腕の中の温もり
ひんやりと、どこからか分からない風が私達の間を通り抜けた。鬼ノ街道を外れること100メートルほど、今まで目にしてきた禍々しい鬼の顔をした門とは違う、大きな石でできた門が姿を現した。空気が違う。百鬼が目指した目的はここで、きっとここが地獄墓石門だということが何となく分かった。
「…ここにその鍵を使えばこの石が開くの?」
「…ここではない。ここは既に空いている」
「え?」
百鬼が私達の2倍はあろう大きな石に手を合わせると、石が低い音を立てて左右に開き始めた。中に姿を現したのは、眼を日張るような、どこまでも続く広大な土地。そして十字架の墓石がずらりと列を成していた。異様な光景に、私は思わず息を飲んだ。
「来い」
立ち尽くしている私に、百鬼は声を掛けてくれた。数々の墓石には一つ一つ、その人の名が彫られている。あぁ…この地獄で死に、消滅した魂の墓なのだろう。それらの横を通って百鬼の後をついていくと、今度は小さな門の前に辿り着く。赤褐色をした、随分錆びてしまった門だ。何故だろう。ここから先に立ち入ることを、心が躊躇っている。先に進めばもう戻ってこられないような、確信のない恐怖感が侵食してくる。そんな私の心を知るはずもなく、百鬼は鍵を入れ回すと、ガチャリ、開錠する音がした。
「…………何、これ」
錆びついた扉が全て開くと、そこにはたった一つの墓石が姿を現した。門の外に数えきれないほどある墓石と、何ら変わらない。どうしてこの一つだけが、この門の中にあるのだろう。墓石自体が年季が入っていて文字が薄らとしか見えないが、二人分の名前が彫られている。同じ墓に眠っているということは、夫婦?それとも親子…?
「…百鬼?」
百鬼はこの墓石を見付けてから、時が止まったように動かなくなった。私が顔をそっと覗きこんでも、この墓石を見つめたままだ。…もしかしたら、百鬼にとってこれは本当に特別なものなのかもしれない。普段なら私が様子を気にして顔をのぞき込んだらぶたれるところだ。そんな素振りも全く見せないあたり、きっと何か思い入れがあるんだろうな。そう思った私は、長い年月によって被ってしまった砂埃を払おうと、そっと墓石に触れる。
「…!」
でもその手は、すぐに止まった。石に触れた瞬間、不思議と自分の中で感情が渦巻いて、私を乱した。誰だろう…自分にはない誰かの感情が、思いが、私の体の中一体に流れ込んでくる気がした。私にはそれを塞き止めるだけの大きさのダムはない。体から溢れてしまったものは、涙として流れ出てきた。
「…………何故お前が泣く、4771番」
百鬼が私に小さな声で聞いた。
「…分かんない…分かんないけど…この墓石に触れた途端、この人たちの思いが流れ込んできたの…。すごい、心臓がぎゅって握りしめられてるみたいに苦しくなって、でも切なくなって…。何か、生きたいって…生きたいって、思った、。多分ここに眠ってる二人の声だよ…」
自分でも不思議だった。こんなふうに、原因も分からず涙が止まらなくなる感情は初めてだ。
「ここに入る前は、どうしてか怖いなって思った、入ったらもう戻れないかもしれない気がして…でも入ってみたら、この二人の捨てきれない希望みたいなものとか…何かを護りたかった心苦しい無念とか…そういうのが流れ込んできて、泣くなんて私も思ってなかったよ…」
「…………」
私の鼻をすする音だけが、閑静な空間に響いた。百鬼の表情は、とっくに涙で歪んで見えなくなった。でもきっと、百鬼も辛い顔をしてる。この墓石から感じる思いと、百鬼に感じていた切なさはどことなく似ている。
「…この墓石は…俺の両親の物だ」
「……………………えっ?百鬼の…?」
静かにそう言った百鬼も、泣いているのだろうか。いや、涙は出ていないけど、きっと心が泣いている。今思えば初めて会った時から、百鬼の心が晴れていることなんてなかった。
