなやつじゃない。閻魔の操り人形が」
「人の親切は聞いておくべきだよ。現に与太造も歳ノ成も…君のその心の動揺に気付かないはずがない。その原因がさくらちゃんだと知ったら…それを狙わない理由がないだろう?姫を護る騎士は多い方がいい」
「…お前こそ、閻魔の座を狙う獣の眼をしているように見えるが」
「ふふ…僕だって閻魔選定には意を決して挑むさ。ただ、想い人を救うため人間界での濡れ衣を晴らそうと資料を読み漁る可愛い後輩にアドバイスを、と思ってね。ま、先輩のアドバイスを素直に聞き入れるような従順な犬じゃないことくらいは分かってるけど」
頑張ってね、騎士様。
黄緑は口元を吊り上げて百鬼の前から姿を消した。百鬼はその場に立ち尽くし、頭の中を張り巡っている考えを手の平で握りしめる。
「…………これがもし、そんなものだったとしても…俺にそれを手にする資格はない」
あの女が俺の代わりに涙したあの時、どうしようもなく抱きしめたくなったのも、自分の存在が消えたらと示唆してきた時口づけをしたくなったのも…もしこれが愛だとしても、人間を苦しる立場になった俺には、それは美しすぎる。
百鬼は自嘲したかのような笑みを一つ浮かべて、二刀を戻した。どうしようもない心のざわめきが、自分を元の世界に連れ出そうとしているのを肌で感じつつ、それを無理矢理抑え込む方法しか知らない。ならばせめて、あいつを…あの女を人間界へ帰す。閻魔になればその権利が与えられる。そして、両親を殺させた縁峰を…地獄の果てに落とすことができる。その先は…また太陽のない真っ暗な道をただただ無機質に歩んでいくだけだ。今までと同じように感情を殺していくだけだ。
自分の進む道はそれでいい。それが俺に課せられた業だから。
百鬼は再び分厚い資料を手に取り、暗がりの空間で何時間も何時間も、文字に目を当てた。




