きっとどんな言葉も、今は安くて敵わない
ゆっくりと、体が離れる。私を虐げてきたこの鬼に対して、体温が名残惜しいと思ってしまうなんて、私は地獄に来ておかしくなったのかもしれない。百鬼は、どんな顔をしてるんだろう。何となく眼を合わせることに怖気付きながらも視線を斜め上に上げると、そこにはいつもの表情で私を真っ直ぐ見つめている百鬼の姿があった。妙に恥ずかしくなって、視線を逸らし話題を振ろうとしたとき、百鬼の声が聞こえる。
「10分だったな」
「っえ、?」
「…お前の要望だ」
「あ、あぁー、そ、そう!確かにそう言ってた…!」
「今からだ。…こっちに来い」
体が離れた後の百鬼はまるでいつも通りのように戻り、私を土地一杯の墓石が見渡せる岩山へと導いた。そのことに少し寂しさを感じながらも、ちゃんと私の条件を飲もうとしてくれる優しさに、出会った日とは随分変わったように思えた。岩山に登り地獄墓石を一望すると、その広大さに思わず声が漏れた。
「俺と何を話すというんだ」
「…これを話したいっていうことはないよ。ただ、百鬼が太陽は昇らないって言ったから。私を見て、俺も初めはそんな眼をしていたのかもって言ってたから」
「……」
「いくら私を虐げてる番人でも、放っておけなくて居ても立ってもいられなくなった。どこか自分と似てるって重ねてるのかもしれないけど…」
「……」
「…でも、久須郎から助けてくれた時に、鬼の街道に乗り込んでよかったと思った。冷徹無慈悲な百鬼に、やっぱりまだ人間の心があるってわかったから。それにさっきも…」
あの時の抱きしめられた感覚が蘇ってきて、自分で言っておいて言葉を濁らせる。しかし何も反応しない百鬼に、私は思わずむっとする。
「……一人で話し続けるのも、なかなか辛いんだけど…。もしかして10分何も言わないつもり?百鬼」
「…お前…人好しにもほどがあるんじゃないか?」
「あ、喋ってくれた。ていうかそれおばあちゃんにも言われた」
「俺はお前を虐げる担当番人で、賭けの相手だ。その俺の心配をして、お前に何の得がある?」
「得…?こんなこと損得感情で考えてないよ。私は目の前の光を救い上げたいだけ。それだけ」
百鬼はまたもや止まってしまった。そしてその場に腰を下ろして、地獄墓石を見渡す。
「…お前は確か、ここへ来たのは何かの間違いだと言ったな」
数秒経つと、百鬼は遠くを見ながら話した。
「…重罪人にされるようなことは、まだ未遂だったから」
「数百年前…俺も俺の両親も、人間界で罪を被せられて殺された。何故か行き着いた先はこの地獄。俺と両親は憤慨した」
「…、!」
「何故、罪を犯してもいない俺たちの行く先が地獄なのか…何故罰を受けなくてはならないのか。俺は絶対に人間界へ帰ると…そう啖呵を切った。…お前のようにな」
「…百鬼も…」
「だが、待っていたのは無残な地獄。俺と両親は反逆の意志があるとみなされ当時の番人たちから目をつけられた。そして…俺は…両親を殺した」
「っ…?」
:
「父さん…母さん…嫌だ、嫌だ…!早く逃げて、逃げてくれ…!」
落ちていた二刀に勝手に手が吸い寄せられていく…。いつの間にかそれを握り、刃先が父さんと母さんの方へ向いた。離したくても離せない、まるで自分の手ではないように…。
「百鬼…いいのよ。母さん達はあなたが無事なら…これ以上何もいらない」
「お前は一生懸命に生きるんだ…例え父さんたちの魂が消滅しようとも」
「やめてくれ…一緒に人間界に帰るんだよ…!お願いだから、俺から逃げてくれ!」
「…母さんと父さんは、もう人間界へ戻れない…。でも百鬼、あなたは違う。私達が命を落とせば、あなただけは許してくれると縁峰様が言ってくれた」
赤い看守服を着た父さんと母さんは、武器も何も持たず、麻の服を纏った俺の二刀から逃げようとはしてくれなかった。ただただ、涙を流して俺に微笑みかけた。
「そんなの嫌だ…!一人だけ助かりたいなんて思わない!父さんと母さんを犠牲にしてまでっ…!」
「ごめんな百鬼…お前を一人にして、ごめん…!でも、生きてくれ…!」
「と、父さん…母さん…、うわぁあああああ!」
俺の意志とは裏腹に、俺の両手は両親の首を切り裂いた。赤い多量の雨が、俺の上に降った。両親の眼から太陽の光が消えていく____。そして俺も、この時、全てを失った。情も、希望も、己さえも。この地獄に太陽などない。そんなもの存在しない。ここはもっと無情で、冷酷なのだ。
:
掛ける言葉が見つからなかった。きっとどんな言葉も、今は安くて敵わない。
「……百鬼を操って…そんなことをしたのは…一体誰、なの?」
震えてしまう声でそう問えば、百鬼は私の方を振り向いて口を動かした。
「…現閻魔の、縁峰」
「…!」
「奴は特殊な能力で、自分の触れたものを操ることができる。自分に盾突く俺達を消すために俺を操り、既に看守となっていた両親の首を跳ねた。そしてその後、俺の首を跳ね、俺を看守にした」
「…っそんなの…」
「この地獄墓石には、輪廻転生できず消滅した魂が祭られている。ここをいくら探しても良心の墓石は見つからなかった。だが…お前の持っていた鍵で開いたさっきの門内に、やはりそれはあった。…閻魔は永久に閉じ込めたかったんだろう、太陽を」
太陽…百鬼のお父さんとお母さんのことだ。きっと心の優しい、温かい人たちだったんだろう。墓石を触っただけで、たくさんの思いが伝わってきたのが、何よりの証拠だ。
「この地獄は情も希望も何もない。恐怖と絶望が渦巻く世界。だからこそお前の眼は解せない。その太陽を打ち砕き本当の非情を知らしめようとした」
「…うん」
「だが消えない…消せない。お前を見ていると…蘇ってしまう。あの時確かに宿していた、情や希望が」
気が付くと、私は百鬼の隣へ移動し、百鬼の傷だらけの手に自分のそれを重ねていた。こんなもので、何百年も一人で凍えそうな心を抱えて生きてきた百鬼の何かが拭えるとは思ってない。でも、砂粒くらいの光でも、百鬼の心に蘇ってほしいと、そう願った。
「…囚人のお前に話す内容ではなかったな」
「……百鬼」
冷静さを取り戻したのか、10分を体感で感じたのか、百鬼は立ち上がって門出口へ向かおうとした。それを引きとめるかのように名前を呼べば、百鬼の足が止まる。
「もし私の魂が消滅して百鬼の言う太陽がまた消えたら____悲しい?」
そして、振り向いた。何を言い出すんだ、と言いたげでありながら、その動向は見開かれたように思う。別にそれに対する答え何て期待して言ったわけじゃなかった。ただ百鬼の、即答のNOがなかっただけで、私は十分満足だった。
だから、予想にもしてなかった。
私の問いに対して百鬼が足早に私との距離を詰めて、腕を掴み、唇が触れそうなほど顔の距離が近づく展開になるなんて、考えてもみなかったのだ。