「…お前の先程の言葉は本当か」
「さっきの、言葉…?」
「この二人の思いだ」
私は手で涙を拭う。百鬼は見たことのない顔をしていた。
「百鬼のお父さんとお母さんは…きっと何かすごく大切なものを護りたかったんだと思う…それに、もっと一緒にいたかったって…でも叶わない願いだってことを知ってるみたいに…苦しいの」
「…………そうか」
それだけ言うと、百鬼は門の外へと出て行ってしまう。私も後ろ髪を引かれる思いをしながら涙をもう一度拭って百鬼を追いかける。百鬼は門の外すぐに立ち止まっていたようで、私は鼻を百鬼の背中にぶつけた。
「…皮肉なものだな…」
「…?」
「…俺はもう、こんな時にすらどのような顔をしたらいいのかわからない」
百鬼は赤い赤い天を仰いだ。あれほどまでに百鬼は強いのに、その背中はひどく脆さを感じさせた。
「…お父さんとお母さんの護りたかったものは…百鬼なんだよ」
自分でも、随分断定的な言い方をしたと思う。墓石が話をしたわけでも何でもない。でも、そんな気がする。百鬼は暫く言葉を途切れさせた。
「だから…誇ればいい。百鬼はやっぱり一人なんかじゃない。」
百鬼が私の方を振り向く。いつもの光のない眼。しかしそこに、今日は雨が降っている。
「それは…例え俺が両親を殺したとしてもか」
…ドクン、。
私の心臓が、百鬼の言葉によって大きく音を立てた。
「百鬼が……殺した?」
「数百年前、両親は俺と共にこの地獄に落ち…俺が殺した」
「…!そん、な…。」
自分の両親を、百鬼が…。どうして…。ドクンドクンと脈打つ心臓が、私を焦らせた。でも、それでも…あの時涙として出てきた二人の思いも、百鬼のあの顔も…、
「お互い大切に思ってないと、できないよ…。だから悲しいんだよ」
唇を噛みしめて本心を言えば、再び空間が閑静に包まれる。私は百鬼の言葉を待った。目と目が合う状態が、しばらく続く。自分の鼓動の音だけが耳に届いた。
「…本当に腹立たしい太陽だ」
百鬼の手が、私の頬に触れた。いつものように、乱暴にではない。そっと、添えるように置かれた手からは少し優しさが感じられる。
「だが…ほんの少し、蘇ってしまった…」
ゆっくり、そっと。私の頬を触る手が撫でるように揺れる。
「捨てたはずの情も…希望も」
百鬼の物悲しい眼から視線を逸らすことができなかった。これはさっきと同じ、百鬼の言葉にできない思いが頬を伝って私の中に流れ込んでくる。百鬼の中にまだあると信じた“人間の心”が、私の涙を誘う。
「太陽…お前に問う。こんな時、どんな顔をすればいいんだ…?お前のように涙を流せばいいのか。だが俺は、とうに涙の流し方なんて忘れた」
百鬼は私の伝う涙を、指で拭った。その手の平に私も自分の手を重ねる。百鬼は驚いたように目を少し開けた。
「泣けなくたっていいんだよ…辛いときは、代わりに私が泣いてあげる。百鬼は一人じゃない。お父さんもお母さんも…私もいる。だから…、」
もう本当の自分を取り戻していい。
そう言った瞬間、私の身体は百鬼に勢いよく引き寄せられ百鬼の腕の中へと収まった。
「っひゃっ…百鬼…?」
突然のことに、違った意味で心臓が音を立てる。力強い腕からは勿論逃げることはできない。暫く続く沈黙は、私を困惑させた。
「…こうしたくなったのは…俺がおかしいのか?」
ドクン、ドクン。今度は私だけじゃない。百鬼の鼓動もしっかり聞こえてくる。圧倒的な恥ずかしさと緊張があるものの、耳に届いた百鬼の声は相変わらず切なさを帯びていた。
「…ううん。おかしくなんかないよ」
「…そうか」
私も百鬼の背中に腕を軽く回せば、百鬼の力が更に籠った気がした。そして暫くこのまま、ただただお互いの体温を感じていた。




